拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  読書の『紫秋』

2022年08月16日 | 観自在

  最近、三冊ほど読了して『読書』の骨の折れる事をあらためて思う。

  ガイド15年、引越し屋15年の計30年、通勤電車中で本は読んだものの、ガッツリ読書からは遠のいていたので

  『読書持久力』が衰えて、ストーリー性のない本を読む時はいつの間にか船を漕いでいたりする。

 

  その『読書』で思い出したのが『NHK特集〜AIに聞いてみいた、どうすんのニッポン健康寿命』という優れ番組

  詳細は4年前の私のブログ ピンピンコロリへの道 - 拈華微笑に書いてあるので一読願いたい。

  (*健康寿命とは〜健康上のトラブルによって日常生活が制限されずに暮らせる期間と定義

           日常的に介護などを必要とすることなく自立した生活を送れている年数…)とのこと。

  ちなみに最新2019年度の 健康寿命は 女性(75.4歳) 男性(72.3歳)であった。

  NHKのスーパーコンピュータ、『AI・ヒロシ』君による調査の結果、健康寿命には次の三要素が重要とわかった。

  ① 子供と暮らすな一人で暮らせ ② 治安のいい所で暮らせ ③ 運動や食事より読書が大事・・・

  という意外な結果がでて、進行役のマツコ・デラックス、有働アナ等を驚かせていた。

  健康寿命に『読書』・・・つまり頭脳を鍛え、知的・遊戯三昧が大切であると『AI』は教えていたのだ。

 

  昨日カフェで、相方が91歳になる父親に依頼されていた電話番号を携帯で伝える際

  旧来の備え付け電話番号は問題なく伝わったのだが、もう一つの携帯番号を伝える時に

  『ポータブル(携帯)電話』という言葉に多分引っかかったのだと思うが、というのは

  義父は携帯電話が苦手なので脳神経のシナプスが途切れた模様で、数字の『5』はどう書くのか?…

  と、相方に聞いてきたのだ。相方は驚きと悲しみで笑って対応していたが・・・歳をとるとはそういうことなのだ。

  だんだん言葉が奪われて、『赤ん坊』のようになっていく・・・。

        

  そこで思ったのだが、人生のサイクルは

  『 赤ん坊〜青春〜黄夏〜紫秋〜赤惚 』・・・と終いには、『赤=無垢』に帰ってゆくのであろう…

  アンパンならぬ、チョコパンを由緒ある13世紀の教会の鐘の音を聞きながら『紫秋』の馬骨は思うのであった。

              

 


   梵踊り

2022年08月16日 | 観自在

  一昨日の13日に久々に姉に『観電話』した。

  姉『明日、子供たちとお墓参りに行くんだけど、お盆だね〜』

  私『えっ!、そうかお盆か・・・』

  姉『え〜っ、お盆だから、電話くれたのかと思った〜』 

 

  じつは私の辞書には『お盆』はほとんどない。  

  高校1年半ばまでは、私には先祖が無く、半ば以降母が亡くなって母が先祖になったけれど『お盆』を迎える風習は

  私には芽生える暇がなかった。 だから、姉が普通に『お盆に墓参り』の風習を子供たちと執り行っているのを聞くと

  不思議な気がしたのだ・・・。なんせ、姉の息子は私が卒業した中学で英語の先生を皮切りに、教頭、校長となって

  今、北海道の小さな学校で校長先生だし、娘は保険所の〇〇長として働く一児の母だ。

  普通の家族で育たなかった我々姉弟は、それぞれ、それなりに家族を築いたということであろうか。

         

  昔の写真をみていたら、円覚寺の境内で行われていた『盆踊り』の写真が見つかった。

  多分、接心の時であったと思う…。接心中であれば本来『盆踊り』などに参加しないはずであるが・・・

  しかし、そもそも『盆踊り』は空也上人の『念仏踊り』が源を発して供養の意味もあるだろうし、いいだろうよ。

 

  私の場合は『梵踊り』で、『梵』という字は『林+風』の字で成り立ち、林の上を吹く『風の音』を表すのだそうだ。

  私がこの時にやっていた公案が私を『観音』に導いたことを考えると、『梵』の字 が上等で、毎日が『お梵』だ。

  

 

 

 


 『無』は 『明鏡湖水』

2022年08月14日 | 観自在

  スイスに来た理由を何回か聞かれたとき、私は小指を立てて『私はこれが理由でにスイスに来ました』・・・と言って

  昔のタバコの代替品のテレビコマーシャル?のマネをするが、今ではそのギャグが解る人はほとんどいないようで寂しい。

 

  スイスのにわかガールフレンドの招きに応じてローザンヌに来たのが最初で、38年前になる。

  当時の私にとって外国=アメリカで、まさかヨーロッパ、しかもスイス、しかもローザンヌに来るとは誰が予測できたであろう。

  最初のヨーロッパということで、いろいろ印象に残った中で、最も印象的だったのは『レマン湖』であったと思う。

  山や街ではなく、レマン湖畔を彼女と一緒に散策した時の思い出が一番印象に残り、あまりの美しさに、『私は決してスイスには

  住まないだろう、ボケてしまうに違いない・・・』と、芯からそう思った事をよく覚えている。

 

  でまぁ、レマン湖畔に住んで30年。昔とまったく変わらない風貌で私を迎い入れてくれレマン湖であるが

  ある時、『無』の字について考察していると、こんなストーリーを思いついたのだ。

       

  写真左はローザンヌの街を船から撮った写真。 右側は湖の写真である。

  『無』という字は無でありながら字画がやたら多く『街』の様だ → 一方、湖を見ると波があるだけで何も無い

  その『有るべきモノ』が『ない』ことの強烈な印象を字にしたのが『無』なのではないだろうか…

  (*下の4っの点は『魚』からして波とみなせる)

  実際、湖を見ると何も無いところに、畏敬の念を私は抱く。(確かにボケつつありながら・・・)

  頭が雑念でゴチャゴチャしていても、湖を見ることでホッと癒やされるのはその『無』の力なのだと思う。


  『悟り』とは何か?

2022年08月12日 | 観自在

  これまで、私自身の人生の中でこういった『問(悟りとは何か)』を私自身、自分に問うたかどうかあやしい。

  『禅とは何か』とか『仏教とは何か』あるいは『宗教とは何か』・・・というようなタイトルの本は何冊か読んだ気はしている。

  私の場合、そういった疑問がそれほど強烈ではないためなのか、本を読んでいるうちに、肝心な疑問が何であったか忘れたり

  有耶無耶になってしまって、結局『禅とは・仏教とは・宗教とは』という問いの答えが本を読んでもよく解らない…ということが多かった。

 

  特に『悟り』などというモノは、『言葉で説明できるようなものではない…』というのが相場であり、私はじつに素直にそうなのであろう・・・

  と、何となく了解していたので、それ以上詮索することがなかった、というのが正直なところであった。

  だから、禅修行をしていたときも、『悟り』のことなどまったく考えていない私は、老師などからしたら取り扱い難い弟子であったであろう。

  周りの若い雲水たちは3年という年季があるので、真剣さにみなぎっている中で、特に期限のない私は、何度ダメ出しされても屁とも思わず、

  『駄目でも受け入れてくれる、ここ(修行所)は、いいなぁ〜』・・・と内心ニコニコ顔で参禅していたのだから・・・。

 

  まぁ、それは兎も角。『悟り』という言葉を聞くだけで、『いや、私は英語はデキません〜』…と、外人から逃げ隠れするオッサン、

  オバサンと同様な反応をするのが一般なのではなかろうか。

 

  私などからしたら、人間として最も大切な行為?『悟り』を、『私なんか、そんな『だいそれた』、とてもとても…』などと言って

  謙遜ぶっている人々がいるが、まさに『間抜け』にしか見えない。 (*『人間』の『間』は『悟りの間』であるから)

 

  確かに、『悟り』なるものは、言葉などでは表現できないものに違いない。

  しかし、一つだけ確かなことがあり、それだけは言えると思うのは『人間は自分をごまかすことが出来ない』という真実だ。

           

            レマン湖に浮かぶ休憩所? 小さくて見えにくいが、カモメが休憩中、その奥にモンブランが…

  


  心はなぜ円い・・・のか?

2022年08月11日 | 観自在

  昨夜レマン湖に浮かぶ大きな月をみた。ほぼ円く見えたが、調べると満月は明日の12日とのこと。

       

  『 円(まどか)なること 太虚に同じ 欠けること無く 余ること無し 』という禅僧の書のカレンダーが

  私の部屋に掛けられていて、昨日のほぼ満月の月を見て この詩を思い出した。

  禅が目指すのは『円い心』であると思うが、何故ならどこにも執着がないことを象徴しているからだろうと思う。

  これを指して『天上天下唯我独尊』と釈迦をして言わしめたのであろう。

  本来『円い心』が風波で散り散りになって『心配』や『心配り』となって働く・・・それが当たり前、心は自在に形を変える

  ただ、根本は『円い』ことを片時も忘れないことで『般若の智慧』が働き出てくる。そういう『間』を人間は持っている。


  原始 『Zen-IT』 〜その2

2022年08月06日 | 観自在

  IT…というのが一般的に『情報通信技術』と言われ『処理』という言葉が略されいるようだ。

  しかし、この技術は複雑極まる無数の情報を『処理』する主体があって初めて有効に機能するものと言える。

  コンピュータの『電脳』にしても、『人脳』にしても、情報を『処理』する判断基準が『何』であるのかによって

  人類に幸福をもらたすか、破滅をもたらすか・・・目下のところ、それは一重に『人間』に委ねられている。

 

  今朝たまたまYooutube で、アメリカ政界にも『統一教会』の影響が浸透している・・・という話を見たが

  宗教理念が政策に介入している事項、例えば『人工妊娠中絶問題』、アメリカ市民の60%以上の人が『中絶』に賛成であるのに

  トランプが大統領に就任した時、最高裁の判事の数が保守派がリベラル派より増え、宗教的には少数派である福音派等の意見が通って

  『人工妊娠中絶』禁止・・・となった。

  そういった保守的宗教団体の支持を受けてきた歴代の共和党出身大統領であるが、レーガンあたりから経済的に力をつけてきた『統一教会』が

  積極的に支持を強め、影響力を高めていき、トランプ大統領にまで強い影響を与えているというのだ・・・。

 

  アメリカには『政教分離』という理念はないのだろうか? 日本だってカルト教団に乗っ取られていることが徐々に明らかになっている現状を

  見るに、本当に恐ろしいことが世界的に起こっていると感じる。

 

  以前にITに関する 2022年6月11日のブログ記事一原始『Zen-IT』を書いて、内なる『IT技術』の開発を促した。

  それはつまり、『情報』を処理する主体の確立に他ならない・・・ということであると思う。

  仏教では『慈悲と智慧』と表現するが、拡大する『智慧』を最終的に処理し、新たに創造する『智慧』を起こす主体は『慈悲』であることを表している。

  その『般若の智慧』の覚醒こそ『悟り』・・・と名称し、その欠如が様々な禍(わざわい)をもたらしている。

            

              最近使い始めたアプリ『Zen-Brash3』。

              書道はやったことないが、電子ペンで習字ができるという不思議・・・『Zen-IT』を究める道具となるか?

 

 


  太極の舞

2022年08月01日 | 観自在

  退職後であるからもう4,5年前になるが、時代劇で織田信長が出陣の前夜に『能』を舞うシーンに出会った。

  私は大変感銘をうけ、以来ジョギングをする日は昔習った太極拳を一曲舞うことにした。

 

  私は『能』のことは何も知らないが、この時観た信長の『能』に、私が習った『太極拳』を観た気がしたのだ。

  このことが、再スイッチとなり渡欧以来忘れていた『太極拳』にあらためて関心を寄せる事になった。

 

  太極拳は私が禅の修行を本格的にはじめた時期と同調していて、その頃の私の生活は『夜間バイト』と『禅修行』と

  『太極拳習得』の三つに集約されていた。

  結果的に私は3人の先生に太極拳を学んだが、今から思うと私の『太極拳』は自然、禅的というかスピリチュアル性の高い

  方向性を持っていたように思う。

  最初は『楊名時』先生のお弟子さんから『白鶴の舞』としての太極拳を学んだ。その頃の私は本当に初心者であったので

  何が何だか解らずに動作を真似るのに精一杯であったが、今も持っている先生の本2冊を観るに、『武』よりはよほど『舞』を意識した

  精神性の高い『太極拳』を目指していた事がわかる。こういったところに『能の舞』に通じるものをより感じる感性が養われたのだろうか。

 

  二人目は『村瀬大翼』先生で、大道学舎というのを立ち上げ、坐禅と太極拳を両輪にして一般の修行者向けに門を開いている奇特な禅者。

  長い顎髭とガッチリした体躯で行う大様な太極拳は、中国の老師のそれを観ているようでゆったりした気分になった。

  接心や滝行にも参加し、やりたいことの方向性が私と一致する気がした…。指導試験に合格したところでやめた。

 

  3人目の先生は日中友好交流の関係で中国から来ていた『李徳芳』先生。彼女の父親が現在の『24式太極拳』を考案した筋金入りの先生。

  この先生からは『24式』『48式』『88式』などを学んだ。私のお気に入りは『48式』であったが、今では『24式』以外は全て忘れてしまった。

 

  今、私は毎朝『練功十八法』+真向法という体操と時々『太極拳』(週3回)をしている。

  日常生活のなかで、ちょっと『舞う』という『方法』を習っていて良かったおもう。 

 

             

            目指すべき『道』の遠いことをつくづく感ぜずにおれないゆえに・・・

        

 

  

  


  『 修行 』 とは・・・

2022年07月31日 | 観自在

  私たちのDNAには、愛人を探しだし、いつの日にか子孫を残そうとする本能の働きがあるが

  じつはそれとは別に、より本質的なDNAの機能があり、それは『Doubt /Nature/Absolute』で、『疑う=?』という形で

  身心の成長の過程で『?』が育まれ、それが『道』や『修行』へと人をして誘う要因となっている。

 

  『修行』という正しいシステムに『縁』を結んだ幸運な人は良いが、そうでない大半の人々は

  その機能を十分に活用することなく、またそういった機能が自分にあることも知らずに人生を終わってしまう。

 

  私たちの祖先は、彼等が習得した機能をなんとか後世の人間に知らせようと工夫した結果の一つが『漢字』に込めたメッセージであった。

  今日はその一つ『修行』という言葉を見てみよう。

  『行ぎょう』を『修める』・・・で、『修行』と読ませる言葉。 では、『行』とは何か?ということがポイントになる。

 

  ここは馬骨流解釈になってしまうが、『行』の『彳』は『ぎょうにんべん』で『常に二人』を表し、つまり『行』は『常に二人で行く』の意味。

  『同行二人』という西国巡礼のお遍路さんが『弘法大師と一緒』に行く・・・というのと同じようなニュアンスであるが

  『修行』で見つけなければならないのは『本来の自己』で、それが時に『師』となり『友』となって人生を共にする『自己』なのである。

         

          私の『同行二人』はこんなオッサンであるが・・・(いないよりマシかも)

  

 


  魔境の戒め

2022年07月25日 | 観自在

  巷はいま『統一教会』の話題で一色。(インターネットで日本を眺めるかぎり)

 

  『宗教と政治』の関わりも『政教分離』の点から問題視すべきものであるが

  統一教会の場合、宗教教団とも呼べない、信者を限りなく不幸に向かわせるカルト教団であり、

  元会員等の話を聞くと、『地獄・サタン・先祖の不幸』などの単語が飛び交い、そういった『恐れ』を回避するための

  唯一の方法が『献金』であり、有り難い『壺や数珠や印鑑』などを購入することである・・・

  などという『教え』に、純朴に従う信者たちの存在にこそ私は驚く。

 

  戦後生まれの私たちは、戦前『国家神道』という形で戦争に突き進んだ歴史を省みるあまり、『宗教』から疎遠に育ってきた。

  家に仏壇や神棚があって、手を合わせはしても、その宗教的意味を理解している両親のもとで育った子供は稀であろう。

  そういつた子供達が大人になり、ひとたび困難に出会った時に、精神的免疫が何も無い『純朴な人々』は、一見『霊的権威』の

  ありそうな詐欺師にコロリと洗脳されてしまうのではないだろうか。

 

  私が禅の修行を始めて初期の頃、ある有名な老師の書物に『魔境』という状態が修行過程のなかで起こることを戒めていた。

  今それをググると、『禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを

  崩した状態の事を指す』・・・と説明があるが、確かに私も自宅で独り坐禅をしていた時など、真っ暗なはずなのに、私の周りだけ

  明るくなったり・・・とか何度かあった。こういった事が『魔境』なのだろうと自覚していた私はそれを取り合わずにいた。

  ましてそれが、仏様や菩薩様に見えようなら『叩き潰せ!』と古の禅師たちは口を揃えて言っている。

 

  ほかの宗教はしらないが、『禅』は超常現象というものをまったく『一顧だにしない』・・・という教えが有り難い。

 

        

  

 

  

 

  

  

  

  


  それで 『 陰陽 』

2022年07月24日 | 観自在

  私はどちらかと言うと、あまり陰陽マーク☯・・・が好きではなかった。

  鍼灸学校でちらっと『陰陽五行説』とか学んだような…

  太極拳も3人の先生に指導を受けたが、その時にちらっと学んだような…気がするが

  何だか自分とは関係がないような、それに陰気な白黒家紋の雰囲気がなじめずにいた。

 

         

  しかし、私の『悟学』によって、☯こそは『忄』(りっしんべん)の字源で、『悟り』を表していることが解った時から

  私は『陰陽』を大事に思うようになった。

  『陰陽』マークは『色即是空空即是色』を見事に視覚化しているようにおもう。

  それが解った時、白黒の二元を超えた『円相』も観えてくるのだろう。

       

        早朝に散歩すると清々しいMorgesのレマン湖。日中は30度を越えて暑かった 『暑中見舞い申し上げます』

  


  アベノミクス崩壊の瞬間

2022年07月14日 | 観自在

                        

 

  私自身はこれまで何度も言ってきたように、『 3・11 』以前までは政治経済にはまったく無関心…、というよりむしろ嫌悪感を

  もっていてノンポリを自認していたので、長い間『バブル崩壊』という現象すらなんのことか知らないでいた。

 

  その私が、昨日見たこの動画で『マトリックス』ならぬ『アベノミクス崩壊』の瞬間を目前にしたという事実に

  かの有名な比喩『事実は小説より奇なり』…を思い浮かべながら、その闇の深さ、同時にそれがあまりにも鮮やかに視覚化された衝撃に

  『安倍晋三の死』が、これからもたらすであろう様々な『崩壊の様子』を予告する動画に眩暈しながら、小説よりもはるかに奇な形で

  いわゆる『因果応報』の仏語が複雑怪奇な『シンゾー・パズル』を、誰も想定しなかった『銃弾』という言葉で解き明かしたのだ。

  

          

            この動画が削除された(何時だったのか知らない)。権力側にとって不都合な内容であったか?

 

  小出裕章氏が最近SNSに投稿した『アベさんに対する銃撃について思うこと』を是非一読してほしい。

  目を覆ってその数々の悪行を見て見ぬ振りする人々がこの動画の人々のように『うろたえる』様子は悲しくもあり、滑稽だ。

  

  この動画を観た衝撃について、文字に起こす…能力は残念ながら私にはなく、動画を見ることで誰もが抱くであろう違和感こそ重要なのだと思う。


  合掌〜(その3)『自分=仕合わせ単位』 の 象徴

2022年07月07日 | 観自在

  数日前は『合掌は悟りの象徴』と書いたが、『悟り』などという気難しいワード以前に『幸せ』としての『仕合わせ』の行為

  が『合掌』であると言うほうが、本質がわかりやすいであろう。

  『合掌』は洋の東西を問わず、『祈願』の行為であることは間違いないと思う。

              

                             

       

  仏教、なかでも『禅』は『己事究明』を旨とする仏の教えであれば

  『自分〜自ずと分かれ、自ずと分かる』・・・この『分かれて、分かる』その行為そのものが『合掌』であり『仕合わせ』で

  その象徴が『合掌』なのだとわかる。

  その分かった先に『不二の法門』が開かれ、主語のない『幸せ』を願う自分を見るだろう。

 

       

       ここに、そういった『幸せ』を願う一人の男のことが語られている・・・


  合掌〜(その2) 悟りの象徴

2022年07月03日 | 観自在

  これまで何度か、というか何度も考察している『合掌』。 2022年6月13日のブログ記事合掌〜(その1)蓮華 などなど。

  毎回、案外これが決定打・・・ なんて思うのだが、ところがどっこい自分勝手にドンドン深まる。これが『法門無量誓願学』かな〜。

 

  でも、これこそ究極の『合掌』の真意・・・、何のことはない、『悟り』つまり『不二の法門』の象徴であった。

            

  『不二』というのは『二つにあらず』であるが、そのこころは『二つであるが、一つである』・『色即是空空即是色』etc.etc....

  右手と左手を合わせる=合掌。 これってとても深い意味を持っていた。・・・仏教徒の挨拶であり、当然ともいえるが。

 

  私達一日のうち、合掌している時間は普通の人で、食事前の『いただきま〜す』の挨拶として3回だから約3秒・・・であろう。

  残りの一日の時間は合掌していない。合掌のことなんて忘れてしまっている。

  しかし、仏教徒はそれをわすれてはいけない・・・というのが『教え』である。自分というのは自分一人ではない、『自他不二』の世界。

  『合掌』には主語がない・・・行為であることを『悟る』行であり、すでにその時『悟っている』ことを自覚する行為ともいえる。

        

  ところで、さっき一時間前ぐらいに、写真のようにかの『メロリンQ』が東京錦糸町での参院選の街頭演説ステージに現れて、踊りだして

  ビックリ…した。10秒ほどのダンスであったが、山本太郎が16歳のとき踊った踊りの再現をチラリ・・・と見せたのだ。

  その『つづき』は、いつか太郎が総理大臣になった際に完全版を披露する!という公約・・・だそうだ。私はそれを観る日が待ち遠しい。


 太郎の鬼滅

2022年07月02日 | 観自在

  今国会の質疑で我が『れいわ新選組』のクシブチ万理議員が岸田総理に対して『鬼』といい、次いで大石あきこ議員が『犬』と言って

  SNS上で大いに話題になったものであるが、突然『れいわ新選組』の参議院選挙に立候補した水道橋博士が、我々国会議員こそが

  国民に忠義を尽くす『犬』でなければならない・・・などと言い出し、にわかに政治界で『鬼』『犬』のキーワードが飛び交っている。

           

 

  『鬼』とか『犬』といえば『桃太郎』・・・ということで、必然的に現代の桃太郎こと『山本太郎』による『鬼退治』が想定されてきた。

  そこで、約一年前に書いたブログ 2020年11月28日のブログ記事『現代における鬼滅とは?』

  を思い出した。 

  だからアニメ映画『鬼滅の刃』というのは、まさに『れいわ新選組』活躍の伏線にも見え、『鬼退治』で国民の生活を守ろう…という

  『桃太郎物語』そのものへの流れになっているし、そうならなければ日本は本当に『破滅』に大きく向かうであろう。

  

              


  投票率(48%)・ 悟り率(7%)?

2022年06月28日 | 観自在

           

  前回の参議院選挙(令和元年)の投票率は48%だったそうだ。

  『投票権と悟り権』を提唱している自分としては、ここで『悟り率』というものも発表というか、知りたいものだ。

  ただ、『悟り率』・・・という新語を使うことで、仏教の役割のようなものが、自分なりに鮮明に観えてくる気がした。

 

  宗教としての仏教。

  葬式では世話になっているのに、肝心な心の救済としての『悟り』が置き去りにされているのが仏教界の現状であろうか。

  『悟り』は崇高なものでもなんでもなく、まさに『基本的人権』・・・として、私達は真剣にこれに取り組む時期にきているのではないか。

  人間を不幸にする一切は『悟りの欠如』・・・自他に対する慈悲心の欠如で、これを仏教では『一切皆苦』と宣言している。

 

  喫茶去(まずはお茶でも一杯…)ではないが、まずは『投票権』で、社会の平安を勝ち取りつつ、『悟り権』の獲得に取り組んではどうだろうか。

 

        

  私は今日、ジュネーブの領事事務所にいって在外投票をしてくる。(海外であるから日本より早めの投票となる)