私の目の前に、駅員さんと女性がバタバタバタと走ってやって来た。
駅員さん「ここですか?」
女性「はい、この下です」
札幌の地下鉄には、現在全路線に転落事故防止の為に、“可動式ホーム柵”が設置されている。
駅に電車が侵入し、完全に停車してからでないと、防護柵は開閉しない。
会話を聞くともなく聞いていると、どうやら線路に落とし物をしたらしい。
何を落としたのかと思い、さりげ無く一歩足を踏み出し柵越しに線路を覗くと、カバー付きのステンレスボトルが確認できた。500ミリリットル程のサイズの物だ。
駅員さんは、あれですか?と確認した後、「もう、電車が来ますので」と、今はどうする事も出来ない事態を説明し、電車がやって来る方向を見た。
私はレールの直ぐ側に落ちているステンレスボトルと、これからの事に思いを巡らせた。
札幌の地下鉄は車輪がゴムタイヤなので、カバー付きのステンレスボトルとの衝突はソフトなイメージだが…。
ボトルの位置は線路の直ぐ側だけど、まさか脱線なんてしないよな?レールの上にボトルが乗っかっている訳じゃ無いんだから…。
電車を一時停止して、チェックの為に、電車を遅らせるなんて事にならないよな?そんな事になったら、遅刻しちゃう。
アレコレ考えている内に、電車が南方向から侵入してきた。
あー、ボトル!どうなる?
スピードを緩めたとはいえ、私のいる最南端のホームはかなりの速度だ。
ホームに入ってきた途端、見えない所でボトルが飛んで、あちこちにぶつかる音がした。
電車のゴムタイヤとボトルカバーのおかげと言うべきか、音は心なしか優しく、カバーがなかったらもっと心穏やかではいられない音がしたのでは無いかと思われた。
そうはい言っても、この調子じゃボトルはボコボコになっている事は、容易に想像できた。
電車が停車し、可動式ホーム柵が開き、
いつも通りに乗車した。
本来ラッシュアワーの時間帯だが、緊急事態宣言の為、すいている。
椅子に座り、電車が発車すると、再び、哀れなステンボルトが電車に翻弄され、あっちへこっちへぶつかっては飛ばされる音が、足元の電車の床下から微かに聞こえる。そして、音は電車の進行とともに遠ざかり、消えた。
電車が去ったあとのホームのその後を妄想する。
地下鉄の駅員さんが傷だらけになったボトルを、長い棒状の落とし物拾い専用具を使って拾うのだなあ。ちゃんと拾えるのだろうか?
あの持ち主さん、40代位の女性は傷だらけになったボトルを、受け取って持ち帰るのだろうか。使えないよな、もう、あのボトル。
あの人は出勤途中だったのだろうか?だとしたら、遅刻しなかったのだろうか?どうして線路に落としてしまったのだろう?防護柵の上に置こうとして、しくじったのだろうか?
などなど、あれこれ考えているうちに、目的の駅へ到着した。
地下鉄の線路に物を落とす人は結構多いようで、先日もワイヤレスのイヤホンを落とした人と駅員さんの会話を、すれ違いざまに耳にした。
特にワイヤレスイヤホンの様な小さな物は、拾うのが至難の業の様で、駅員さんは困っている様だった。
地下鉄から乗客が降りて来た時に、大人に抱っこされた小さな子供が、靴をいじっていて、脱げた拍子に、ちょうどホームと電車の隙間に運悪く落ちてしまう瞬間を目撃した事もある。
電車の乗り降りの際には、自分も落とさない様に気をつけよう。
他人事ながら、朝から事件を目撃してしまい、“被害者”がステンレスボルトなのに、心がざわついた一日の始まりだった。