ある夏の終わり、私が小学校1年生の時のことだ。
母が突然家を出て行ってしまった。
物心がつく頃から、父と母は事あるごとに、喧嘩をしていた。
母は泣き叫び物を投げつける。父も大きな怒鳴り声をあげる。まるでドラマに出て来るような、派手な夫婦喧嘩。
毎回、泣きながら仲裁したが、私が泣き疲れる頃には喧嘩は収まっていた。
二人とも感情的になりやすい似た者同士。特に母は、自分の感情をコントロール出来ない人であった。父はそんな母の感情の放出を「ヒステリー」と呼んでいた。
夫婦喧嘩の原因はいつも些細な事だ。
ある日の原因は、母が無断で赤いスカートを買ったことだった。
父にしてみれば断りなしに、しかも派手で真っ赤なスカートというのが、気に食わなかったらしい。
日々繰り返されるそんな毎日に、母も父に愛想をつかし、家を出ていったのだろう。
当時“離婚”は世間体が悪い事であり、タブーであった。
そんな訳で、父からは「他言無用」と言い付けられていた。
しかし、お喋りだった私にとって、我慢は至難のわざだった。
さらに父は、「あの人は今日から母親でも何でもない。近所で会っても関わらないように」と私に釘を刺した。
けれど、私にとって、母は母である事に変わりは無かった。
ある日、母から遊びに来るよう誘われた。父の言いつけを破る事になるが、断る事など出来なかった。
母は、戦後物のない時代に育ち、大家族故に色々我慢して育ってきた人だ。だから、初めての一人暮らしに、自由を満喫し、楽しんでいる様子が私にもありありとわかるほどだった。
母の家は、古い木造のアパートの一室で、廊下が暗かったことを記憶している。
私は何故か2〜3人のクラスメートを連れて遊びに行った。
友達が騒ぐので、「静かに」と注意した私が、廊下の段差でコケて大きな声を出してしまい、それが可笑しくて友達皆と笑った事を思い出す。
母は私達を歓迎し、新しく買った洋服や、家には無かった電気オーブンだったかトースターを買った事など嬉しそうに話した。
アパートの壁にかかっていた洋服の事を良く覚えている。
明るいオレンジ色のセーターで、ウエストの辺りを黒のベッチンのリボンがベルトの様に一周した品の良いものだった。
母は、新しく買った家電で焼き芋を作り、お土産にして持たせてくれた。だが“これ”が帰宅後、父の尋問にあうきっかけとなり、母の家に行ったことがバレて、大目玉を食らった。
母は、石原裕次郎のファンだったらしく、よく彼の歌を歌っていた。
また、古いアルバムを引っ張り出しては、自分が主役を演じた「アリババと40人の盗賊」の舞台写真を私に見せた。あれは、母が学生の頃の事なのだろうか。白黒写真であったが、母が舞台で熱演中の姿を写したものだった。アラビア風のターバンと衣装を身に着けた姿を見てかっこ良いなぁと思った。
血は争えないもので、私も歌う事が好きだ。
小学1年時の学芸会では、桃太郎のおばあさん役を演じた。
その姿を母が見る事は無かったが。
母のアパートへ遊びに行ってから暫くして、横断歩道で信号を待っていると、偶然母と会った。
母は上機嫌で私に言った。
「あたしね、今度結婚するの。」
当時の私は、「ふーん」と相づち位は打ったかも知れない。何の感情もわかなかった。ただ、子供ながら違和感は感じていたと思う。
大人になってから、思い出す度、母の無神経さに呆れる。
彼女は、母親に向いていない人だった。
ただ一度、編み機で私にセーターを編んでくれたことがあった。それは襟から胸元にかけて水色、胴体部分は白で、胴回りにぐるっと黒猫が並び、襟元と裾に水色のフリンジをあしらった、とても素敵なセーターだった。
その年の冬休み、私は家庭を元に戻したいと思った。
大きな画用紙に雪だるまのパーツを描いた。色を塗り、ハサミで切り出し、壁に位置を整え貼った。直径40センチ位の雪だるまが出来た。
そして、この雪だるまに「父と母が元通りになりますように」と願えば叶う様な気がした。
しかし、母とはその後ニ度と会うことは無かった。
今も生きているのか死んでいるのかさえ知らない。
今思えば、子煩悩な父が、私を引き取ってくれて良かった。
父は再婚した。
野生動物の様な私を、人間らしく育ててくれたのは、二人目の母のお陰だ。