映画『ジョーカー』は2019年10月に公開されているから、私もその頃地元スイスで観たのだろう。
フランス語字幕の英語オリジナル版であったから、言っていることの60%もわかっただろうか?
それでも、病的なほど暗いストーリーは視覚的に十分伝わり、映画の途中で帰りたくなるほどであった。
あれから5年たつわけであるが、『臭いものには蓋をしろ』的に、私としては二度と観たくない映画の一つであるのに
最近になってNetflixなどでやっていることに気付いてから、なんとなく『再度観なければ・・・』という気が湧いて観ることにしたのだ。
あいにく日本語字幕版がなく、英語字幕で観て、気になるところはストップしては意味を汲み取りながら観たが、相変わらずの『暗い』ストーリーは
主演のホアキン・フェニックスの怖いほどの名演によって、抜き差しならぬ方向に陥っていく様を観ながら、どういう我が愚脳の意図か
昔、写真家の藤原新也が言った『人間は犬に食われるほど自由だ・・・』のセリフが頭に浮かび、『自由』について考察する羽目になってしまった。
『自由』という言葉については、私自身、長年にわたりまったく無頓着であったが、スズキ大拙の著書で『自由』というものが、
英語で言うところの『freedom』や『liberty』のような、何かの束縛からの『解放』というものではなく、本来的に『自らに由って』の『自由』であり
その思想そのものは、西洋にはなく、東洋独特のもので、仏教由来の言葉である・・・というような文章に出会った時、
私は初めて『ああ、そうなのか』と思ったことを覚えている。
問題は、何故私はこの映画『ジョーカー』を観ていて、『人間は犬に食われるほど自由だ』の『自由』を思い至ったか?である。
私が『佛語』と勝手に認定する言葉には、量子力学のように、必ず意味の『重ね合わせ』『もつれ』の法則がある・・・気がしていて
それというのは、人間には『地獄に行こうが、天国に行こうが』自由・・・である一方、それとは全く別な次元で『自らに由って華を咲かす』
というような、自然に『満ち足りた生き方』が『自由』に、したがって自動的にできる生物でもある、と確信する自分が存在している為だろう。
いつであったか、『自分経』というのを披露したが、『自ずと分かれ、自ずと分かる』・・・それ自体が人間の真の『自由』を意味すると解した時、
この映画の『ジョーカー』のように、ひたすら自縛する『自我』からの『解脱』こそが『自由』なのだと解った時、なんだか私はやっとホッとすることができた。
この映画を再見することの意味は、この『自由』の発見であって、この絶望的に『暗い』映画が評価される裏にはその事が秘められているからだろうか。
修行僧のことを『雲水』と称するが、『自らに由って』をひたすら体現する者だから・・・
中の油を抜き「抽」
中が空っぽになって「由」・・・