何かが大きく変わろうとしている時代、その最先端2025年における『禅』の果たすべく役割について展望してみたい。
馬骨の『水晶占い』ではないが、禅についてはこんな風景が観えるのだ・・・
禅ロケット音は『観世音』を発し、音色は『天上天下唯我独尊!』で飛翔中
禅とは何か? という問いが常にまずくるわけであるが、禅に携わった者でも、その見解はそれぞれであることを前提としても
釈迦の『悟り』というエッセンス(本質)を捉えての『禅』であることは間違いないだろう。
ここからは、無学な馬骨論になるが、
禅が人類救済の為に、人類自らが打ち上げたロケットであるとした時
地上から宇宙に打ち上げる為に、最初の打ち上げエネルギーとして『初期仏教』があり、次に『大乗仏教』があって、
『三段ロケット』の様相を経て現在の『禅』がある・・・と、観てはどうだろうか。
この『三段ロケット』と言うところを、今年の『巳年』にちなんで、『脱皮』といってもいいと思うが
禅というのは、歴史的には『三段ロケット』であるけれども、あらゆる時空の制限から絶えず『脱皮』している点から言えば
『脱皮』という言葉がより本質を捉えているかもしれず、それ故に『禅』を外から傍観する人々には、『禅』が観えずらいのだともいえる。
9世紀の中国唐代の禅僧、臨済禅師は『仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ(臨済録)』・・・とすでに凄いことを言って
『禅』が何モノにも属してないことを、極端な言い方で強調している。
仏陀も、あらゆるイデオロギーから、自由な立場であることを『天上天下唯我独尊!』・・・と初めから言っているわけだ。
その点については、私は臨済宗の禅寺・円覚寺で禅を修行したが、徹底していて、私は禅が仏教であることすら念頭になかった。
どんなに、科学が進歩して『物質』の本質に迫ったとしても、イデオロギーの呪縛からの解放という問題はまた別問題で
人をして無にする『仏質=仏性』に眼を向ける『禅』の存在により注視する必要があるのだと思う。