拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『坐』という結界(2)〜 究極の姿

2024年09月02日 | 東洋自分なり研究所

  結界が『開』いた・・・ことで、私の『考えるな、漢字ろ!』が始まった・・・と私は思っている。

 

  2017年、定年退職記念というわけでもなかったが、数年ぶりで相方と日本旅行をした時、私達は初めて伏見稲荷大社の鳥居をくぐった。

  その尋常ではない数の鳥居群を通り抜けながら、パワースポットに入り込んでしまったのか、退職後に『禅』を人に伝える方法を模索していた私に

  『⛩』と『門』で『開』・・・であるという『漢字』の答えが開かれたのだ。

  何かというと、『⛩』は神道、『門』は『山門』のことで『禅寺』を意味するとき、日本という国は『神仏習合』でその『結界』が開かれている…

  という、子供のような発想で私は腑に落ちていた。

  それがキッカケとなって、それまでなんとも思っていなかった様々な『佛語・漢字』が、『漢字方程式』を使うことで『漢字在(観自在)』に

  それまで『曰く言い難い』事柄であったものが、『漢字』でもって、『佛語』を簡明に解説することを得たのだ・・・。

 

  最新の私の『漢字方程式』で『坐』を観るに、『結界』という次元を『無』と『空』という二段階で昇華している事が観える。

  まず『土』台部分で、『➕・➖=無』。 

  次に『人』が二人、対称的に対峙する様が描かれて『観る者が観られる者』となる双方向の『観』が生じそれは、『空』にまで昇華する。

 

  ・・・と、御託はそれくらいにして、動物の一種である人が、『坐』を実行して不動の『無』になることは、ある意味『拷問』に等しいことである。

  心身をかたときも『静止』したことのない人にとって、身も心もじっと『静止』することは実際、足が痛いし、気持ちは気が狂わんばかりに苦痛だ。

  『鳥居』の結界は通り抜けるだけでいいが、『坐』の結界は『覚悟』がいることは間違いない。

  しかし、釈尊は『坐』が動物である人が、『人間』に目覚める究極の姿であることを初めて示してくださった・・・。

  

  私達は『AI時代』を迎え、生命を圧倒的な『スピード社会』の中に落とし込み、益々『人間性喪失』を経験して疲弊している。

  これに対抗する唯一の手段は『坐』で、徹底的に不動の自己に目覚め、『涅槃寂静』の境涯に遊ぶことではないだろうか・・・。

  少なくとも、意識をそこにもって生きることが大事なのだと思う・・・今日此の頃

         

         『坐』は動物としての人が、『人間』に目覚める究極の姿

  



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