宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

390 昭和2年3月4日前後の宮澤賢治(後編)

2011年09月03日 | 下根子桜時代
                    《↑ 花巻農学校卒業生宛の集会案内の葉書》
              <『図説 宮澤賢治』(天沢、栗原、杉浦編 ちくま学芸文庫)より>

6.考察
 ここでもう一度〝集会案内の葉書〟に関して気になることを確認したい。それは以下のようなことがらだった。
 (1) 規約:何の規約か。羅須地人協会には規約はなかったはずだ。
 (2) 春ノ集リ:規約による〝春ノ集リ〟とは何か。〝定期の集り〟と同じようなものか。
 (3) 下根子ノ事務所:なぜ〝協会〟としなかったのか。
 (4) 種苗ヤ製作品ノ交換:この時期にも交換会を行っていたのか。
 (5) 競賣:       〃      競賣     〃       。
 (6) 地人學会:地人學会とは何ものであり、羅須地人協会とはどんな関係にあるのか。
 (7) 地人學会創立:地人學会は創立されたか。なぜ創立しようとしたのか。
 (8) 三月四日:この日に集まりは実際開かれたのだろうか。
 (9) 昭和二年二月廿七日:この日付に意味はあるのか。

 ではこの〝集会案内の葉書〟は本物であるとみなしていいようだからそれぞれの項目について少しく考察してみたい。
(1)について
 一般に、そもそも「羅須地人協会」に規約はなかったといわれていると思う。或いは、賢治は少なくとも他人にはその規約を明らかにはしていないはずだ。ところがこの葉書では唐突に〝規約〟という言葉で書き起こされている。とすると、
 羅須地人協会に規約はなかったとしても、下根子桜の別荘で行われていたある種の会がありそれには規約が存在していて、しかもその規約は花巻農学校の卒業生の間では周知のことであった。
ということになる。ただしこの様な会の存在を誰かが指摘しているのかというと、私は管見にして知らない。
 したがって今後、この規約を有していた会とは一体何という名称であってどのようなことを目指した組織だったのか、あるいは実はそれは羅須地人協会のものであったのか、などという疑問点や可能性を探ってみたいものだ。
 いずれここで認識を新たにしたいことは、何等かの〝規約を有した組織〟が下根子桜時代にあったのだということである。

(2)について
 下根子桜時代に別荘で開かれた集まりといえば
  ・レコード鑑賞会
  ・童話朗読会
  ・楽団の楽器練習
  ・種苗や製作品の交換
  ・不要品の競売
  ・農業に必須な科学や技術、農民芸術等の講義
などであると思う。
 この中で規約による〝春ノ集リ〟になり得るものはあるのだろうか。残念ながらなさそうに感ずる。これらの集まりの中でわざわざ規約まで設けて〝春ノ集リ〟を行うようなものはないと思うからである。
 ならば、堀尾青史が『年譜宮澤賢治伝』(中公文庫)で
十一月二十二日 この日付の案内状を夕方、近くの伊藤忠一方へ持参。近所の人にくばるようたのんだ。
と記している案内状の中にある
 二、就て、定期の集りを、十二月一日の午后一時から四時まで、協
   会で開きます。

とあるところの〝定期の集り〟のようなものがそれに相当するのだろうか。
 もしこのような十二月一日の定期の集まりであれば、どちらも月初めに行われることになるから一見〝定期の集り〟に相当するものとも考えられるが、一方はおそらく新暦の「十二月一日」であり、他方は「旧暦二月一日」だからその点ではちょっと変である。
 なお〝春ノ集リ〟ということであればこの〝規約〟にはおそらく〝秋ノ集リ〟等の規定もあったであろうと推測される。あるいは夏や冬のそれも…。こう推測してゆくとますますこのような〝規約〟で規定された会のことを知りたくなる。どんな会の規約だったのかと。

(3)について
 昭和2年2月27日付の集会案内葉書では〝春ノ集リ〟が開かれる場所は「下根子ノ事務所」とあるが、大正15年11月22日付案内状に於いては「定期の集りを…協会で開きます」とある。つまり大正15年には下根子桜の別荘のことを賢治は「協会」と表現し、明けて昭和2年にはそのことを「事務所」と表現している。ましていずれの場合にもその場所を「羅須地人協会」とは表現していない。
 もちろん「協会」と表現すれば「羅須地人協会」のことと思われがちだから、賢治はそれを避けるために「協会」を「事務所」と変更したのだと考えればそれは当然かなとは思う。2月1日付岩手日報に「(羅須)地人協会」に関する記事が出たことによって賢治は「羅須地人協会」の活動は社会主義教育の実践であると疑われてしまったと受け止め、その対処として楽団は解散して集会も不定期にしたのと同様、表現をこの様に変えることは至極当然だからである。
 でも、もしかすると下根子桜の別荘のことを「羅須地人協会」と呼ぶことは当時まだ定着していなかったと解釈することも出来るのではなかろうか。実際、当時小原忠や母木光などはこの別荘のことを「イーハトヴの家」と呼んでいたというし、同じく伊藤克己などは「農民芸術学校」と自称していた(「先生と私達…伊藤克己」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)より)ということでもあるからである。

(4)と(5)について
 この2つ(種苗や製作品の交換会及び競売)については大正15年12月1日の定期の集まりでも行われている。だから特に不思議なことでないような気もするが、この時期にわざわざ案内状まで出して3月4日に競売を行おうとしたのには何か訳があったのではなかろうかとつい勘ぐってしまった。実際大正15年12月1日に行われた例の競売については、
  賢治は滞京費用捻出のために、この時期に持寄競売を開いた。
と以前推論してみて結構妥当性があると思っていたせいもあったからだ。
 そこで、もしかすると同じ様なことが3月4日の競売にもあったとすれば、すなわち賢治がある程度の額のお金を必要とした何かがあったとすればそれ何んっだたのだろうかと思って、3月4日前後の年譜を調べてみたのだが特に思い当たるようなことはない。
 ならば何かヒントはないか、ということで当日詠んだと思われる次の詩
 一〇〇四
     〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕
                  一九二七、三、四、
   今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです
   ひるすぎてから
   わたくしのうちのまはりを
   巨きな重いあしおとが
   幾度ともなく行きすぎました
   わたくしはそのたびごとに
   もう一年も返事を書かないあなたがたづねて来たのだと
   じぶんでじぶんに教へたのです
   そしてまったく
   それはあなたの またわれわれの足音でした
   なぜならそれは
   いっぱい積んだ梢の雪が
   地面の雪に落ちるのでしたから

       雪ふれば昨日のひるのわるひのき
       菩薩すがたにすくと立つかな

      <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)より>
から何かを得ようと思ったのだが、詩心もなく感性も乏しい私には残念ながら徒労だった。しかし3月4日の賢治は思いの外精神的に昂揚していたのだということはこの詩の内容から少なくとも解った。この直後の3月8日に松田甚次郎が下根子桜を訪問した際の賢治の異様な昂揚振り<*>も考え合わせれば何らかの手がかりになりそうではあるのだが…。
<*註> 松田甚次郎が下根子を訪ねたこの日、賢治は
 そんなことでは私の同志ではない。
と詰り
 黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ。
と懇願していたはず。


(6)~(8)について
 「地人學会」とは一体何なのか。「地人協会」ならば「羅須地人協会」の略称とも思えるが少なくともその別称でないことは明らかである。2月27日付集会案内には
  地人學会創立ノ協議
とあることから、いまさら「(羅須)地人協会」の創立を協議することはあり得ない。もう既に「羅須地人協会」は創立しているからである。当然同じ理由から、賢治が「地人協会」のことを書き間違えて「地人學会」としたということもあり得ない。「地人學会」は新たな組織でしかあり得ない。
 では一体賢治は何のために「地人學会」を創立しようとしたのだろうか。残念ながらそのあたり私には皆目見当がつかないが、賢治は自然消滅させてしまおうとしていたと私は考えている「(羅須)地人協会」に代わるものとして創立させようとしたのではなかろうかと想像する。
 また、賢治は相当な意気込みでこの「地人學会」を創立させようとし、花巻農学校卒業生などを含めた多くの農民にもその加入を働きかけていたであろうということが推測できる。『新校本 年譜』によれば件の〝集会案内の葉書〟は稗貫郡八重畑村佐々木実宛のものであるということであるし、花巻農学校大正14年3月卒業生の中に八重畑村佐々木實がいるからこのような案内葉書が花巻農学校の卒業生宛に発送されたということはそのとおりであろう。ところが3月4日〝地人協(?學)会〟に加入した高橋末治(『新校本 年譜』によれば明治30年生まれ、農業)は賢治の教え子ではない。そしてこの日に高橋末治と同じ組内の他の5人もこの〝地人學会〟に入ったということになるから、この集会案内葉書はおそらく花巻農学校卒業生以外の多くの農民達にも送っていたということになるのではなかろうか。もしそうであったとするならば、賢治は教え子以外の近隣の農民達にもこの葉書を郵送したりして「地人學会」への加入を働きかけていたこととなり、相当の意気込みがあったに違いないと思うのである。
 なお、(7)の〝地人學会は創立されたか〟という疑問に対しての回答はイエスである。だからこそ少なくとも高橋末治等6名が加入したのである。またこの6名の加入は(8)の結論も与える。当然3月4日にはそれは開かれていたと。

(9)について
 この集会案内の葉書の日付2月27日の翌日に
 2月28日 羅須地人協会講義 「肥料学要綱」下。午前一〇時より午後三時まで。
が行われている。またこの年昭和2年は平年だから2月29日はない。そして、佐々木実宛に発送した葉書の場合の消印は3月1日であるという(『新校本 年譜』より)。
 ならば、2月28日のこの講義に多くのメンバーが参加すると見込まれていたのであれば、3月4日の〝規約ニヨル春ノ集リ〟の集会案内の葉書をわざわざ郵送などせずに紙切れにガリ版印刷して2月28日直接参加者に手渡せばいいと私は考える。収入のない賢治にすればその方が安上がりだからである。佐々木実宛の葉書の消印が3月1日であるということだから賢治はそれほど急いで発送したかったわけでもないからなおさらそう思う。
 しかしそうせずに賢治は郵便葉書を出して案内したわけだから、
(ア) 2月28日の講義に出席するであろうメンバーはそれほど多くないであろうと賢治は見積もっていた。
(イ) 「地人學会」には新たなメンバーにも参加してほしいと思って、賢治は花巻農学校の卒業生を含む近隣の農民達に広く案内したかった。
(ウ) 賢治は周到な準備の下に「地人學会」を立ち上げようとしたわけではないと考えられる。佐々木実はそれまでに下根子桜の集まりにしばしば来ていたという情報を私は知らないから新たなメンバーの候補であると思うのだが、その佐々木に出した葉書の消印は3月1日、集会は3月4日だからほとんど切羽詰まった日取りになっているからである。
などということが葉書の日付〝昭和二年二月廿七日〟の持つ意味として考えられるということではなかろうか。
 なおこの葉書から読み取れることとして、賢治は案外不用心な性向もあるのではないかということがある。賢治は2月1日の夕刊に「羅須地人協会」に関する記事が出たことでメンバーに累が及ぶことを避けて楽団は解散し講義も不定期にしていったはずなのに、〝(羅須)地人協会〟と誤解されるおそれがある〝地人學会〟という表現を葉書に記載しているからである。葉書というものは他人がその書面を見ることが出来るものであるゆえ、それまでの経緯からいえばこの様な表現は普通はしないと思う。

7.まとめ
 さて昭和2年3月4日の集会案内の葉書に関連していくつかのことを素人考えしてみたが、現時点での私のまとめは以下のようなものである。
(ア) 下根子桜時代に規約を有するある組織があった。
(イ) 昭和2年3月4日に〝地人學会〟創立の協議がなされて発足し、少なくとも当日6名の加入があった。
(ウ) 大正15年12月1日のみならず昭和2年3月4日にも交換会や競売等を行っていた。
(エ) 昭和2年2月頃に下根子桜の別荘で行われていた集まりの出席者はあまり多くはなかったのではなかろか。
などである。

 なおこの葉書とは関係ないが、今回『新校本 年譜』の4月10日の項目内容を新たに知ってとても驚いたので近いうちに探ってみたい。

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