震災の3月11日から7月11日まで私がどこにいたかの調査の書類が送られてきました。
外部被ばく線量の評価は「行動記録」から推定する以外に方法がないそうです。
あの日、緊急地震速報がテレビから流れてきてすぐ、大きな地震。
すぐに停電、腰が抜けて動けない私のそばでわんわんと吠えてたブン。
地震がおさまって、
ブンを連れて、ラジオを持って中学校に避難しました。
でも、先生も子供たちも笑っていました。
ラジオを持っているのは私だけ、
みんなは怖かったね、すごかったね、と話してるだけ、何が起こっていたのか誰もわからなかったのです。
しばらくしてラジオは大きな津波が着たと伝えました。海の目の前に住む夫の叔父と叔母のことがいちばんに頭に浮かびました。
雪が降ってきました。
大通りは通れないよと誰かが言ったので山を越えて夫の母の家へ、、。
お母様の無事に安心。
叔母の安否を尋ねると、「つながらないの」そう、電話はどこにもつながりませんでした。
その後、
実家に向かったものの、渋滞と余震でまったく動けませんでした。
水道が破裂して水が吹き上げているところの前で
奇跡的につながった電話で無事を確認、実家に行くのはあきらめて家に帰りました。
そのころ東京でも大変なことになっていたのですね。
一人マンションの高層階にいた8歳の孫ちゃん、
仕事で新宿にいた下の娘はその日は家に帰れませんでした。
そして原発事故。
調査の問診票のカレンダーを見て、あの日を、そしてあの日からのことを思い出して怖くて悲しい気持ちになりました。
島崎藤村の破戒を思い出します。
福島の子って言えない? 福島の子だからという理由で最近自殺した子もいるそうです。
何をしたらよいのでしょう。
明日県議の選挙があります。
頑張ってくださいね、と投票します。