撃たれた父、畑に埋めた「沖縄戦10月も終わらず」 オリオンビール会長・嘉手苅義男さん語る 2020年6月21日 琉球新報
オリオンビール会長の嘉手苅義男さん(81)は沖縄戦で父・松吉さん=当時37歳=を失った。1945年10月、嘉津宇岳で米兵に撃たれた松吉さんの遺体が見つかり、まだ7歳だった義男さんは自らの手で父親を一家の畑に埋めた。
やんばるの山中には沖縄の女性を襲う米兵や日本軍の敗残兵がいて、地上戦を生き延びた住民が犠牲になった。
嘉手苅さんは「6月23日、8月15日で終戦と言うけれど、それは間違い。沖縄の山の中は10月まで戦争だった」と慰霊の日を前に自身の戦争体験について初めて松元剛編集局長に語った。
嘉手苅さんは屋部村(現名護市)旭川の出身。嘉津宇岳の山裾に家があった。嘉津宇岳と並ぶ八重岳には日本軍第32軍の国頭支隊(宇土部隊)が陣地を築き、軍から食料や鍋、農具などの供出が命じられ、松吉さんは防衛隊員として伊江島に駆り出された。
45年3月下旬に名護への空襲が始まり、名護湾に集まった米艦船が本部半島に艦砲射撃を繰り返した。
嘉手苅家も空爆の直撃弾に遭い旭川に避難、いとこたち5人が犠牲になった。空襲を免れた嘉手苅さんは母・芳子さんと4人の姉妹とともに山中のガマ(自然壕)に身を潜めた。激しい艦砲射撃で山に逃れた多くの住民が犠牲になった。
本部半島を制圧した米軍は4月16日に松吉さんのいる伊江島に上陸。「沖縄戦の縮図」と言われるほど激しい地上戦となっが、松吉さんは仲間と舟を作り夜中に島を脱出し家族と合流。羽地村に設けられた米軍の収容所に家族でたどり着いた。
戦後のはずだった10月、松吉さんは地元の友人の妹を米兵から守るために、収容地区を抜けて嘉津宇岳の集落を目指して山に入っていった。松吉さんは戻らず、嘉手苅さんは叔父たちに連れられて父を探しに出た。
山中で銃に撃たれた松吉さんを見つけ、自宅の畑まで遺体を運び穴を掘って埋葬した。嘉手苅さんは「せっかく伊江島から生きて帰ってきたのに。あんなに悲しい思いはその後の人生でもない」。
大黒柱を奪った戦争は一家の境遇を一変。芳子さんは戦後、女手一つで5人の子を育てるため那覇の平和通りの市場で商売を始めた。嘉手苅さんは学校に通いながら働き、母親を支えた。
「おやじを土に埋めた話なんて、今までなかなか身内にもしなかった。やはり戦争はあってはならない。私は一番の戦争反対者だ」
(抜粋)
6月21日 琉球新報(記事上の写真はマラリアの治療で腕に負った傷跡を示すオリオンビールの嘉手苅義雄会長81歳)
日本降伏から75年も経ってから
「玉音放送」から2カ月後(沖縄戦終結からなら4カ月後)に米兵に殺された父親を畑に埋めた(今まで身内にもしなかった)話を今回やっと地元新聞社に語った沖縄名産のオリオンビール会長の嘉手苅義男さん。やっと何かが吹っ切れたのでしょう。(★注、沖縄戦から75年の節目で心境が大きく変化したが、今のコロナ騒動の影響で81歳の自分の死を「避けられない」と自覚したのだろうか?)
東京湾の戦艦ミズリー号甲板上で日本側全権の重光葵外務大臣と梅津美治朗陸軍参謀総長の降伏文章署名は1945年9月2日
ところが、沖縄戦の降伏文章署名は沖縄県中頭郡越來村森根で5日遅れの9月7日(日本側は第29師団長と第64旅団長、海軍参謀長がアメリカ第10軍に降伏調印)極東最大のアメリカ軍の嘉手納基地がある沖縄市では9月7日を「沖縄市民平和の日」としている。
★注、辺野古の米海兵隊基地建設反対の玉城デニー知事与党(オール沖縄)が県議選で過半数を維持するが、逆に負けた(自民公明が勝った)のが嘉手納基地の沖縄市と普天間基地の宜野湾市。(アメリカ国務省メア日本部長の「日本人はゆすり集りの名人」との暴言を思い出すが、普天間のように人口密集地にある大阪国際空港(伊丹空港)の騒音を理由に空港撤去を訴えていた周辺8市が、関西空港の造成後に本当に撤去できる条件が整ったら180度態度を空港の存続に切り替えて現在に至っている)
2020年05月28日 | SARS-CoV-2と情報戦 かくすれば かくなるものと知りながら・・
次なる脅威は「病院閉鎖」 コロナで一般患者減、経営悪化 日本医師会・横倉義武会長
コロナで一般患者減 経営悪化 5月27日毎日新聞
(兵糧が尽きて)狂気のPCR検査抑制キャンペーンから真っ先に脱落した(正気に返った)日本医師会
日本医師会は政府専門家会議と組んで「PCR検査すると医療崩壊」との日本独自の摩訶不思議な新興カルト宗教「検査スンナ派」(熱が出ても4日間は家で寝る。病気は自力で治す)の一大勢力だったが、病院を訪れる一般患者が激減、経営悪化で診療所閉鎖や病院の倒産の危機に陥った。自業自得、因果応報。それ以外の結論は何処にも無いがあまりにも悲惨な成り行きである。
(抜粋)
狂気のPCR検査徹底抑制での最大の被害者は経営悪化の大病院ではなく、感染症の最前線に立つ一般開業医だった。(★注、SARS2では唯一の検査方法であるPCR法をわざと封印した日本政府や専門家会議の本当の目的とは、果たして、何だったのだろうか。?)
大阪府医師会長「コロナで医師3人死亡」 感染者を診断 2月22日朝日新聞
大阪府医師会の茂松茂人会長は22日、府の新型コロナウイルスの専門家会議に委員として出席して「(府内の)一般の診療所でおそらく3人のドクターがコロナで亡くなった」と明らかにした。府によると、5月20日に70代の医療従事者の男性が亡くなっているが、3人に含まれているかはわからないという。
茂松会長は会議後の朝日新聞などの取材に対して「患者さんがコロナ感染者とは気づかず、診療所やクリニックで診断した先生3人」と説明した。詳細については「ご遺族の意向もあり、分からない」とした。
★注、
厚生労働省が発表している大阪府の感染者は1806人、死者数は86人。(ただし、分母になる検査人数は不明)
設備や技術が優る地域の基幹病院でも院内感染を起こすなら、最初の窓口の診療所は一番危ない
日本政府(厚労省)とNHKの感染者や死者数が一致していないが、この謎は、福島県検討委の小児甲状腺がん患者の総数を発表していないように今回の新型コロナでも同じ、なんとも胡散臭い不真面目な手法を取っているのでしょう。
日本以外の諸外国では医療従事者の患者数や死者は必ず発表しているが日本では世界基準のPCRさえ忌避する特殊なガラパゴス島だった。日本の政府専門家会議がPCRを徹底的に抑制した結果、開業医の感染リスクは飛躍的に高まった。
★注、正に、かくすれば かくなるものと知りなら・・・である。それ以上でもそれ以下でもない。戦争でもコロナでも同じで、始めるのは簡単だが終わらせるのは難しい。(何とか終わらせることに成功してもその影響や傷跡がほぼ永久的に残る)