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ポジティブな私 ポジ人

「死」というワードにひかれる理由

変な記憶がある。
記憶なのだろうか。夢かもしれない。

それは、かすかな後悔を感じながら命を奪われる最後の、死の直前の瞬間。
どんなに苦しく痛みが襲ってくるのかと身を縮めて待ちながら、その瞬間が訪れる。そしてその後の記憶は、思っていたほど痛くも苦しくも無かったなという感想?

いつからなのかわからない。子供の頃からかもしれない。そんな記憶のようなものが頭の片隅に残っているように感じられるのだ。

怖い夢だっただけかも知れない。
あるいは過去にとんでもない罪を犯し、処刑されたのか。それとも、正しいことであったのに、断罪されたのか。
前世の最後の記憶であったのだろうか。

私が死を意識したのは小学1年生位の頃だ。
私は死について父に尋ねたのだろうか。
「死んだらどうなるの?」と。
父は良い子は天国へ、悪い子は恐ろしい地獄へ落ちると寝床の中で私に語った。
そこから「死」という未知の事へ意識が向いたのだと思う。

当然、自分より年老いた父母が先に死ぬことを思い、しばらくは一人布団の中で泣くような日々を送った。
自分もいずれ死ぬ。それも恐ろしい事だった。恐怖にとらわれる自分が嫌だった。
何とか恐怖から逃れたかった。克服したかった。

自分なりに、恐怖に慣れることが、逃れられる一つの方法と考えた。それ以来、こぞって恐怖小説を読み、恐怖映画を観たりしてきたのだ。それが「死」や「恐怖」という題名が付けば、何でも手に取ったり、観たりすることを続けている理由だ。
それが結果的に、有象無象の「死」に関する情報を得ることになった。

実際、自分自身が死んでみなければわからないことではあるけれど、これまでに自分なりに得た情報から、俗人である私なりに信じている事。
それは、霊魂は存在し、現世では肉体に宿り、肉体が滅びた後は、魂の居るべきところで待ち、やがて再び新しい肉体へと宿るのだということ。

今、死ぬことが怖いかと尋ねられたら、否と答えられる。

しかし、私のことだ。実際のところ、死に直面したら「死にたくない」と泣き叫ぶかもしれない。
でも、少なくとも「死が終わりでないこと」その先も続いていくこと、そう認識することは悪くない事だと思う。

現世で培った様々な事は無駄ではない。無駄になることはない。その先も続くのだから。
現世の記憶が無くなったとしても、恐らく現世で得意なことは、来世でもきっと活かされるに違いない。画家だった人は、きっと次の世でも絵が上手かったりするのではないか。人間性も魂に刻まれたまま、次の世へいくのではないかと、勝手に解釈している。
悪人は悪人のまま。善人は善人として。

死と同時に肉体を抜けた魂は“未知の新しい世界”へと旅立って行くのだと思う。
そう思うと、私は何だかワクワクしてしまう。どんな世界が待っているのだろうか。 
聞くところによると、あちらの世界へ行く時には、現世で味わった最高の幸福よりも、さらなる幸福感に包まれると聞く。

子供を身ごもったとき、お腹の中で主張する子供達の動きは、もうすでに性格をもっているようだった。

おとなしい性格の長男は、私のお腹の中では動きがおとなしかった。私のお腹を蹴るのは申し訳無いといったように、ニョロっとおたまじゃくしのように動いていた。

娘は早く出たがっているかのように、私のお腹の中で四肢を伸ばし、手や足が薄いお腹の皮を突き破らんほどだった。

産まれ出る以前から、すでに性格を持っているように感じた。産まれる前から、意志を持っているのではないか。
短絡的だとは思うが、これは魂の存在の証ではないのか。

自分と親密な関係にあった人は、死後も身近な存在として、生まれ変わり再度現れるという。

それを知ってから、最近密かに娘は父の生まれ変わりではないかと思ったりする。
父は生前「女に生まれたかった」とよく口にしていた。それは男社会が辛くてしょうがないということであったようだ。
そして父はいつだって、頑張り屋だった。そして要領が良かった。娘と似ている。
私はなぜか娘に頭が上がらない。中味が父だからではないか、などと思ったりする。

忙しく子育てに追われ、日々働いていた時期、辛いと感じた瞬間にいつも何か漠然と癒やされるものが家にある、と毎回心に浮かぶ。
そのたびにそれは何だろうと考えると、たどり着くのは「娘の存在」だった。

それは、娘としてというよりは、魂の安らぎを何となく得られる、例えて言うなら幼い時に無防備に父に身を預けていた、あの頃の安らぎに近い、神秘的な感覚だ。

つい最近、石原慎太郎氏と曽野綾子氏の対談集「死という最後の未来」を読んだ。
クリスチャンである曽野綾子氏は死後の世界の存在を信じている。だから、生に執着してはいなかった。
石原慎太郎氏は死後の世界の存在を否定していた。そのせいか、生きる事に貪欲なまでに執着していた。

石原氏は今頃、「おいおい、死んだら何も無いと思ってたら、あるんじゃないか」と驚きと共に真実にふれているのではないかと思われてならない。
そして、来世の順番待ちの時期には、せっかちな氏のことだ、「俺の順番まだなのか。書きたくてしょうがないんだよ。早くしてくれ」とぼやいているに違いない。




コメント一覧

ポジ人
インドア・ネガティブ様、コメントありがとうございます。

それは辛いご経験でしたね。
私はお若い方のご遺体と対面した経験がありません。父が最初でしたので、家族でしたから、遺体という感覚が先ずありませんでした。

お若い方で、自ら命を絶たれたという事が本当に辛いことですね。
インドア・ネガティブ
大学生の時、知り合いの女の子がマンションから飛び降り亡くなりました。お通夜でご遺体の顔を見たのですが、昨日まで元気だった子が「もの」になっていました。私にはそう見えました。隣ではその子と付き合っていた男の子が大声で泣いています。
それ以来お葬式に参列しても、ご遺体の顔を見ることができなくなりました。
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