♬ソーロ・グリース・デ・ラ・ノーチェ
信じておくれよ♬
この曲を聞くと思い出すのが、遠い昔、初めて就職した会社の先輩、ハラダさんだ。
ハラダさんは確か既婚者だった。薬指に銀色の結婚指輪をしていたような気がする。年の頃、30歳前後。
ハラダさんは、失礼ながらハンサムな男性ではなかった。顔の特徴は、目は一重、頬骨が高く、鼻は獅子鼻で少し上を向いていた。
渉外担当でいつも社外にいたから、そんなに話すことも無かった。
ハラダさんは、私にとって特に関心を寄せる対象の人では無かった。
当時、会社での飲み会は憂鬱な行事の一つだった。
宴もたけなわになると、カラオケが流れ、役席の面々がハラダさんに歌うよう促すのだった。
ハラダさんは満更でもなさそうな顔で、リクエストされた「夜の銀狐」や「コモエスタ赤坂」を歌うのだった。
ハラダさんに全く興味のない私だったが、「夜の銀狐」の歌声を聞いて驚いた。ハラダさんは素晴らしい美声の持ち主で、歌がうまかったのだ。特にサビの、
「ソーロ・グリース・デ・ラ・ノーチェ」の部分は、思わずうっとりするような色気を含んだ歌いっぷりであった。
社内に居ても居なくても、その存在に関心を払わなかった私だが、それ以来“歌の上手いハラダさん”として、認識するようになった。
歌のうまさでハラダさんを見直したせいか、彼の外見が記憶によく残っている。
髪はいつも七三に分けられ、キッチリと撫でつけられていて、乱れが無かった。
特に外出先から帰ってきた時は、白めの肌に頬が赤く、あっさりした顔立ちは、幼い坊やのようで年齢より若く見えた。
ハラダさんには何より清潔感があった。ワイシャツの襟はよくノリがきいていて、パリッとしていたし、スーツもオーダーメードのスーツなのか、体にピッタリとフィットしていた。
ハラダさんはスーツの上からでもわかるほど、胸板が厚かった。体を鍛えていなければ、あそこまでにはならないだろう。筋トレをして鍛え上げていたのじゃないだろうか。いや、それとも会社の野球部だったかも知れない。何れにしても、鍛えられた体は、彼のストイックさもうかがわれた。
ハラダさんの立ち姿が強く印象に残っているのは、ちょうど外出から戻ってきたところをよく目にしたからだろう。
ハラダさんは骨格が整っていた。足が長く、完全なる逆三角形の体系だった。
記憶にぼんやり残るハラダサンの外見を一つずつ思い出していくと、ハラダさんがすごく格好の良い、素敵な人であった様に思われてくる。いや、記憶に刻まれた思い出は、時が経つと美しさが増長されていくのだろうか。
美しい物に反応する私のセンサーは、ハラダさんの長所を捉えて、無意識に記憶にとどめていた様だ。
ハラダさんを顔でしか判断していなかったあの頃の私。年齢と共に男性観は変わっていくものなのだと、つくづく思う。
「夜の銀狐」をYouTubeで探し、本家本元の歌手の映像と共に聞いてみた。
ハラダさんの歌の方がずっと良かった。