SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

仏教思想概要5:《中国天台》(第3回)

(深大寺(調布市)・山門  2021年7月13日撮影)

 

 仏教思想概要5《中国天台》のご紹介の第3回目です。
 前回から第2章の「天台智顗の仏教思想」と、本論に入り、前回は「1.天台思想の真理」をみてみました。
 今回は「2.天台思想の世界観」を取り上げます。

 

2.天台思想の世界観

2.1.十如是と智顗による三転読

2.1.1.十如是とは
 天台法華の真理観から、もろもろの存在のありかたが規定され、また全体的な世界観が形成されてきます。十如是(じゅうにょぜ)は、存在のありかたを10のカテゴリーであらわしたものです。
 鳩摩羅什訳による『法華経』「方便品」第二には以下のように整理されています。(表16)


 原典や他の訳本では五個ないし、そのくりかえしになっており、表現もあいまいですが、十如是は、それまでに立てられていた事物の存在・性起(しょうき)についてのカテゴリーを鳩摩羅什が集めて、補整し、整合したものと考えられます。
 10個のすべてに「是(かく)の如き」の訳語が冠されているところから「十如是」と呼ばれ、この十如是が本末一貫した法として、もろもろの事物にそなわり、それぞれをささえる規範となっている。逆にいえば、もろもろの事物ないし、それをささえる規範(諸法)の具体的なあり方を示しています。つまりは「諸法実相」ということです。

 

2.1.2.智顗による三転読
 智顗は、十如是を空・仮・中という真理のあり方についての三つのカテゴリー(三諦)にあてはめて、転読しました。これを「三転読(さんてんどく)」といいます。
(『法華玄義』巻第二上による「如是相」と「本末究竟等」の場合 表17)



 つまり「究竟等」とは、空・仮・中の三法が即空即仮即中として円融具足されていること、空がいわれる時は一空一切空として空が十全に発揮されること、仮・中もまたそうであること、究極的にはここまでこなければならないことが説かれています。

2.2.十界互具

2.2.1.十界と大乗仏教における人間存在
 大乗仏教になると、もろもろの存在を価値的に10の階層に配列づけるようになります。これを十界(じっかい)といいます。(十界の構造 表18)

(補足説明)
 六界(地獄~天上)までは大乗仏教以前に成立し、残りの四界は大乗仏教により成立しました。『法華経』では、六界を三界と別称し、「三界火宅(さんがいかたく)」とも称しました。また、六界(三界)は迷いの世界で、迷いがその間を流転することから、「六道輪廻(ろくどうりんね)」などといわれます。 

 この十界における人間存在のあり方を、大乗仏教では次のようにとらえました。「人間は善悪・苦楽、あるいは無と一切との中間者である。人間存在の悪なる面を段階的に極限までひきのばすと、阿修羅から地獄までの系列が立てられ、善なる面をひきのばせば、天上から仏までの系列が立てられる。
 逆にいえば、極悪の地獄から極善の仏界まで伸張された十界は、人間存在に求心的に集約されるといえる。人間は地獄と仏の両面、善と悪の両面がある厄介な存在といえる。」と。

2.2.2.他宗教の人間観(例)
 仏教の人間観に対して、例えばキリスト教では、人間の二重性を多く霊と肉(体)の葛藤という形でえがきます。その結果、イエスに従って、肉を捨て、霊によって歩み、霊によって生きること、それが信仰であり、そこに救いが訪れるという善行主義を唱えました。
 また、ジャイナ教では、霊と肉、善と悪を峻別し、一方をとり、他方を捨てることで、救いを見いだそうとした、霊欲二元論に立ち、悪の根源は肉体の欲望に在るとし、断食などをして、徹底的に肉体の力や欲望をおさえつける方法、タパス(tapas)を奨励した苦行主義を唱えました。

2.2.3.仏教における人間観-二元峻別的考え方への反論-
 他宗派の人間観に対して仏教は次のようにその問題点をとられます。「霊と肉、善と悪の二元峻別に立って唱道された善行主義ないし苦行主義は、人間から救いの可能性を取り上げ、絶望の淵に落とし込む結果となる。これらの主義は逆に、反動・反逆の現象を誘発することにもなる。悪行主義や快楽主義がそれである。 その原因は、霊と肉、善と悪との架け橋を取り外して、両者を断絶せしめたことにある。」と。
 仏教では、二元峻別を捨て、次のように説いています。「善と悪、精神(心)と肉体(色)とは本来、個別的な実体を有して存在するのではなく、ともに空であり、その意味では両者は不二である(「善悪不二、色心不二、物心一如」)。現実の相下においては、善と悪、精神と肉体とは相対立する二として存在するが、永遠の相下においては、両者は対立をこえた不二として存在する。」と。

2.2.4.天台智顗の「十界互具」説
 智顗は以上の大乗仏教の人間観をもとに、彼独自の人間観「十界互具(じっかいごぐ)説」を以下のように説きます。
「十界において、善悪・色心の相対は天上界までであって、声聞からは善悪・色心の不二が志向されていく、さらに、本来、究極の相からすれば、十界全体が善悪・色心不二である。
 仏界は現実相としては究極の世界と考えられるが、本来は善悪二元対立をこえた善悪不二・一如をもって究極とする。同様に地獄も現実相は極悪だが、本来は善悪不二・一如に包まれたものである。
 このことは、十界すべてにあてはまる。つまり十界は、現実相としては10の異なる階層をなしているが、本来は善悪不二を共通背景として、相即・円融するものである。したがって、めざされるべきは、善ないし精神の一辺ではなく、善と悪、精神と肉体との統一である。両者は断絶して相容れないものではなく、相通ずるものということから、悪に即して善あり、善に即して悪あり、肉体に即して精神あり、精神に即して肉体ありといえる。

 地獄に仏界あり、仏界に地獄あり、十界それぞれに十界が備わっているということになる。(「十界互具」)」と。

2.3.対立の統一と性悪説

2.3.1.対立の統一としての人間存在
 以上から、仏教では「悪をなくして善の一辺になったときに、肉体を捨てて精神(霊)の一元になったところに、救いが達成され、永遠の生命がみいだされるものではない。善と悪の相克、精神と肉体との相関の当処に、救いは光り輝き、生命は脈打つのである。一口でいえば、対立の統一(「不二而二(ふににに)・而二不二」)である。」ということが明らかになってきます。

2.3.2.善と悪の相即-性悪説
 さらに、智顗はこの善悪の不二・空という仏教の根本的考え方を踏まえつつ、その積極的表現化につとめました。
《善悪相資説》(『法華玄義』第五より 表19)


 これらの善悪相即論が十界互具説に結び付けられて、ここに仏の本性として悪ありという「性悪説(しょうあくせつ)」がうちだされました。この説は、後世まで大きな影響を与えました。

2.4.一念三千論

2.4.1.一念三千論とは
 天台智顗の十界互具説や性悪説などの背景をなすものは、智顗の総合統一的、全体的世界観であり、それが結実したものが、いわゆる「一念三千(いちねんさんぜん)」論といわれるものです。
 智顗は、『摩訶止観』(巻第五上より)にて、以下のように説いています。(表20)


 以下、ここでの「三千世間」と「一念」について順次説明し、一念三千論についての内容分析してみます。

2.4.2.三千世間と一念

「三千」とは、極大の全体宇宙のあり方を表出したもので、以下のような計算法によるものです。(表21)


 一方、「一念」とは、 極小、極微の世界をさしたもので、必ずしも心に限定されないが、存在に対する主体的把握の尊重から、一念とか一心ということばで表現したものです。

2.4.3.一念三千論のまとめ
 「一念三千」とは、以上の一念と三千が相即していることを表わしたものです。一念は三千に遍満し、三千は一念に凝集され、このように一念のミクロと三千のマクロが相即・相関しつつ、宇宙の全体世界が構成されるということで、これが天台の一念三千論の帰結です。
 智顗は、一念と三千の相即のしかたについて、『摩訶止観』(巻第五上より)にて以下のように説いています。(口語訳の解説 表22)

 

 本日はここまでです。次回は「3.天台思想の展開」を取り上げます。

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