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《『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)》
以前〝昭和2年3月4日前後の宮澤賢治〟の最後を
今回『新校本 年譜』の4月10日の項目内容を新たに知ってとても驚いたのだが、そのことに関しては近々探ってみたい。
と締めくくったので、そのことに関して今回は触れてみたい。
1. 昭和2年4月10日の学習会
まずそれはどんな内容だったかというと
4月10日 「羅須地人協会農芸化学協習」として「昭和二年度第一小集」を開催。午前九時から午後二時まで「農業に必須ナ化学ノ基礎部分」を学習したと見られる。
というものだった。
そしてこの「学習会」がこの日に記載されているのは、昭和2年4月4日消印の高橋六助宛葉書に謄写版印刷された次の案内が新たに発見されたことを受けてのことであろう。
《〔集会案内 三〕》
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羅須地人協会農芸化学協習
昭和二年度第一小集
農業ニ必須ナ化學ノ基礎的部分
四月十日午前九時カラ午後三時マデ
宮澤賢治
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
私がとても驚いたのは、まさかこの時期にもまだこのような学習会が羅須地人協会で行われていたとは思いもしなかったからである。
3. 新旧『校本 年譜』の比較
それはいままで『校本 年譜』に基づいて思い描いていた賢治のイメージと、今回新たに見てみた『新校本 年譜』から受け取る当時の賢治のそれとでは明らかに違いがあると直感したからでもある。
そこで、以下に大正15年の12月22日~昭和2年4月10日の羅須地人協会に関する両者の年譜を抜き出して比べてみる。
11月22日 この日付の謄写版刷りの案内状を発送、また夕刻、近くの伊藤忠一方へ持参し、配るように依頼。
11月29日 22日付案内による羅須地人協会協議、午前3時より3時間。このとき「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」の謄写版刷りを配布。
12月 1日 この日、11月22日付案内による定期集会の集まりが開催されたと見られる。
12月 2日 セロを持って上京(澤里武治ひとり見送る)。
12月 3日 着京、神田錦町上州屋に下宿。
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席。
12月15日 書簡にて政次郎に200円の送金を依頼。
12月18日(または同20日) 駒込に高村光太郎を訪う。
12月20日前後 書簡にて政次郎に重ねて200円の送金を依頼。
12月23日 政次郎宛書簡にて、29日の夜東京を発つことを知らせる。
1月10日 〔講義案内〕による羅須地人協会講義が行われたと見られる。午前10時より午後3時まで。
1月20日 〃 。参会者に「土壌要務一覧」のプリントを配布し、図解を示ししつつ土壌学要綱を講じる。
1月30日 〃 。「植物生理学要綱」上。午前10時より午後3時まで。
21月131日 本日付「岩手日報」夕刊三面に『農村文化の創造に努む』という記事が出る。
2月10日 羅須地人協会講義 「植物生理学要綱」下部。午前一〇時より午後三時まで。
2月1817日 岩手日報夕刊に2/1付けの記事を受けて「農村文化について」という投書あり。
2月20日 羅須地人協会講義 「肥料学要綱」上部。午前一〇時より午後三時まで。
2月27日 この日付で「規約ニヨル春ノ集リ」の案内葉書(謄写版刷り)を作成し、発送する。内容は次のとおり。
「規約ニヨル春ノ集リ(旧二月一日)ハ来ル三月四日ニ当リマス。
午前十時カラ午后三時迄、下根子ノ事務所内デヤリマス。種物ハ原
価デ頒ケマス外ニ種苗ヤ製作品ノ交換、地人学会創立ノ協議、競売
等、ドウゾ何デモオ出シクダサイ。ゴ都合ガ宜シカッタラ、晝食ゴ
持参デオネガイヒシマス。 昭和二年二月廿七日。」
2月28日 羅須地人協会講義 「肥料学要綱」下部。午前一〇時より午後三時まで。
3月 4日 2月27日付案内による「春ノ集リ」が開かれたと見られる。
湯口村の高橋末治の日記によると「組内の人六人宮澤先生に行き地人協会を始めたり 我等も会員と相成る」。
3月20日 羅須地人協会集会。「エスペラント」か、あるいは「地人芸術概論」か。
4月10日 「羅須地人協会農芸化学協習」として「昭和二年度第一小集」を開催。午前九時から午後二時まで「農業に必須ナ化学ノ基礎部分」を学習したと見られる。
<『校本 宮澤賢治全集第十四巻』及び
『新校本 宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
ただし赤い文字の部分が『校本 年譜』にはなくて『新校本 年譜』で新たに付け加えられた部分であり、新たに見つかった資料『2月27日付集会案内の葉書』や『書簡227a 高橋六助あて(昭2・〔4・4〕)』などに基づいて書き加えられたということなのであろう。
こうやって両年譜を見比べてみるとまずは直感的に〝かなり変〟と思ってしまうし、改めて驚きが隠せない。
特に新たに書き加えられた
・2月27日
・3月 4日
・4月10日
の内容、及び新たに見つかった
・昭和2年4月4日消印の高橋六助宛の案内
の内容は一般にいままで巷間言われてきた当時の賢治を再吟味しなければならないほどの重要な事柄ではなかろうか…と素人の私は不安になってしまうからである。
続き
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以前〝昭和2年3月4日前後の宮澤賢治〟の最後を
今回『新校本 年譜』の4月10日の項目内容を新たに知ってとても驚いたのだが、そのことに関しては近々探ってみたい。
と締めくくったので、そのことに関して今回は触れてみたい。
1. 昭和2年4月10日の学習会
まずそれはどんな内容だったかというと
4月10日 「羅須地人協会農芸化学協習」として「昭和二年度第一小集」を開催。午前九時から午後二時まで「農業に必須ナ化学ノ基礎部分」を学習したと見られる。
というものだった。
そしてこの「学習会」がこの日に記載されているのは、昭和2年4月4日消印の高橋六助宛葉書に謄写版印刷された次の案内が新たに発見されたことを受けてのことであろう。
《〔集会案内 三〕》
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羅須地人協会農芸化学協習
昭和二年度第一小集
農業ニ必須ナ化學ノ基礎的部分
四月十日午前九時カラ午後三時マデ
宮澤賢治
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
私がとても驚いたのは、まさかこの時期にもまだこのような学習会が羅須地人協会で行われていたとは思いもしなかったからである。
3. 新旧『校本 年譜』の比較
それはいままで『校本 年譜』に基づいて思い描いていた賢治のイメージと、今回新たに見てみた『新校本 年譜』から受け取る当時の賢治のそれとでは明らかに違いがあると直感したからでもある。
そこで、以下に大正15年の12月22日~昭和2年4月10日の羅須地人協会に関する両者の年譜を抜き出して比べてみる。
11月22日 この日付の謄写版刷りの案内状を発送、また夕刻、近くの伊藤忠一方へ持参し、配るように依頼。
11月29日 22日付案内による羅須地人協会協議、午前3時より3時間。このとき「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」の謄写版刷りを配布。
12月 1日 この日、11月22日付案内による定期
12月 2日 セロを持って上京(澤里武治ひとり見送る)。
12月 3日 着京、神田錦町上州屋に下宿。
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席。
12月15日 書簡にて政次郎に200円の送金を依頼。
12月18日(または同20日) 駒込に高村光太郎を訪う。
12月20日前後 書簡にて政次郎に重ねて200円の送金を依頼。
12月23日 政次郎宛書簡にて、29日の夜東京を発つことを知らせる。
1月10日 〔講義案内〕による羅須地人協会講義が行われたと見られる。午前10時より午後3時まで。
1月20日 〃 。参会者に「土壌要務一覧」のプリントを配布し、図解を示ししつつ土壌学要綱を講じる。
1月30日 〃 。「植物生理学要綱」上。午前10時より午後3時まで。
2月10日 羅須地人協会講義 「植物生理学要綱」下部。午前一〇時より午後三時まで。
2月
2月20日 羅須地人協会講義 「肥料学要綱」上部。午前一〇時より午後三時まで。
2月27日 この日付で「規約ニヨル春ノ集リ」の案内葉書(謄写版刷り)を作成し、発送する。内容は次のとおり。
「規約ニヨル春ノ集リ(旧二月一日)ハ来ル三月四日ニ当リマス。
午前十時カラ午后三時迄、下根子ノ事務所内デヤリマス。種物ハ原
価デ頒ケマス外ニ種苗ヤ製作品ノ交換、地人学会創立ノ協議、競売
等、ドウゾ何デモオ出シクダサイ。ゴ都合ガ宜シカッタラ、晝食ゴ
持参デオネガイヒシマス。 昭和二年二月廿七日。」
2月28日 羅須地人協会講義 「肥料学要綱」下部。午前一〇時より午後三時まで。
3月 4日 2月27日付案内による「春ノ集リ」が開かれたと見られる。
湯口村の高橋末治の日記によると「組内の人六人宮澤先生に行き地人協会を始めたり 我等も会員と相成る」。
3月20日 羅須地人協会集会。「エスペラント」か、あるいは「地人芸術概論」か。
4月10日 「羅須地人協会農芸化学協習」として「昭和二年度第一小集」を開催。午前九時から午後二時まで「農業に必須ナ化学ノ基礎部分」を学習したと見られる。
<『校本 宮澤賢治全集第十四巻』及び
『新校本 宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
ただし赤い文字の部分が『校本 年譜』にはなくて『新校本 年譜』で新たに付け加えられた部分であり、新たに見つかった資料『2月27日付集会案内の葉書』や『書簡227a 高橋六助あて(昭2・〔4・4〕)』などに基づいて書き加えられたということなのであろう。
こうやって両年譜を見比べてみるとまずは直感的に〝かなり変〟と思ってしまうし、改めて驚きが隠せない。
特に新たに書き加えられた
・2月27日
・3月 4日
・4月10日
の内容、及び新たに見つかった
・昭和2年4月4日消印の高橋六助宛の案内
の内容は一般にいままで巷間言われてきた当時の賢治を再吟味しなければならないほどの重要な事柄ではなかろうか…と素人の私は不安になってしまうからである。
続き
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前の
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