京都にあった大目付松平信敏(松平大隅守)と江戸の同役滝川具挙(滝川播磨守)に、交替の命令が発せられたのは、慶応3年11月頃だが、滝川が上坂したのは12月下旬のことだった。
その頃、徳川慶喜は、王政復古クーデタによる、復古政府と旧幕府勢力との一触即発の事態を避け大坂に下っていたが、予断を許さない情況であった。
信敏は、江戸に下らず、そのまま大坂に留まり、翌年1月3日の鳥羽・伏見の戦いを迎えることになった。
旧幕軍敗報が伝わる中、1月5日信敏は突然、大坂東町奉行に任じられた。翌6日には、徳川慶喜の大坂城脱出を告げられ、八軒家に出向き、乗船の準備を整え復命したところ、さらに乗替の船の準備のため、天保山行きを命じられた。
その後、信敏は、開陽艦へ出向いて副長の澤太郎左衛門に面会して東帰の内命を伝え、慶喜一行を待ち、随従して江戸へ帰っている。
東帰後、勘定奉行に任じられたが、徳川慶喜の恭順・謹慎にともない、2月御役御免となった。
信敏が内命を受け、乗船の準備に向かうときに、大坂城桜門辺りで出逢ったのが、会津藩士神保長輝(神保修理)である
その頃、徳川慶喜は、王政復古クーデタによる、復古政府と旧幕府勢力との一触即発の事態を避け大坂に下っていたが、予断を許さない情況であった。
信敏は、江戸に下らず、そのまま大坂に留まり、翌年1月3日の鳥羽・伏見の戦いを迎えることになった。
旧幕軍敗報が伝わる中、1月5日信敏は突然、大坂東町奉行に任じられた。翌6日には、徳川慶喜の大坂城脱出を告げられ、八軒家に出向き、乗船の準備を整え復命したところ、さらに乗替の船の準備のため、天保山行きを命じられた。
その後、信敏は、開陽艦へ出向いて副長の澤太郎左衛門に面会して東帰の内命を伝え、慶喜一行を待ち、随従して江戸へ帰っている。
東帰後、勘定奉行に任じられたが、徳川慶喜の恭順・謹慎にともない、2月御役御免となった。
信敏が内命を受け、乗船の準備に向かうときに、大坂城桜門辺りで出逢ったのが、会津藩士神保長輝(神保修理)である