拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  人生の問

2025年01月04日 | 東洋自分なり研究所

  昨年の暮、私より年配の古い友人(日本人)を誘って近くのハッピーアワーで一杯飲ませる店のテラスで飲んだときの話。

 

  無類の読書好きの彼が本を持って歩いているのは不思議がないが、カバンから『法華経』に関する本を2冊取り出し、私にくれると言う…。

  で、読んだら『法華経』について教えてくれ・・・というのだ。

  彼いわく、この本はつまらない…、著者自身が主催する組織の宣伝ばかり・・・ということらしい。

 

  彼とはこれまで、佛教について語ったことは一度もなく、私がどれほど佛教と関わっているか、昔禅の修行をした事がある…ということを

  私から聞き知っている程度で、宗教についてはむしろ、彼が牧師について聖書の教えを受けていた話を昔聞いたことがある程度であった。

 

  とにかく『法華経』に関する2冊の本は有り難く頂いたうえで、法華経について何も知らないながら、『法華』という言葉から私が抱いた

  印象・・・『人間も法の華を咲かす、その事を説いたお経』であろう…という馬骨論がツイ顔を出し、『人間とは何の為に生きるのか』という問い

  に答えたもの・・・でしょう?と、私はそれとなく彼の同意を求めると、彼は俄に顔色を変え、『そんな問などどうでもいい』と言わんばかりに

  私が同意を求めた問に対して、無き事にしようとする物言いとその態度に、何故か私は激怒していたのだ。

 

  私はめったに怒らない人間であるけれど、怒ると身体全身を震わせて怒る・・・初めてこれが起きた時(36年前)、隣に相方がいて驚いていた事が

  久々に起きたわけだ。

  友人は、何故私がこれほどまでに怒るのか・・・、実は私自身何故なのか解らなかったが・・・同席していた相方は呆れた顔でそれを目撃していたはず。

 

  私は今になって、その理由が解った気がする。 それは『人生の問』の欠如、それが欠如した人間が『法華経』を教えろ・・・という事に私は怒ったのだ。

  そして、彼にとって不可解な『私の怒り』は、じつは彼の問への私の『答え』ではなかったか・・・と今では思う。

        

 

  『問』という字に一黙を加えることで、『間』になり、それが『人間』という言葉を構成している『佛語漢字方程式』の完成度を私は賞賛する。

 

  『人生の問』と出会う事は案外難しいことなのかもしれない、

  お経に『仏法聞き難し』とか『無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭いおうこと難し・・・』とあって、昔は大げさな表現であるなぁ〜と、

  思ったものだが、それってつまり『人生の問』のことではなかったか?

 

  私自身の事を考えても、禅と出会うまで私は何の『問』も自覚することができなかった。

  確かにとてつもなく大きな『問』を持っていたが、それを自覚する方法が解らなかったのだ。

  だから、『仏法聞き難し』とか『無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭いおうこと難し・・・』というお経の文句も今はよく解るつもりだ。