千葉恭の著した「宮澤賢治先生を追つて(四)」に載っている次の様式が突然気になり出してしまった。
《1 「水稲肥料設計」》
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《『四次元 9号』(宮沢賢治友の会)より》
これに関して千葉恭はそこで次のように説明している。
羅須地人協会はその意味の開設であり、肥料設計は具体化された方法であつたのでした。土壌改良により一ヵ年以内に今迄反当二石の収穫のものが、目に見えて三石位穫れるとすれば、たとえ無智な百姓であつても興味を持ち、進んで研究もする様になるだらうと信じられたからでした。先生の無料設計をしていくことになつたのも、このやうなことが考えられての結果だつたのです。肥料設計書の様式は次のやうな、先生独特のものであります。
と。この「水稲肥料設計」の構成の綿密さからだけでも賢治の〝情熱〟がひしひしと伝わってくる。
さて気になったのは、これに相当する原資料、あるいはこの〝様式「水稲肥料設計」羅須地人協会〟そのものが『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)に所収されているのだろうかということである。
当然載っているだろうと思ってまずは手持ちの『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)で確認をしてみたならば〝これら〟は少なくともこちらには載っていなかった。せいぜい載っていたのはやや似ている
《2 「昭和八年度水稲施肥控」》
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《『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)より》
だけであり、千葉恭が載せていたものと見比べるとこちらは「控」であるせいなのだろうか頗るシンプルなものである。昭和8年頃になると以前のような〝情熱〟はもう薄れてしまったのだろうかとさえも感じ取られる恐れがあるほどの。
それはさておき、〝これら〟が載っていなかったということはこの『校本全集』が出版された後に『四次元 9号』が発行されたから所収されていなかったのだろうか? まさか、直感でもそれはないはず。念のため発行年を確認すると、『校本全集第十二巻(下)』の方は昭和51年発行、一方の『四次元 9号』のそれは昭和25年だからやはりそれはない。『校本全集』が出版される前に既に公になっていたのだ。とすればこれは不思議なことだ。とりわけこの〝様式「水稲肥料設計」羅須地人協会〟にはそのものずばり「羅須地人協会」という名称が記されているものだから貴重な資料だと思えるのに、載っていないことが。
でももしかするとその時まではたまたま誰も気が付かなかったということもあり得る。だからもしかすると『新校本全集』の方には補遺として新たに載っているかも知れない。でもな…私の記憶によれば、一度以前図書館で見た『新校本宮澤賢治全集』にはたしか〝これら〟は載っていなかった…はず。
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《1 「水稲肥料設計」》
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《『四次元 9号』(宮沢賢治友の会)より》
これに関して千葉恭はそこで次のように説明している。
羅須地人協会はその意味の開設であり、肥料設計は具体化された方法であつたのでした。土壌改良により一ヵ年以内に今迄反当二石の収穫のものが、目に見えて三石位穫れるとすれば、たとえ無智な百姓であつても興味を持ち、進んで研究もする様になるだらうと信じられたからでした。先生の無料設計をしていくことになつたのも、このやうなことが考えられての結果だつたのです。肥料設計書の様式は次のやうな、先生独特のものであります。
と。この「水稲肥料設計」の構成の綿密さからだけでも賢治の〝情熱〟がひしひしと伝わってくる。
さて気になったのは、これに相当する原資料、あるいはこの〝様式「水稲肥料設計」羅須地人協会〟そのものが『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)に所収されているのだろうかということである。
当然載っているだろうと思ってまずは手持ちの『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)で確認をしてみたならば〝これら〟は少なくともこちらには載っていなかった。せいぜい載っていたのはやや似ている
《2 「昭和八年度水稲施肥控」》
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《『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)より》
だけであり、千葉恭が載せていたものと見比べるとこちらは「控」であるせいなのだろうか頗るシンプルなものである。昭和8年頃になると以前のような〝情熱〟はもう薄れてしまったのだろうかとさえも感じ取られる恐れがあるほどの。
それはさておき、〝これら〟が載っていなかったということはこの『校本全集』が出版された後に『四次元 9号』が発行されたから所収されていなかったのだろうか? まさか、直感でもそれはないはず。念のため発行年を確認すると、『校本全集第十二巻(下)』の方は昭和51年発行、一方の『四次元 9号』のそれは昭和25年だからやはりそれはない。『校本全集』が出版される前に既に公になっていたのだ。とすればこれは不思議なことだ。とりわけこの〝様式「水稲肥料設計」羅須地人協会〟にはそのものずばり「羅須地人協会」という名称が記されているものだから貴重な資料だと思えるのに、載っていないことが。
でももしかするとその時まではたまたま誰も気が付かなかったということもあり得る。だからもしかすると『新校本全集』の方には補遺として新たに載っているかも知れない。でもな…私の記憶によれば、一度以前図書館で見た『新校本宮澤賢治全集』にはたしか〝これら〟は載っていなかった…はず。
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