神保修理と徳川慶喜の大坂城脱出
『昔夢会筆記』によれば、1月5日夜、神保修理は徳川慶喜に謁見し、「事ここに至りては、もはやせんかたなし。速やかに御東帰ありて、おもむろに善後の計を運らさるべし」と具申し、慶喜は、「神保の建言を聴きたれば、むしろその説を利用して江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心」したという。
『徳川慶喜公伝』にも、東帰決心意の経緯は、「神保修理の言上ありしかば、此に愈東帰の決心を固め、板倉伊賀守、永井玄蕃頭へ謀議したり」とあるが、修理の意見具申以前に、松平信敏を大坂町奉行に任命して東帰の準備に動き出していたことは既に述べた。修理に会う以前に、密かに東帰を決め、板倉勝静や永井尚志に伝えていたのである。
神保修理は、徳川慶喜に対して東帰言上したが、将兵を置き去りにして自らが黙って逃げるようなことを勧めたのではない。慶喜の大坂城脱出を知った修理は、「今度の御東帰其機にあらねば、却て後害深からんを恐る、急に馳せて諫止し参らするにしかず」(『七年史』)と、慶喜の後を追うのである。しかし、これも修理にとって身を危うくする行動となった。
神保修理の勧めにより、徳川慶喜が東帰を決めたという情報は、会津藩側に流れたのだろうか、それとも、それまでの修理の言動から推測されたものなのかわからないが、会津藩では、慶喜の東帰に対して、修理の責任を追及する声が大きくなり、修理はついに切腹するのであるが、徳川慶喜の無責任な行動によって、修理が責めを負ったとしたら、あまりにも気の毒に思える。
『昔夢会筆記』によれば、1月5日夜、神保修理は徳川慶喜に謁見し、「事ここに至りては、もはやせんかたなし。速やかに御東帰ありて、おもむろに善後の計を運らさるべし」と具申し、慶喜は、「神保の建言を聴きたれば、むしろその説を利用して江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心」したという。
『徳川慶喜公伝』にも、東帰決心意の経緯は、「神保修理の言上ありしかば、此に愈東帰の決心を固め、板倉伊賀守、永井玄蕃頭へ謀議したり」とあるが、修理の意見具申以前に、松平信敏を大坂町奉行に任命して東帰の準備に動き出していたことは既に述べた。修理に会う以前に、密かに東帰を決め、板倉勝静や永井尚志に伝えていたのである。
神保修理は、徳川慶喜に対して東帰言上したが、将兵を置き去りにして自らが黙って逃げるようなことを勧めたのではない。慶喜の大坂城脱出を知った修理は、「今度の御東帰其機にあらねば、却て後害深からんを恐る、急に馳せて諫止し参らするにしかず」(『七年史』)と、慶喜の後を追うのである。しかし、これも修理にとって身を危うくする行動となった。
神保修理の勧めにより、徳川慶喜が東帰を決めたという情報は、会津藩側に流れたのだろうか、それとも、それまでの修理の言動から推測されたものなのかわからないが、会津藩では、慶喜の東帰に対して、修理の責任を追及する声が大きくなり、修理はついに切腹するのであるが、徳川慶喜の無責任な行動によって、修理が責めを負ったとしたら、あまりにも気の毒に思える。