拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  ごきぶりホイホイの禅

2022年10月20日 | 観自在

  近ごろ読み終えた本は曹洞系の禅僧の著書。

  曹洞宗の坊さんは、『悟り』を汚い!…と言わんばかりに『悟り』を毛嫌う傾向があることは知っていたが。

  曹洞禅は本来『只管打坐』や『黙照禅』と称し、『ひたすらの坐』を慮ると思いきや、色々小難しい理屈をこねり、それはどうなんだ?と思う。

 

  『煩悩即菩提』とはどなた様の言葉だか忘れたが、『煩悩』あっての『悟り』であってみれば、

  『禅門』を叩く時点の人間が『悟り』を求めていようが、『肚の坐った人間像』を追いかけると言うような下世話な動機であろうと

  構わんのではないだろうか。『ごきぶりホイホイ』の如く、欲の突っ張ったまま中に入ってこい!・・・と思うのだ。

 

  『ごきぶりホイホイ禅Box』に一旦入ってしまえば、

  いずれ『言語道断』の禅に深まってゆくのだから、そこに入る前後は何とでも理屈をこねればイイ。

 

      

  私自身は『悟り』を標榜するという、臨済禅に御縁を頂いただいたが、修行前期4年ほどは只ひらすら『数息観』に打ち込み

  時折提唱してくださる老師も、居士林の世話をしてくださった和尚も古参の雲水も誰一人として『悟り』を云々する者など一人もいなかった。

 

  海外から戻って後期5年は公案を頂いて参禅したが、『悟り』の『サ』の字も思い浮かべなかった。

  そもそも『公案』というものは、余計な一切を削ぎ落とす為にあるのだからそれは当然のことであった。

  特に居士としての禅修行環境は、ほどんど誰とも私語をかわすことがなく、一週間接心や土日坐禅会が終わり自宅に帰ってから

  鈴木大拙の本を読んだにしても、私は『悟り』たい・・・という思いは全く湧かなかった。

  それは金が無いから車に興味がない・・・?という例えに似ているのかもしれないが。

  悟ったことが無いのに、どのようにそれを求めるのか? 求め方すらわからないのだから・・・

 

  

  

  


  『意』伝のツボ

2022年10月20日 | 観自在

  ツボ・・・といっても、いま巷で騒がれている統一協会・霊感商法の『壺』ではなく、鍼灸のツボ(経穴)の話。

 

  私は29歳(1981年)のとき、新宿の『東洋鍼灸専門学校』に入学し、鍼灸を習い始めたが

  最初は怖くて、他人はもちろん自分にすら鍼を刺すことが出来なかった。

  日本の鍼は細く、鍼先を指で触ると簡単にたわむほど柔らかな鍼で、その為か鍼管という管を使って

  身体に刺す…という、本家の中国鍼にやはり日本風工夫を加えて、『痛くない鍼』をあみ出していた。

 

  始めのうちは、リンゴに刺したり学友と互いにおっかなびっくり状で刺す練習をしていたある日

  先輩が外部から鍼師を招いて講習会を開き、その鍼の先生の実演を私は度肝を抜かれる思いで観ていた。

  その先生はなんと、患者の身体に手をかざしてツボを感得し、鍼を刺していたのだ。

  普通ツボは、住所のようにどこどこの骨の出っ張りから指3本分横に位置する・・・といったように探すと学校では

  習うのであるが、この鍼師の先生は『手かざし』で鍼を打つべき『ツボ』を感得していた。

 

  我々一学年一クラスで40人ぐらいいたであろうか?その内の私と後に親友になった2人の計3人がその先生の弟子になった。

  その先生が禅者で鍼灸師の横田観風先生で、私たちに坐禅をする機会を与えてくれた師であった。

  禅といえばこの学校にはもう一人、円覚寺の老師に長年参禅する禅者、伊藤真愚先生の影響も大きく

  この二人の禅者との出逢いがなければ、私は『禅門』を叩いていなかったであろう。

 

  観風先生のおかげで、私もまもなくツボを感得できるようになり、以来自信をもって鍼を刺すことができた。

  その『感得』について、学友と何度も実験というか修練したが、『意識を向ける、意識を働かせる』事の

  重要さを私は感銘をもって肝に銘じたものだ。

  

  『悟り』という『人間進化の可能性=ツボ中のツボ』への道を開き、何千年という歴史を耐えて

  伝えてきた『仏道』を『禅』という形で東洋人はその『意』を伝えてきたが、

  その『意伝』を汲み取って、我々自身がそこに『意識』を向けなければ、『宝の持ち腐れとなる・・・』と

  自己の生涯をかけて『禅』を説いてきた鈴木大拙師らに、私は思いを馳せている。

             

  昨日秋晴れの日、久々にバレー州のアルプスの谷間を散歩。スイスがアルプスの国であることを忘れていた・・・。

  


  鍍金(メッキ)は剥がせ

2022年10月09日 | 観自在

  以前より、日本文化と西洋文化の対比・・・というような命題に対する一つの答えとして

  『装飾』というキーワードが私の頭をよぎっている。

  『装飾』を廃する方に力が働いている文化が日本文化で、よりすぐれた『装飾』を楽しみ、評価する文化が西洋文化のような。

 

  そういったような時、日本では『鍍金(メッキ)が剥がれる』という表現をしていると思うので辞書で調べてみた。

  メッキ(鍍金・滅金)①〜古代、仏像に金メッキをするのに用いた金のアマルガムを滅金と呼んだところから、金属または

              非金属の表面を他の金属の薄膜で覆うこと。防食・装飾などの為に行う。

              方法には電気鍍金・溶融鍍金・蒸着鍍金などがある。

            ②〜うわべを飾り、よく見せかけること。  (大辞泉)より

  鍍金(メッキ)の言葉を辞書で見た時、最初に『仏像の金メッキ』の話がでてくるところが面白く、深い。

 

  禅の修行をしていた時、『メッキが剥がれる』…という事を実感していたのを今になって思い出す。

  自分にはメッキなんて無い!と思っていたが、どうしてどうしてまるで垢すりのようにボロボロ垢が剥がれていった。

  『剥がれた!』と思ったすみから別なところに別な性質の例えば電気メッキやら、溶融メッキ・蒸着メッキ等など

  様々なタイプのメッキが自分でも思わぬとここにメッキが貼り付いてくる。

  まぁ、それでも『メッキが貼り付いている』事自体に気が付いただけでも、有り難いと思う。

 

  日本文化を代表する言葉として『侘び寂び』とか『渋い』…とかあり、説明が難解と言われているが

  『鍍金(メッキ)』の存在を理解することで、案外簡単にわかるのではないだろうか。

 

    

 『藤娘』初見であったが、溌剌でういういしい・・・        人間的にも『ベテラン』感があり、佇まいが美しい

          

       この3人が踊った時解ったのは、日本人踊りての動作省略の美しさ、まるで俳句のような・・・

 

        

   ジュネーブで30年にわたり『アトリエ日本舞踊』を主宰して、日本舞踊と着物文化の普及につとめられた菅原恵子氏

    昨夜の発表会をもって、引退されるそうだ。(未確認情報であるが)

 

  昨夜、友人が出演するというのでジュネーブまででかけ、おそらく30年ぶりぐらいで日本舞踊を拝見。

  こういった文化交流を地道に続けてこられた彼女の存在を知らずにいたが、本当に立派。お疲れ様でした。

  


  心に柏手を打て!

2022年10月03日 | 観自在

  仏教は6世紀頃日本に伝来したらしい。

  『神仏習合』…という分かったような、解らないような言葉で古来の『神道』と新参の『仏教』が合流した。

  その詳しい経緯(いきさつ)は知らないが、馬骨流解釈では『合流』も無理はなく、なるべくしてなったといえる。

  しかし、そういう風に『神道』と『仏教』を観ることが出来るようになったのは還暦の後だろうか。

 

  ・・・などという前置きはそれくらいで『柏手』だが

  ここ最近、柏手というか拍手というか『手を叩く音』の凄いことに私は注目している。

  というのは、一歩街に出るとすれ違う若者たちが、『携帯』を凝視しながら歩いている風景に関係している。

  そういう私も、歩いている時以外は携帯を覗いているが…、問題は『歩きながら携帯』にあるように思う。

 

  『自分の世界に浸りきって歩く』事はその本人にとっても危険であるが、より問題なのは他人への配慮が全く無くなり

  自分の周りで何が起こっているか『現状把握』が出来なくても平気でいられるメンタルの日常化・・・だ。

  その傾向というのは、『スマートフォン』の出現で絶望的に飛躍し、『いま・ここに生きる』という原点から

  人を遠ざける負の修行のように見える。

  『柏手』は使う相手によっては、臨済禅師の『一喝』に匹敵し、人をして目を覚ます『力』を秘めているだろう。

 

  携帯を凝視して、前方にいる私が全く視界に入っていないように直進する者がいれば、私は『柏手』を打つ!

  柏手は『場』を清め、自分自身が『いま・ここに生きる』ことを確認させる・・・

  などという『崇高な働き』作用が『柏手』にあるなど気にもしない者達は、一瞬驚かされた事に苛立つ・・・だけであろうか。

  これを相方に話すと、彼女は本当に柏手を打つに違いない。私は打つことは打つが心の中で打つのみである・・・

       Mariell Blancさん Galerie L'Espace81  Morgesにて Oct. 23まで

   今日街中を歩いていると、ギャラリーの窓越しから観ると何だろう?と思う作品が展示してあり覗いてみた。

  近寄らなければ解らない『顔x顔』の顔ばかりが画面びっしりに描かれている作品であった。

  ローザンヌには『アール・ブリュット』美術館があり、精神を少し病んでいる?(と言っていいかどうか問題だが)人々の作品

  にはこういった作品が多いが、ギャラリーにいた作者のマリエル・ブロンさんは若くて美しい女性で、作品とのギャップが不思議。

  この作品のように、画面に隙間が全く無い…状態が病んでいるとすれば、『柏手』はそこに『間』を開ける働きがあるように思う。

 

        柏手で 清まる中を 生きてゆけ 携帯持って 心固めず ・・・ 一撮

 

 

 

  

   


  『仏教』の定義 by 漢字在菩薩

2022年09月29日 | 観自在

  今日は漢字在菩薩に登場を願って仏教の定義をしてみたいと思う。

  そもそも漢字在菩薩とは何か? についてはこちらを参考… 2022年2月8日のブログ記事『漢字在菩薩』

 

  『仏教とは、人をして無(ム)にする教え。 無(ム)から仏にする教え』・・・と、読んで字の如し。What else ?

 

  釈尊が悟りを開いたのが、約紀元前500年前?で、中国に仏教が伝わるのが1世紀頃と推定され

  初めは『佛』と書かれていたか?それが日本に来てから『仏』となったか?無学な私には解らないが

  とにかく、何百年?何千年・・・という時を経て現在の『仏教』となるべくして成ったと思う時

  最初に『仏教』と名付けた祖先は上記の如く解読されるべく造語したであろう。

 

  『仏』は人偏が示すべく、限界(諸行無常で一切皆苦)のある人が無(ム)を覚る事(諸法無我)で、

  無限の喜びに生きる道(涅槃寂静)に至る教え・・・が『仏教』なのである。

  その『無を覚る』段階で色々なやり方(宗派)があって、今の仏教の姿があるのだと思う。

 

   

       スイスの『鴨川』と名付けた。わが街モルジュの川の秋の風景

 


  南無 『還暦スキャン』

2022年09月23日 | 観自在

  たぶん禅というのは、仏教をより新しい感覚で、時代にマッチした形を創造し、衆生にアピールしようとしている菩薩の性(さが)の働きなのでは。

  だから禅は『無』を強調し、いかなるイデオロギー的なものから遠ざかり、真に自由であろうとする。

  それで世界に少しずつ浸透しつつあるのだろう。

 

  私も既成の仏教用語を廃して何か新しい発想を・・・と思いつつ、その既成の言葉の中に、新しい解釈が『再解釈』として通用するし

  むしろその方が、言葉の理解を深めるだけで、新たに新語を増やし、いたずらにそれを覚えるよりはよほど創造的である気もする。

 

  『南無』という言葉は、辞書によるとサンスクリット語『namas』を中国語に音写した言葉で『帰命』の意を表すという。

  では、『帰命』とは何かというと『仏の救いを信じ、身命を投げ出して従うこと、帰依ともいう。

  私の世代(私は70歳)だと、子供の頃、マンガや映画やテレビで時代劇がまだ盛んだった時代で、

  例えば、忍者が手で印を結び、『南無・・・・』とか、呪文的に言っていたような??気がするし、

  そうでなくても『南無阿弥陀仏』とか『南無妙法蓮華経』とかは自然と見聞きしてしっているが

  今の若者たちは、『南無』・・・など知らないだろうか。

  私は『悟り』は『郷里サトリ』といっている都合上、『南無』が『帰命』という訳語であることが腑に落ちる。

  私たち人間の『郷里』が『命』であることは理屈的に納得できるし、その自分の『命』に『法(灯明)』があれば

  釈迦が死の間際に、弟子に『自灯明・法灯明に従って、他のものに従うな!』・・・と言い遺した事にもうなずける。

 

  その『法』である『郷里』から音信が絶えず我々に発せられ、『響鳴』しているのだが、その『琴線の音』を聞き取る能力が

  目覚めないのか、人生雑音でかき消されているのか・・・。

  私がこの歳になっても、覚えている子供の頃の『記憶』というのは、『郷愁』という形の『郷里からの響き』であった。

  『悟り』というのは私達にとって未来に起こる『未知』のことではなくむしろ『過去』にすでに音信されている事柄なのだ。

  だから『観世音』、『観自在』であり、未来も過去もそれに関しては『時の壁』は無いのだと思う。『還暦スキャン』はその意味で響く。

 

   

  コロナ罹患から2週間目を迎えるが、何となくだるい気がするのはやはりコロナのせいなのか?

  明日土曜は2度欠席したバトミントン日、体内に残る邪気を多量の汗とともに流すつもりだ。

     

      カボチャもダリアも秋を彩る色々。相方の能天気のキャラにはかなわない馬骨

 

  


  『上から目線』・・・

2022年09月19日 | 観自在

  どこからやってきた『上から目線』のテーマ?

  今日が『敬老の日』であると知ったのは、たった今だから、このテーマの出どころではありえない。

 

  そもそもこの言葉『上から目線』・・・って、私が日本に居た頃、あまり耳にしたことがない気がする。

  私自身はこれまで色界において21種の職種を、様々な地域を渡り歩き、それを仮に60歳で割ると、平均3年に一回は

  初心に還る立場であったから、他人を『上から目線』で観るヒマなど持つことがなかった。

  観光ガイドを始めたのが40歳、バトミントンを始めたのが45歳、引越し屋として雇われたのが50歳・・・

 

  これらが、異国の地スイスでのことであり、スイス語(私の場合、フランス語)がろくに解らない立場であるのであるから

  初心者感は満載であったであろうが、日本にいた頃からそうであったので、私はその事はなんとも思わずに過ごすことができた。

 

  もとより、何も知らずに禅界に足を踏み入れてしまった身としては、知らずして『空』界に飛び立つ道を選択していたわけで

  『色』を『空』から観下ろす智慧というものを、実地の色界での様々な出来事を通して身につけていった・・・というのはあるだろう。

                      

  この写真は、先日私の唯一出来るレシピ、カレーライスの重要パート『玉ねぎカット』の際に、ゴーグルをしてみた際に

  ニコルによって撮られたもの。私はこの写真をみて『ギョッと』したが、実は爪楊枝を咥えている『エイリアン』に見えたのだ。

  『玉ねぎ』を観る『上から目線』は『GPS』並に『エイリアン』レベルでなければならない・・・のだと、改めて思ったものである。

   *書きながら、『エリザベス女王』の葬儀をアイパッドで観ているアングルは教会内を鳥瞰図で厳かなのだ。

 

     


  2045 『人間 : ホモ・サトリ』

2022年09月17日 | 観自在

  今日の話は、私の妄想力の最たるモノの一つになるかもしれない。

 

  2045年というと一般に『シンギュラリティ(技術的特異点)』の年として知られている。

  その『AI』研究は副産物として『仏道AI』を促す、どちらの『AI』も結局、道元の『自己を習うなり…』に集約するのであるから。

  その結果、『仏道AI』の『悟り』は、宗教の域を超えて人間の進化の証として広く認知される年が『2045』ではなかろうか?と思う。

  その際、日本語の『人間』は『ホモ・サトリ』と訳され、辞書にも提示して広く世界に浸透するだろう。

  『人間』という言葉はそもそも仏教語であるが、その真義『悟る人』で『ホモ・サトリ』の意で使われる最初の時期を迎える。

  

  私もハラリ氏の『ホモサピエンス全史』を読むまで、自分が『ホモ・サピエンス』であるとは知らなかった。

  ラテン語でホモ(Homo)とは『人』を表し、サピエンス(sapiens)は『知恵のある』という形容詞でホモ・サピエンスで『賢い人』。

  それが、今後様々な形で『悟り』研究と実践が進むにつれ、本当の意味での『大乗仏教』の時代が訪れ、釈迦の到達した境地は

  『人間の進化』した姿として認知され、宗教という枠を超えるに違いない。

 

         

     2045年のシンギュラリティに対して、人間も『ホモ・サトリ』に進化しなければ・・・

  


  『 一刻一畳 』・・・の命

2022年09月15日 | 観自在

  私が高校一年の時、実母が死に、結婚したばかりの姉のお婿さん、つまり義兄が私の親権者となった。

  以来、姉夫婦のところに遊びにゆくと義兄は実の弟のように可愛がってくれた。

  その義兄がまだ存命中、北海道の田舎に二軒目の自宅を建て、その家をスイスから相方と一緒に訪ねた時

  義兄は実に嬉しそうに『2軒目の一国一城の主になったぞ・・・』と、誇らしげに話していたのを忘れられない。

  若い時の苦労が実った一つの形なのであるから、私も素直に彼等の新築の家を誇らしげに思ったものだ。

  ただ私自身は、家を持つ…という事を考えることすらしたことがなく、『一国一城』をうらやましいとも思わなかった。

 

  北海道に住み着いている姉夫婦に、私の人生の歩み、特に禅の修行のことなど話しても解らない…だろうと話していなかった。

 

  その私も70歳になり、これまで忙しくて老人の末期など観察する暇もなかったが、相方の叔母と伯母の両方が

  数年前に90歳を過ぎて老人ホームで亡くなったのを観て、少なからず驚いたのはあれほど立派な一戸建ての家に

  住んでいながら、自分で歩けなくなると老人ホームのあまりカスタマイズ出来ないさっぱりした部屋で死ぬまで過ごすのを

  観ていると、彼等の内心のギャップはいかほどのものであろうか・・・などと思った。

       

       昔、坐った居士林の道場にジジイの自分をオイ・コラージュ

 

  そういった点から考えても、できるだけ若い時に、『起きて半畳、寝て一畳』の贅沢の一切を剃り落とした修行生活を

  ある一定期間、体験することはとても重要なことのように思う。

  禅の修行は私に『一国一城』ならぬ『一刻一畳』の生き方を徹底的に叩き込んでくれた。

  


ARRiVAL・到達

2022年09月11日 | 観自在

   今日三度目、映画『メッセージ』を鑑賞。今回は吹替版であったので細かいニアンスも理解することができた。

  この映画に関して去年ブログに書いたので参照を願う。 2021年7月3日のブログ記事

  この映画はたぶん、観るたびにインスパイアするモノがある優れた作品であると思う。

          

 

  映画冒頭部分で『人は時の流れに縛られている・・・その順序に』という主人公のセリフが効いていることも今回初めてわかった。

  面白いのは、字幕版だとここのセリフが『人は時の流れに縛られて、生きているけど・・・』となっていて『順序』という

  この映画のキーワードが省略されていた。

  これに続くセリフは私が最も気に入ったセリフで、『記憶って不思議、色んな見え方をする』というもので、2つ目のキーワードだった。

 

  私の渡欧の目的は『禅の・仏教の素晴らしさ』を伝えたい…というものであったという事は『還暦スキャン』して今わかった。

  そして『禅とか仏教』とか言ってもつまるところ『悟り』が問題であるということも。

  で、その『悟り』というのは一般的に『厳しい修行の末に』得られる境地・・・と信じられている。

  今日Youtubeラジオで、ある禅寺の老師が一番困るのは子供による『(あなたは)悟ってますか?』という質問だと困惑気味に言っていた。

  私は老師が困惑する理由もわかるが、その話を聞いて正直、違和感を覚えた。

  子供に対して『悟り』を大人の事情…なようなものをにじませ、ズバリと言えないのはおかしい・・・と思う。

  白隠禅師もいっている『衆生本来仏なり』と。しかし、そこには直線的な人間性(この場合:記憶)しか観ていないのではないか?

 

  この映画『メッセージ』では『未来の記憶』が問題として取り上げられている。

  この『記憶』で時間的には真逆というか普通の記憶ではあるがその重要性について書いたことがあった。

  2021年1月20日のブログ記事『赤い糸の記憶』

  私の考える『郷里サトリ』は郷里である仏心からの響鳴としての『記憶』を辿ることで『道』となると確信している。

  この映画の原題が『Arrival』で到達・・・というのも意味深だ。

  般若智への到彼岸のArrivalで『摩訶般若波羅蜜多』となり、その『道』の到達が『円相』だ。

 


   仏道という 『 A I 』

2022年09月08日 | 観自在

  我ながら、このタイトル『仏道というAI』・・・面白いと思う。

 

  いわゆる『AI』は(人工知能=Artifici Intelligence)で、色界における究極の『知性』を目指す。

  この『AI』が決して到達することが出来ないのが『仏道AI』なのだ。

 

  道元禅師曰く『仏道とは、自己をならうなり・・・』とある如く

  『仏道AI』の『AI』とは『Accomplish Identity』(自己同一の成就)の略で、空界での『智性』を表し、『般若智』の覚醒をいう。

  そしてその時、『仏道AI 』は『AI = 愛』となる。

 

  『自分とは何か?』という疑問こそは、洋の東西を問わず、人として生まれたからには問わずにいられない究極の『問』であろう。

  実際、そこにこそ『人間を解く』キーワードがあり、他にどこを探そうというのか?

 

           

      我らが愛する彫塑家Jean-Marie Borgeaud氏の作品『愛に抱かれる人魚』を破格の値で買った(実は作品も破格の部分があった故…内緒)

               *梟(フクロウ)は智慧の象徴

   


  『人』 と 『人間』

2022年09月04日 | 観自在

 

 

 

  『不立文字』(文字や言葉で伝えられない境地)を重んじる禅の修行した自分がこれほど文字・言葉にこだわる

  ことになるとは、不思議な気がする。しかも、30年にわたってスイスに住んでいるのに・・・。

 

  仏教をまともに勉学しようとすると、どれほど困難であるか… 言葉にできない心境を仏教用語という言葉で表された経典を

  もとにそれを紐解く時、チンプンカンプン感満載になるのは無理もなく、また真逆に経典すら用いず、ひたすら坐禅し、公案という

  別な意味でチンプンカンプンの『問い』に立ち向かう・・・ どちらがより親切か?

  私のように理屈より『直感』をより重んじるタイプの人間であれば、『禅』でよかったし、最後の最後は 何宗にせよ

 『不立文字』で腑に落ちるのだと思う。

 

  坐禅でもしない限り、一般的には『立文字』から仏教を学び始めるであろうとき、日常何気なく使っている日本語『漢字』に

  インド・中国・日本それプラス朝鮮等の影響下で秘められたであろう『般若の智慧』(人類最高の知性)が込められている言葉を認め

  そこから仏道入門するという可能性があるとすれば、その敷居の低い最大の利点を活かそうというのが私の語学ならぬ『悟学』なのだ。

 

  先日 『人』の字の話をしたが、今日は別な視点から見てみると『人』の字は、私が子供の時感じていた『歩いている人の姿』を

  象った文字と捉えるほうがより自然だし、人間は動物の一種であることを端的に示しているようで腑に落ちる。

                            

   そうなった時、『人間』という別の言葉の『間』が気になってきて 2022年6月9日のブログ記事 にその『間』について書いた。

 

  今回は『人は動物』という一面から、いつの日にか『人間』という『間』を獲得した経緯について考察してみた。

  東洋では昔から『身心一如』という思想を重んじてきたが、猿のごとく心の定まらない状態に終止符を打つべく、人は『坐禅』をあみ出した。

  坐禅をしても『心』が定まるには長い年月がかかるが、あるときピタッと定まるのを『禅定力』というが、そうなると身体は動いていても

  心は働きながらも『制御』される状態になる。

  人にそういった心の働きの場があるのを『間』と昔の賢者は呼んだ・・・と私は読んでみた。

 

  


  名前を漢字ろ!

2022年08月30日 | 観自在

  『漢字』に目覚めて以来、『漢字は東洋思想を解く方程式』である・・・などという大胆な提唱をしている。

 

  考えるに、私達日本人は生まれてすぐ、両親によって子の幸福への願いを込め、よりすぐった『漢字』で名前をつけられる。

  『袖触れ合うも他生の縁』ではないが、漢字の名前こそは生まれて最初に頂く『意志』なのではないだろうか。

  一般に『子宝』と表現をするが、子供はまさに無条件で『仏』そのもの。親の思いを込めた漢字名は、その子の個性を示している。

  普段はそんな事を考えないであろうが、まずこういった形で我々日本人は『漢字=感じ』との絆を結んでいる事をあらためて思う。

 

  ときどき犯罪を起こした人たちのニュースを見るが、その名前をふと観ては、『アア、こんなに立派な名前を親から貰っているのに…』と

  名前にふさわしくない罪状に非常に残念な思いになることがある。

  名前に込められた『意味』を、親は子供たちに日頃から伝えておくことで自尊心を育む要因になり、犯罪に手を染めること防ぐかもしれない。

  『漢字』にはそういった『力』がある。『悟学』で読み解く文字はすべて『絶対肯定』で人を幸せにせずにはおかない。

  名前こそは最初の『公案』とも言えるのではないか。

       

       『馬骨』は私自身がつけた居士名だ。一丁前なことを言うお前は『どこの馬の骨』という自戒の念を込めている。


  禅『?』の刺青

2022年08月28日 | 観自在

  禅というと『禅問答』・・・を第一に思い浮かべる人が多いのではないだろうか。

 

  私が修行した臨済宗では、修行者に対して『公案』という『問題』が与えられ、老師が『OK』するか

  こちらが『KO』するまで、その『問題』と対面し続けるもので、私に言わせればそれはむしろ、『恒案』と言うべきモノで

  私の心にはその公案が刺青され、『悟る』か、『死ぬか』しなければ消えることはないだろう。

 

  禅の修行では『大信根・大疑団・大勇猛心』が三要諦といわれるが、私の場合、肝心な『大疑団』がしっかり冬眠中であった。

  『禅は疑問のある者からそれを奪い、疑のない者にそれを与える・・・』ものだと、当時の自分を振り返るとそう確信する。

  誰の頭(あるいは心)にも、大疑団はあるのだが、そこに焦点が定まるにはそれなりの『縁』が必要なのだと思う。

 

  居士という立場で、私が対面した公案はたった一つであり、時間も正味4年間ほどの僧堂接心での体験でしかない…のであるが

  それでもこの体験は世間的には『希少体験』であることに違いなく、その意義について真剣に考察するに、

  私ごとき者にも、未だ体験のない人々に何か生きる上での参考になるものがあるように思え、ここに書いている次第だ。

 

  同じ『?』でも、普通の『疑問』と『公案』とでは何が違うかというに、例えば、『24時間x3〜4年』考えても解らない『問い』に

  関して『沈黙を守りながら考え続ける・思い続ける・・・』修行をし、接心という集中修行時には『朝・昼・晩』と自分なりの解答

  を持って老師に対面しなければならないのだ。

  この体験は我が人生にとって最も貴重な体験であった。

  それは一人で出来るものではなく、伝統システムが整っている禅寺でなければなかなか体験は難しいだろう。

 

  特に、インターネットで次から次に人間の興味が移りゆく時代に、

  一つの『?』に一心不乱に集中する『モノ』は『禅』を除いて他にあるだろうか?

 

  人間の『愚かさ』やAIの『賢さ』に、本当に対抗出来る人間の能力の発露はこうした禅の『公案』による

  『?対応』如き『心の初期化と更新』が必要なのではないだろうか・・・。

 

      

 

  


   新学期かな 2022

2022年08月23日 | 観自在

  昨日朝 近所を散歩に出かけると 日本で言う小学校1年生? 制服こそ着ていないが背負っているリュックは新品。

  地元では夏休みが終わり新学期が始まったようだ。 

  お母さんが眩しそうに、我が子を見ている。 初々しい気分が感染った気分。

  定年退職の『俺たちに学期はない!』・・・だったら創るべか? たった一人の『新学期』。

 

  仏学・悟学校の新学期。・・・馬骨流。

  先日読んだ仏教学の本に、『大乗仏教は釈迦の仏教とは別物』・・・とのこと。これがいわゆる『大乗非仏説』だ。

  しかし、いきなり『不立文字・教外別伝・直指人心・涅槃寂静』の坐禅修行に飛び込み、『庭前の柏樹子』という

  考えてもどうしょうもない公案を35年、引きずってきた私には、この学者説は正直どうでもいい。

  だのになぜか確信を持って言える、『悟った瞬間』、釈迦の仏教は必ず『大乗仏教』にならざるをえなかった、という事。

  何故そこに確信を持てるのか・・・そういったことを『悟学』で探究してゆきたいと思う、新学期かな。

 

  Youtubeが広深し、『仏教』を勉強したい・・・と思う人が増えていると思う。その人達がぶつかる壁が複雑な仏教事情だろう。

  その点、『禅』は文字通り『単(シンプル)に示す』と書く。シンプルとは『0=無限』で実に『単』純。

  調身・調息・調心・・・で『命が発する絶対(0)の周波数に合わせ、何かを受信するまで3分間待つだけ』だ。

  その行為を私は『観音』と呼んでいる。

      

          Japan・Impactで買ったFanélia女史の素晴らしいイラストの全貌

  この絵を会場で観た時、2017年に初めて京都の伏見稲荷の鳥居をクグッたとき、閃いた事が『考えるな、漢字ろ!』への展開となった

  経緯(いきさつ)を図にした『絵』であると直感した。 私は『辰年』生まれだし・・・、それにMustの『湖』も描かれている。

  インスパイアすること間違いない。