上杉憲顕(憲秋とも)は氏憲の子。
享徳4年正月(1455年)足利成氏の軍と分倍河原の戦いに会戦、
深手を負い高幡寺に入り自刃した。
自然石はその墓標で、俗間信仰に茶湯石(服石)と言い、
百か日忌払い供養の伝承がある。(鎌倉大草紙)
分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、
室町時代後期の享徳4年(1455年)1月21日・1月22日に、
武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、
足利成氏率いる鎌倉公方勢と上杉顕房率いる(総大将は在京の上杉房顕)
関東管領勢との間で行われた合戦である。
この戦いをきっかけに応仁の乱と並んで室町時代最大の戦乱といわれる
享徳の乱の幕が開かれる事となった。
高幡不動の境内にある。
何度か供養の模様を目にしたことがある。
600年近く経過しても供養が続いていることに
なんとも言えない感動を感じたものだ。