一番下の妹、私にとっては叔母にあたる人は、大変家庭的な人で一時我が家に身を寄せていたことがある。
一年程一緒に暮らしたであろうか、私が小学2年生の頃だったと思う。
我が家に来たきっかけは、故郷で同時に二人の青年から求婚され、結論を出せず父に、相談に来たということだった。
独身だというのに、家計のやり繰りからお料理まで何でも上手で、家事全般に長けた人であった。そんな訳で、誰もが嫁にしたいと思うタイプの人だった。
私には学校から帰ってくると、必ず手作りのおやつを用意してくれており、私が持っていたバービー人形の洋服も、かぎ針編みであっと言う間に作ってしまう、大変手先の器用な人だった。
叔母は私に色々良くしてくれたが、中々に躾けが厳しく、時々衝突した。
それでも叔母の事は大好きだった。
父は叔母のお陰で一時的とはいえ、随分生活が楽になったのでは無いかと思う。
ある日叔母は、求婚者二人の写真を私に見せて、「どっちの人にしたらいい?」と、ふざけて聞いてきた。
写真を見比べてみると、「面長の目の細い人」と「丸顔の目のパッチリした人」だった。
顔だけで選ぶと私は丸顔の人の顔が気に入ったので、「この人」と言って、そちらを指差した。
叔母は「ふーん」と言って、微笑んでいた。
程なくして叔母は心を決めたらしく、仙台へ帰って行った。
叔母の選んだ人は、面長の目の細い人だった。
再び、父と二人きりの生活が始まり、少し寂しかった。
小学校の5年生のある日、父は私に「お手伝いさんを雇おうと思うが、いいか」と私に聞いてきた。
全く問題が無いので私は「いいよ」と即答した。
続けて父は「もしかすると、お手伝いさんと結婚するかも知れないがいいか」と聞いてきた。
父は随分私に気を使っていた様だが、
特に私は何も考えていなかった。
何れにせよ、私にとっては、何の問題もなかった。
新しい母になる人は、32歳で初婚だった。
ご近所の知り合いの方が、我が家の内情を知って、お世話して下さったと言う事だった。
初めて会った時、私が絵が好きだと父から聞いていたらしく、24色の色鉛筆をプレゼントしてくれた。
色鉛筆のパッケージは、可愛らしく微笑んだ少女の笑顔の背景に美しい花々が散りばめられている、薄紫色の物だった。
この色鉛筆のパッケージを描いていて、気になって最近ネットで調べたところ、漫画家牧美也子の絵であった。
それまで12色の色鉛筆しか持っていなかった私は、24色と言う色の数に驚いた。さらに、金色と銀色の色鉛筆が入っている事にも驚き、私はそのプレゼントにとても興奮した。
プレゼントを貰った効果は絶大だったが、そのせいだけでは無く、私は未来の母を好きになり、直ぐに仲良くなった。母親の愛に飢えていた私は、会えば心から楽しく、別れ際はとても悲しく涙がでた。
何度目かに会った時のことだ。父が席を外した際、父について質問をされた。
「お父さんはいつもクラッシック音楽を聞いているの?」
えっ、と思った。
父は演歌や歌謡曲しか聞かない。
城卓矢の「骨まで愛して」を父に歌唱指導したのは私だった。
それで、「全然聞かない」と答えた。
すると今度は「お茶を習ってるって聞いたけど本当?」
えっ、お茶?
父は茶道の「さ」の字も知らない。
知っているのは酒の「さ」の字のみ、それもディープに。
これも私は正直に、「習ってない」と答えた。
虚飾にまみれた「父の結婚大作戦」の策略を知らなかったとはいえ、勘の鋭い母に問われて、全て嘘を白日の下に晒してしまった。
元々クラッシック音楽と茶道とは、およそ縁の無さそうな見かけの父である。はなから嘘はバレバレだ。
その他にも嘘はあった筈だ。
それでも母は、“嘘まみれの男”父との結婚を承諾した。
結婚後母は、父の嘘は全て分かっていたが、私を見捨てることが出来なかったと言っていた。
愛情に飢えた私の為に結婚してくれた様だ。
結婚式は内輪でささやかに行われた。
母は鮮やかな緑色の着物を着て、クリーム色のサテンのリボンの髪飾りを付けていた。髪飾りは、母の義理の妹が手作りした物だ。母によく似合っていた。
母は、生母とは真逆の性格のひとであった。
父にとっては良妻であり、私にとっては賢母であった。
結婚した途端に突然小学5年生の子供の母親になってしまった母。おまけに、私は母親の愛情に飢えた問題児だった。
母が我が家に来てくれた事で、父と私に平穏な日々が訪れた。
一方で、これまで平穏に暮らしてきた母にとっては、波瀾に満ちた人生の始まりとなってしまったようだ。