拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
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 『禅』は三段打ち上げロケット!

2025年01月18日 | 東洋自分なり研究所

  何かが大きく変わろうとしている時代、その最先端2025年における『禅』の果たすべく役割について展望してみたい。

 

  馬骨の『水晶占い』ではないが、禅についてはこんな風景が観えるのだ・・・

         

             禅ロケット音は『観世音』を発し、音色は『天上天下唯我独尊!』で飛翔中

 

 

  禅とは何か? という問いが常にまずくるわけであるが、禅に携わった者でも、その見解はそれぞれであることを前提としても

  釈迦の『悟り』というエッセンス(本質)を捉えての『禅』であることは間違いないだろう。

 

  ここからは、無学な馬骨論になるが、

  禅が人類救済の為に、人類自らが打ち上げたロケットであるとした時

  地上から宇宙に打ち上げる為に、最初の打ち上げエネルギーとして『初期仏教』があり、次に『大乗仏教』があって、

  『三段ロケット』の様相を経て現在の『禅』がある・・・と、観てはどうだろうか。  

 

  この『三段ロケット』と言うところを、今年の『巳年』にちなんで、『脱皮』といってもいいと思うが

  禅というのは、歴史的には『三段ロケット』であるけれども、あらゆる時空の制限から絶えず『脱皮』している点から言えば

  『脱皮』という言葉がより本質を捉えているかもしれず、それ故に『禅』を外から傍観する人々には、『禅』が観えずらいのだともいえる。

 

  9世紀の中国唐代の禅僧、臨済禅師は『仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ(臨済録)』・・・とすでに凄いことを言って

  『禅』が何モノにも属してないことを、極端な言い方で強調している。

  仏陀も、あらゆるイデオロギーから、自由な立場であることを『天上天下唯我独尊!』・・・と初めから言っているわけだ。

 

  その点については、私は臨済宗の禅寺・円覚寺で禅を修行したが、徹底していて、私は禅が仏教であることすら念頭になかった。

 

  どんなに、科学が進歩して『物質』の本質に迫ったとしても、イデオロギーの呪縛からの解放という問題はまた別問題で

  人をして無にする『仏質=仏性』に眼を向ける『禅』の存在により注視する必要があるのだと思う。