以前〝リアカーを牽いているのは賢治〟において私は
近いうちに平來作の生家を訪ねてみなければなるまい。
と宣言してしまった。そこでこの10月15日平來作の生家を訪ねてみた、例のことを訊くために。
生家をお訪ねすると来作の長男國友氏が居られたので早速訊いてみた。例の2葉の写真を見てもらいながら
『これはお父さんが所有していたという『宮沢賢治の五十二箇月』に載っている写真
「リヤカーを引く賢治 羅須地人協会の頃(平来作蔵)」
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<『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川島印刷(株))より>
ですが、こちらの『拡がりゆく賢治宇宙』に載っていている次の写真、2葉とも同じ写真だと思うのですが、
「この時代の農村風景」
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<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
の方においては、
賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない。
となっております。この人物は賢治ではないのでしょうか。』
と。すると國友氏の回答は
『よく解りません。』
というものであった。またこの写真の原版も今は持っていないということであった。
というわけでこの写真の真相は解明は出来なかったので残念であったが、その際國友氏からはいろいろなことをお聴きできたことが有り難かった。以下にそれらを箇条書きにて示したい。
・以前小樽文学館で賢治に関する展示があった際に『宮澤賢治研究2号』を貸し出した。なお父が賢治からもらったというレコードもその際に提供したが、そのレコードは賢治からもらったものではないとされた。
・母は17歳でこの平家に嫁いで来たが、この家で何度か農業講習を行った賢治を目の当たりに見ていた。
・その際祖母は賢治にライスカレーを出したがそれを固辞し、賢治は持参してきたパンを食べたと言っていた。
・その当時農学校に入るのは村から一人くらいなものであったが、そこを出ると農家の仕事をしなくなるから祖母は私(國友氏)に農学校には入るなよと言っていた。
・肥料設計に関しては、賢治から教えられたとおりにやった人は皆(稲が)倒れたという。
・父は菊池信一ととても仲が良かった。
・このあたりで陸羽132号は広く植えられた訳ではなく、物好きな人が植えたようだ。
・父は賢治から堆肥を作るためには四角い枠を用いると良いと教わってそれを実行したならば『來作始めてるな』と最初は冷やかされたが、その後皆それを真似た。
・下根子桜時代に父は賢治から『私は肺病だから近寄るな』と注意されたが、何度も最後まで賢治の許に行ったと言っていた。
などということを。
そして意外というのか、やはりなと思ったのは肥料設計のことである。菊池信一は賢治から教わったとおりに施肥したならば2割ほど増収したと証言していたはずだが、今回の國友氏の話のみならず、賢治に教わったとおりにやったならば皆巧く行かなかったという声の方が実は多く聞こえてくることに。
なお前述した小樽文学館での展示の際に國友氏が依頼されて寄稿した、父來作のことを著した次のような「父について」も見せてもらった。
父について
平 國友
父が亡くなって早十年になります。三十代ころから生やし続けたトレードマークのチョビ髭が時には威厳ともなり、近よりがたい父でしたが、大の酒好きで適当にホロ酔い機嫌になるときまって宮沢賢治談義が始まるのです。脇頃から酒豪でならし、平来(タイライ)の愛称で花巻市消防団長、花巻市農業共済組合長等の役職を長年つとめ、地方では多少名の知れた人でしたが、それにも増して、数少ない宮沢賢治の教え子として早くからマスコミ等により有名人でした。
花巻農学校そして、岩手県国民高等学校、羅須地人協会で受けた先生に対する敬慕の念が人一倍強かったように思います。父は一風変わったところがあり、そんなどこかが先生の目にとどまったのかも知れない。実に無欲で大らかで天衣無縫ぴったりの人でした。春秋の猫の手も借りたい農繁期、家族総出で一日の目標を立て頑張るのですが、それがいつの間にか姿を消し自宅に籠もっては、何かをしている。例によって、賢治作品を書いているのです。全く家族の不満を意ともせず、働き盛りの父の姿に祖母はぼそぼそ、「賢治、賢治様か、國友は大きくなっても学校さ入らんなぇだじぇ」と嘆いたものでした。とんだところで賢治先生が悪者扱いされたことを子供心に覚えております。現代の機械化時代ならいざ知らず、当時は秋の取り入れ等は、天候が勝負で、一日の遅れは十日の遅れといわれた時代ですから、無理もない話です。…(略)
たしかにここにも
祖母はぼそぼそ、「賢治、賢治様か、國友は大きくなっても学校さ入らんなぇだじぇ」と嘆いたものでした。
と書かれていた。
続き
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近いうちに平來作の生家を訪ねてみなければなるまい。
と宣言してしまった。そこでこの10月15日平來作の生家を訪ねてみた、例のことを訊くために。
生家をお訪ねすると来作の長男國友氏が居られたので早速訊いてみた。例の2葉の写真を見てもらいながら
『これはお父さんが所有していたという『宮沢賢治の五十二箇月』に載っている写真
「リヤカーを引く賢治 羅須地人協会の頃(平来作蔵)」
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<『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川島印刷(株))より>
ですが、こちらの『拡がりゆく賢治宇宙』に載っていている次の写真、2葉とも同じ写真だと思うのですが、
「この時代の農村風景」
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<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
の方においては、
賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない。
となっております。この人物は賢治ではないのでしょうか。』
と。すると國友氏の回答は
『よく解りません。』
というものであった。またこの写真の原版も今は持っていないということであった。
というわけでこの写真の真相は解明は出来なかったので残念であったが、その際國友氏からはいろいろなことをお聴きできたことが有り難かった。以下にそれらを箇条書きにて示したい。
・以前小樽文学館で賢治に関する展示があった際に『宮澤賢治研究2号』を貸し出した。なお父が賢治からもらったというレコードもその際に提供したが、そのレコードは賢治からもらったものではないとされた。
・母は17歳でこの平家に嫁いで来たが、この家で何度か農業講習を行った賢治を目の当たりに見ていた。
・その際祖母は賢治にライスカレーを出したがそれを固辞し、賢治は持参してきたパンを食べたと言っていた。
・その当時農学校に入るのは村から一人くらいなものであったが、そこを出ると農家の仕事をしなくなるから祖母は私(國友氏)に農学校には入るなよと言っていた。
・肥料設計に関しては、賢治から教えられたとおりにやった人は皆(稲が)倒れたという。
・父は菊池信一ととても仲が良かった。
・このあたりで陸羽132号は広く植えられた訳ではなく、物好きな人が植えたようだ。
・父は賢治から堆肥を作るためには四角い枠を用いると良いと教わってそれを実行したならば『來作始めてるな』と最初は冷やかされたが、その後皆それを真似た。
・下根子桜時代に父は賢治から『私は肺病だから近寄るな』と注意されたが、何度も最後まで賢治の許に行ったと言っていた。
などということを。
そして意外というのか、やはりなと思ったのは肥料設計のことである。菊池信一は賢治から教わったとおりに施肥したならば2割ほど増収したと証言していたはずだが、今回の國友氏の話のみならず、賢治に教わったとおりにやったならば皆巧く行かなかったという声の方が実は多く聞こえてくることに。
なお前述した小樽文学館での展示の際に國友氏が依頼されて寄稿した、父來作のことを著した次のような「父について」も見せてもらった。
父について
平 國友
父が亡くなって早十年になります。三十代ころから生やし続けたトレードマークのチョビ髭が時には威厳ともなり、近よりがたい父でしたが、大の酒好きで適当にホロ酔い機嫌になるときまって宮沢賢治談義が始まるのです。脇頃から酒豪でならし、平来(タイライ)の愛称で花巻市消防団長、花巻市農業共済組合長等の役職を長年つとめ、地方では多少名の知れた人でしたが、それにも増して、数少ない宮沢賢治の教え子として早くからマスコミ等により有名人でした。
花巻農学校そして、岩手県国民高等学校、羅須地人協会で受けた先生に対する敬慕の念が人一倍強かったように思います。父は一風変わったところがあり、そんなどこかが先生の目にとどまったのかも知れない。実に無欲で大らかで天衣無縫ぴったりの人でした。春秋の猫の手も借りたい農繁期、家族総出で一日の目標を立て頑張るのですが、それがいつの間にか姿を消し自宅に籠もっては、何かをしている。例によって、賢治作品を書いているのです。全く家族の不満を意ともせず、働き盛りの父の姿に祖母はぼそぼそ、「賢治、賢治様か、國友は大きくなっても学校さ入らんなぇだじぇ」と嘆いたものでした。とんだところで賢治先生が悪者扱いされたことを子供心に覚えております。現代の機械化時代ならいざ知らず、当時は秋の取り入れ等は、天候が勝負で、一日の遅れは十日の遅れといわれた時代ですから、無理もない話です。…(略)
たしかにここにも
祖母はぼそぼそ、「賢治、賢治様か、國友は大きくなっても学校さ入らんなぇだじぇ」と嘆いたものでした。
と書かれていた。
続き
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