拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『意識』と知識

2024年09月06日 | 東洋自分なり研究所

  『AはAではない、ゆえにAである』・・・と言ったのは、『即非の論理』といって我が 鈴木大拙 師があみだした論理・・・。

 

  このわけのわからない論理? 何のこっちゃヤロ・・・とずーっと思っているうちに、『仏教は仏教ではない、ゆえに仏教である』と

  いつの間にか思っている自分がいた今日此の頃。 『仏教は仏教ではない、ゆえに禅である』・・・と私は思い込んでいるようだ。

 

  そう、禅は『全・善・然』・・・なんかが、ほどよくミックスされた何かなのだが(語呂的に日本語は上手いこと出来てるナ〜)

  とにかく禅はまず、『意識』を立ち上げるだろう。

  そして、『意識』の『意』は『心に音が伴っている』識で、それを活用することが『観音』で、『般若智』には『観音』という『意』が働く。

 

  例えば『自由時間』という日常用語・・・この『自由』を『佛語』と意識したとき、その意味合いは次元を異にしてしまう…ということ。

  そういった『意』をもって世の中を『観』る・・・のが、『意識』で『知識』とはだいぶ違うようだ。

  その意味では『自由は自由ではない、ゆえに自由である』・・・というスズキ大拙の即非の論理が成り立つわけか?

  そうしてみると、漢字を使った日本語というのはじつに『不立文字』で深い言葉・・・ゆえに『考えるな、漢字ろ!』なのだと思う。

 

           

  この図は、その昔 おっちょこちょいの私は禅寺からスイスに直行してスイス人に教えようとした『練功道』と名付けた中国気功体操のポスター。

  この体操は『イー・アー・サン・スー・・・』と中国語数字を一から八まで数えながら行う体操であるからそこに私の『意』を添えてみて

  『 数息観の意の在るところに参ずれば、龍の智慧を発するを得る 』・・・というような意味を込めてみたが、まったく看板倒れであった。