食卓に豚肉が上がると、赤身の部分だけを食べ、脂身を残した。
父は食べ物を残す事を決して許さなかった。
「全部食え」と父の命令がくだる。
私はいやいや脂身を口にするが、体が拒否して、えずいてしまう。しかし、父の命令は絶対だった。ほとんど、噛まずに丸呑みした。
食卓で、父はよく戦時中の食料事情を話した。
米が食べられず、もっぱら芋、かぼちゃが主食であった事。食べたい物が食べられず、育ち盛りなのに、量も多くは食べられなかった事。お腹をすかせてひもじかった事などを語った。
食に恵まれない子供時代を送った父は、魚の食べ方が特にきれいだった。身の欠片のひとつも残さず、魚の骨のみ残す。魚を食べるのが苦手だった母は、父の皿を見て何時も感嘆していた。
父は用意された献立は、どんな物でも絶対に残す事はなかった。
恵まれた食料事情の中で、「食べ物を残すのはもってのほか」と父が思うのも当然と言えば当然だ。戦時中、食に恵まれず苦しんだ人や、戦地で食料の補給がなく、餓死した兵士も沢山いたのだから。
そんな父に育てられた私は、自分に与えられた食事を残す事はない。
そんな信念を貫いた結果、大変になった事がある。
二番目の子供の出産の時、長男は4歳だった。
体の弱い母に長男の世話をお願いするのは憚られた為、一緒に過ごせる助産院を探した。
自宅からはかなり遠くはあったが、4歳の長男を連れて地下鉄を乗り継ぎ、徒歩で往復40分程の道のりを検診の度に歩いた。
長男はよく頑張って歩いてくれた。
小さな助産院は、とても大きな公園の向かいにあった。
長女を出産してから、助産院の一室に長男、長女と三人で過ごし、息子には退屈な思いをさせたが、私は満足だった。
出産した翌日から朝昼晩と三食の食事が用意された。
作ってくれたのは、助産院のお手伝いをされている80歳前後のお婆さんだった。
初めて食事のお膳を見た時は驚いた。
毎回、丼一杯の白飯と丼一杯のうどん。一食にご飯とうどんがてんこ盛り。
それにおかずが付く。
更に、もう一膳同じものが出て来て、はて?
尋ねると「息子さんの分」と言う。
ひえー。息子はまだ4歳で、食の細さは人一倍。
私は一人前で良いと伝えたのだが、「料金に含まれているので」と言われ、それ以上何も言えなかった。
長男はうどん4本位とおかずをほんの少しつまむと、ほとんどを残した。
私は自分のお膳を平らげると、残った息子の分を眺める。
父に叩き込まれた「残すな。全部食え」が、聞こえてくる。
元々私の胃袋は健胃である。
大食いは得意中の得意。自分の胃袋を“底なし沼”の様だと感じていた。
そんな訳で、せっかく作ってくれた献立を残すわけにはいかないと、息子の分も毎回平らげた。
そんな日々が、一週間。
母乳を出すのに効果があると言う米の飯とうどん。2人前、いや、量的には自分が食べるいつもの量の3~4倍は食べただろうか。
こんなに食べたのに、母乳の方はさっぱりだった。
退院の日、夫の車で自宅へ帰った。
「太ったかな」と感じ、自宅に戻りすぐに体重計に乗った。
60キロ超え!
子供を生む前と同じ体重。産んだのに!
そして、自分の足を見てまたビックリ!
こんなに太い象のような自分の足を初めて見た。
その後は二人の子育てに慌ただしい毎日を送る内、直ぐに体重は元に戻った。
あんなに炭水化物を食べたのは、後にも先にもあの時が一番だった。
“底なし沼”と思われた自分の胃袋にも底がある事を知る年齢となり、最近は私もすっかり少食になってしまった。