3月11日
午前中、お義母さんの検査があり病院に行き、結果異常なしでほっとして自宅に戻りました。
お昼を食べ、夕食の買い物をと隣町にでかけました。
買い物が済み車に戻ろうとした時、あの地震に遇いました。
いまだかつて経験したことないものすごい揺れです。
上へ横へと大きく揺すられました。
自分の車まで辿りつけず、そこにあった車にしがみつきました。
ものすごい横揺れ、縦ゆれにしがみついている車から振り落とされそうになり、思わず悲鳴をあげました。
他のお客さん達も駐車場で悲鳴を上げ逃げまどい、これは大変な恐ろしい事が起こったと感じました。
長い揺れがようやくおさまり、「家に帰らなくちゃ」とすぐに駐車場をでたのですが、
もうすでに道路は大きく隆起したり陥没したりで通れなくなり渋滞が始まっていました。
「・・うわうわうわ~~、何なの~!!」
なんとしてでも家に帰らねばと、右折、左折、ユーターンを繰り返しながら、いつもの時間の3倍もかかり
ながら辿りつきました。
その間にも強い地震が何度もあり車が木の葉のように揺すられ恐怖で心臓がドキドキしてました。
ラジオからは『津波がきます!沿岸から避難してください』放送が続いていました。
もうすでに携帯は一切通じなくなっていました。
ようやく自宅近くになると学校に避難する人達で混み合い始めていました。
自宅のお勝手口から中に入って見たら、
棚という棚から物が全部下に落ちていて、テレビ、ラック、本棚、タンスほとんどの物が倒れて、
足の踏み場もない状態となってました。
声も出ず、しばし呆然となりました。
「あ!ぶーさん?!」 靴のまま家に上がり、ぶーさんを呼んだら奥の部屋からノコノコ出てきました。
「怖かったね~ごめんね~」と無事を喜びましたが、強い地震が続いており家にいるのは危険のようなので
ぶーさんにご飯いっぱいとお水いっぱいお皿に入れ、私だけ近くの小学校の体育館に行く事にしました。
体育館では町内の人達でいっぱいになってました。
大地震だった事がわかりましたが、地元町内にどの位の津波がきてるかなどわからずにいました。
ご近所さん達と一緒になり『家の中のグチャグチャになったの、片付けるのたいへんだよね~』等と
今考えると脳天気な事を言ってたものです。
夜遅くになり、主人と長男が体育館に訪ねて来て、みんなの無事を確認しました。
翌早朝、それぞれ帰ってゆきました。その後生活が一変することになるのです。
突然『外に出ないで下さい。このまま避難することになります!』と、なにやら切羽詰った放送が。
「へ?・・避難て?・・どこに?・・・」
「何なの? 東電か?」 「東電、危ないらしい!」「危ないって?」
みんな訳もわからず慌てふためくばかりで。。。
なんかとても不穏な感じで・・・(一人で、怖いな・・ぶーさんは?・・どうしょう)と不安で不安で。
そんな中、避難の大移動が始まったのです。
お義母さん家族と離れてしまって・・・でもお隣さんと一緒になりしばらく過ごすことになりました。
今も放射能値が高い、川俣の体育館に一週間ほど過ごしました。
主人とも息子達ともやっと連絡がつき無事避難してることがわかりほっとしました。
長男家族が避難所に訪ねて来てくれて『お母さん、一緒に東京に逃げよう』と嫁ちゃんは泣いてくれました。
とてもありがたかったですが、主人や下の息子が県内にいるのに私だけ行くわけにはいかないです。
いつかまた元気で逢おうね、絶対逢おうねと嫁ちゃんと手に手をとって泣きました。
長男には「大変だけど、一家を守って頑張るんだよ」と手をしっかり握り泣き泣き見送りました。。
避難所で一週間ほど過ぎたころ、埼玉アリーナに行く話となり、ますます一人遠くになってしまうと
心細い気持ちになり、夜毛布をかぶり泣きました。
ところがです。アリーナに行く当日、主人が偶然近くを通りかかり救助?してくれ埼玉に行かずにすみました。
嬉しかったです。この時は本当に神様に感謝感謝でした。
そのご、親戚に家に一ヶ月ほどお世話になり主人の社宅になんとか入れるというので今の場所にきました。
主人が強行突入し、ぶーさんを救助してくれました。
お義母さんが同居するという想定外な事も起きましたが。
東電の収束もだいぶもたついている様子で時間はたっぷりかかるようです。
その間にも、放射能問題が大きくなって日々の生活も敏感になってしまいます。
帰れるのか、帰れないのか。。。
原発4キロ県内に住む住民として、今、どうしたらいいかわかない状態です。
主人と二人建てた大事な我が家です。
綺麗に磨いて守ってきた大事な我が家です。
気を植え花を植えて手入れしてきた大事な庭です。
あきらめきれないです。
まだまだあきらめていません。
きっといつかの日か戻れると信じています。
今週末、主人と一時帰宅します。
我が家をしっかり見てきます。