(神代植物公園の梅園にて 2月8日にて)
3.密教とは
3.1.顕教と密教
3.1.1.密教に対する一般的評価
空海の教えは真言密教と呼ばれます。真言密教とはどういうものか、それは仏教の中でどんな意義と位置とを持っているのでしょうか。
空海はみずからの宗教的体験の極致を密教と呼び、それ以外の一般の小乗・大乗の仏教を顕教(けんぎょう)といっています。一方、密教に対してはおおよそ二つの評価が一般にみられます。
①鎌倉仏教を主軸としたもの。密教を中心とする平安仏教は旧仏教でそれは反民衆的な煩瑣な教えである。実際の活動面からも密教は加持祈禱をむねとする迷信的呪術的なもののである。
②仏教のバラモン教化ないしインド教化したもので、正統仏教といいがたいばかりか、インド後期仏教は仏教のもっとも堕落した形態にすぎないもの。
わが国における明治以後の仏教研究は外国学者の近代的な仏教研究を取り入れましたが、その際密教は上記のような仏教と理解してしまったのです。今日密教の本質の追求が求められています。
3.1.2.密教の発展史
(1) 密教の成立とその伝播
密教の成立とその伝播を以下(表9)に示します。
(2) 密教の二つの区分-雑密と純密
密教にはその成立・発展過程により二つの区分がされています。
ⅰ)アメリカ宗教学者エリアーデ教授によるもの
密教の形式は四世紀ごろからはじまり、今日、『大日経』『金剛頂経』成立以前の密教を「雑部(ぞうぶ)密教」(雑密ぞうみつ)、『大日経』『金剛頂経』を中心として、恵果から空海に伝えられた密教を「正純密教」(純密、じゅんみつ)とよぶならわしになっています。
ⅱ)わが国の密教史においては
空海以前の奈良朝の時代にすでに膨大な密教経典が伝えられ、密教的な造像活動も多数行われていました。東大寺の毘盧遮那仏をはじめ奈良朝の造像活動の多くは密教的であり、その頂点は京都神護寺の薬師如来だといわれています。この時代の密教は「古密教」とよばれ、その形態は「雑密」といえるものです。
純密と言われる空海の真言密教は、一口でいえば、大日如来の教えを中心とするところの組織化体系化された教学といえます。インド以来の密教の大きな流れを総合統一して、独創的な教理体系をつくり出したのが空海であったのです。
3.1.3.密教ということばの意味
(1)密教ということばの起源と意義(英語よりの分析)
密教と顕教ということばについて英語をもとに分析すると以下(表10)のとおりです。
上表からわかるように、esotericとexotericは仏教における密教と顕教という対比概念に似通っているばかりか、むしろ概念的にあいおぎなうものがあるといえます。
したがって、この密教と顕教という分類カテゴリーは、密教を称する者の恣意的な観念でなく、比較宗教学的にみた宗教一般に共通に認められた分類カテゴリーということであるのです。
この分類は、龍樹の著とされている『大智度論』においても、「仏法には二種ある。一つは秘密、二つには顕示である」と説かれています。
(第二部より:秘密の意味)
「密教の「密」は秘密という意味だが、一般仏教の場合、釈尊の教えが文字で書き表わされて、そこに真理が表現されていると伝えられてきたが、空海はその文字の底にひそんでいる、いってみるとわれわれの生命とか、自然の生命というものに深くはいっている面があると思われる。
真実在の世界は明々白々で、悟性(理解力)とか理性(推論)とかいうもので余すところなくとらえられる、という考え方が一般的にある。しかし、真実在は悟性ではとらえられない不思議な深さや暗さをもっている。普通の悟性の理解力を越えている。顕教は前者の一般的なとらえ方で、密教は後者の思想であるといえる。
真実在には隠れた真相があるととらえた場合には、どうしてもなにか象徴というか、シンボル的な表現が必要になってくる。
悟性主義の思想ではとらえられない深さという点から深層心理学ができたと思われるが、仏教の世界でも顕教の唯識で、第八識の阿頼耶識を立てる。密教では第十識というところまでいき、悟性ではとらえられない世界、対象化し得ない、分析することができない絶対主体の世界といえる。」
(2) 宗教的世界における「ことば」の限界
宗教的世界は直接体験の世界です。この体験伝達にはことばが必要ですが、その機能には限界があります。
ことばは宗教的世界を指向する機能をもちますが、宗教的世界そのものではないのです。そこでこの直接体験の世界を表現・伝達するとすると日常的なことばではなく、陀羅尼の存在する理由が認められるのです。
(3)陀羅庀とは
空海は『般若心経秘鍵』のなかで、如来の説法には二種類ある、一つは顕わなもの、二つには秘められたものであると説いています。顕教の素質をもった者には一般的なことばで、密教の素質をもった者には陀羅庀を説くといって、陀羅庀は深い様々な意味を内に含んでいるのです。つまり、「陀羅庀」は秘密を語っていることばなのです。
秘密には、「絶対者それ自体の秘密(如来秘密)」と「無知なるわれわれの心の秘密(衆生秘密)」との二つの秘密があると空海は。『弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん)』で説いています。(下表11参照)
後者のさとりはその本体において前者の絶対者の内なるさとりと同一のものであるのです。たんにそれを自覚しえないままでいるのです。
われわれは何人も、その本性において人間としての最高の自覚に到達しようとの本来の心をもっている。⇒これを「菩提心(ぼだいしん)」といいます。菩提は最高のさとりの知恵であり、さらにさとりそのものをさします。菩提を求める心は堅固な金剛石にたとえられ、そこで真言密教を「金剛乗」「秘密金剛乗」「金剛一乗」などと呼びます。この真言密教はあらゆる仏教の教えを内に包摂して広大なものであるから「遍一切乗(へんいっさいじょう)」とも名づけられているのです。
また、空海は。『弁顕密二教論』で顕教と密教の違いを以下(表11)のように説いています。
3.1.4.真言とは
(1)真言の意味
真言密教、真言宗という時、この「真言」はマントラ(mantra)という梵語の訳語であり、古代インド聖典『アタルヴァ・ヴェーダ』などでは攘災招福(じょうさいしょうふく)の呪文を意味しました。
真言という場合は真実なことばという意味で、絶対者である大日如来のありのままのさとりの世界を表現しているパトス的(観念的)なことばであるのです。
(2)ことばの世界と真言の世界(顕教と密教)
われわれの直接体験という世界、さらに自然の大生命は記号的なことばで把握することはできなきません。記号的なことばで把握することができないところを宗教的生命の世界と名づけるとすると、そうした宗教的生命の世界は深秘(しんび)な絶対の世界であるといえます。これを空海は大日如来のさとりの世界とよんでいるのです。
顕教を説くものは釈尊であり、釈尊がそれぞれの宗教的素質をもった者に応じて説いたものであって、いわば手段としての教えだということができます。これに対して密教は大日如来が説いたもので、絶対者みずからの境界をありのままに開示した教えであるのです。
空海は顕教を法相宗・三論宗・天台宗・華厳宗としており、最高段階に華厳宗を置いています。顕教でも、それぞれの立場で主張する仏の真理はことばでは説けないとしているのです。それは最高位の華厳宗でも同じであると。ところが、密教では顕教ではことばで説くことができないとするものを絶対者としての大日如来が真言をもって説き示しているというのです。
顕教においてはそのことばはロゴス(理論)のそれであり、さとりの絶対の世界を説くことはできない。密教における真言はパトスとしてのことばである。顕教において説きえないものを密教において説きうるというのは、同じことばであっても、要するにその次元を異にするからであるとしているのです。
3.1.5. 成仏のちがい
(1)空海の判定した顕教の成仏
仏教の実践目標の究極するところは成仏にあります。人間としての最高の自覚に到達することによって釈尊と同じ宗教的人格を実現することが成仏の実践であるのです。
顕教の一般では無限の時間をかけて修行をつまなければ成仏の境地に至ることはできないとしています。但し、同じ顕教でも天台と華厳は煩悩にまみれたこのわれわれの現在の状態のままで、現世において目ざめることができれば、そのまま成仏の理想を実現できると説いており、これは大乗仏教が、生きとし生けるものは仏陀釈尊と同じ宗教的人格を完成できる可能性をもっていると主張しつづけた思想と一致しているのです。
しかし、空海はこれらの説はまだ理論にとどまり、いわば一個の哲学の領域をでないものだと判定したのです。
(2)発心と信修
空海は発心(ほっしん、さとりを求める心をおこすこと、すなわち仏教的な自覚)と信修(しんじゅ、確信をもって修練すること、仏教的実践)とを柱として成仏の実践を説いています。このことは成仏の哲学を説いている天台や華厳とは断然、類を異にしていると空海は力説しているのです。(発心と信修について『般若心経秘鍵』にて 表12)
3.1.6. ことばの宗教-真言密教と一般の密教
空海は主著である『弁顕密二教論』『般若心経秘鍵』などでわれわれの迷いの世界をしてあらしめている根源的な無知は真言陀羅尼を観想しながら唱えることによって取りのぞくことができるとの主旨のことを説いています。これは真言陀羅尼というパトス的なことばに対する密教的な一種の信仰ということができるのです。
文字のもつパトス的な象徴性を解読するもの、それが空海の真言密教であるのです。しかし、パトス的なことばも、その世界から切り離されれば、単純なことばの呪術に堕してしまいます。
空海の密教が宗教におけることばの問題を中心課題としているゆえんに、とくに真言密教と称して、密教一般と区分しているゆえんが理解できるのです。
3,2, 密教の教えるもの-大日如来の世界
3.2.1. 大乗仏教の「法身」-大日如来と釈迦
(1)釈迦について
紀元前五世紀ごろ活躍したゴータマはシャーキャ族出身の聖者ということから、釈迦牟尼とか釈尊といわれ、三十五歳で中インドのマダカ国ガヤーの菩提樹の下で成道したから仏陀(略称:仏、めざめた者の意)とも尊称されています。人間としての最高の自覚をかちえた者、あらゆる迷妄を滅ぼした者であるのです。
人間ゴータマが仏陀になったということは、きわめて重要な仏教における基本的事実であるといわなければなりません。
ここで注目すべき点は顕教ではこの史的人物であるゴータマ仏陀を教主として仰いでいることであり、密教の教主は大日如来が教主であるという点にあるのです。
(2)真実の実在は「法」である
インド仏教史における「法」(ダルマ、ゴータマ仏陀によって説かれた仏教の真理)の観念及び仏身観は、大乗仏教の成立によって大きく変化します。それは、「法」はゴータマがこの世に現れても、現れなくても、恒常的に存在するもの、この永遠の法をさとることができれば、ゴータマのみならず仏陀になることができるという思想です。
ゴータマはこの世で最初に法を実現した者だが、真の実在は法であり、ゴータマ仏陀はそうした法の具現者にすぎない、と。
そこで人間ゴータマの背後には法を身体とする絶対の仏陀が実在しなければならない。それを「法身」(ダルマ・カーヤ)と呼びます。
(3)権化の思想と密教成立
古くからのインド教には「権化」(アヴァターラ)の思想がありました。それは唯一の絶対者である神(シヴァ、またはヴィシュヌ)がさまざまな姿をとって、人びとを救済するために、この世に現われ出るという思想です。これは本体と現象、絶対と相対の関係を宗教的な人格関係でとらえようとするインド人特有の考え方であるのです。
こうした権化、すなわちincarnation(化身)は全一の絶対者が、自分の身体をそのまま雑多な現象界の事象として顕現させている。創造者はどこまでも超越的な存在者だというのではなく、現象している姿も雑多な差別相さながらに、みずから絶対の相をそこにあらわしているのであるというわけです。
こうした権化思想が大乗仏教の法身思想に大きく影響をおよぼし、仏身観はインド史を通じて、さまざま発展をとげましたが、密教の大日如来にいたって最高段階に達したのです。
3.2.2.保身仏大日如来
(1)大日如来の由来
密教の教主である大日如来を空海は「摩訶盧遮那仏陀」「摩訶盧遮那仏」「遍照如来」「遍照尊」「大日尊」などと呼んでいます。また「法仏(ほうぶつ、法身仏の略)というのは密教においては大日如来が法身であるからです。
原名は「マハー・ヴァイローチャナ・タターガタ」または「マハー・ヴァイローチャナ・ブッダ」といい、偉大なる輝きをもてる如来、または仏陀という意味です。
→ヴァイローチャナは古代インドの阿修羅の王の名に通じ、古代ペルシャの光の神(アフラ・マツダ)に共通の起源が求められます。また、輝きをもてる意味から、太陽によって象徴され、古い太陽神に起源するという説もあります。
(2)『華厳経』の毘盧舎那仏
『華厳経』に登場する毘盧舎那仏はヴァイローチャナと共通の名前をもっており、大日如来の前身ともいうべきもので、毘盧舎那仏は華厳哲学の説く華厳蔵世界を統一している仏です。
ただ、仏像では華厳の毘盧舎那仏は如来形であるのに対して、密教の大日如来は宝冠をいただいた身に飾りをつけた菩薩形になっています。菩薩形は在家的な求道者の容姿であって、ここに、現世において仏を実現するという密教の現実肯定の精神を認めることができます。
(3)永遠に真理を説く大日如来
顕教における法身は、いわば理念的存在であるから、色も形もないもの、そしてそれ自体は真理を説かないものです。ところが、密教の法身である大日如来は、色も形もあるものであって、しかも永遠の真理を説いている、この点が空海によって強調されているのです。
(『広付法伝』の例 表13)
(4) 大日如来の意味するもの-シュバカラシンハの説
なぜ大日如来というのでしょうか。シュバカラシンハ(善無畏三蔵、ぜんむいさんぞう)の『大日経疏(だいにちきょうしょ)』の説を空海の所見によってみてみると
① 暗黒をあまねく明らかにするものであること(知恵)
② よくもろもろのはたらきがあるものであること(慈悲)
③ 永遠の光をもっているものであるあること(活動)
以上は、密教的な価値体系を示したものです。宗教的な知恵を光で象徴することは一般的な宗教で共通にみられますが、密教では大日如来そのものを、さらに絶対的知恵そのものを光としており、同時に絶対の知恵そのものを身体としており、これを「智身(ちしん)」と呼んでいます。
空海は法身と智身との二つの有形の相(すがた)はまったく平等で、あらゆる生存する者の世界(草木・山河・大地なども)に遍満し、永遠の真理のことば、道理のことば、曼荼羅の真理の教えを説いている、と説明しています。
3.2.3. 大日如来の知恵
(1)五つの分類
空海は、大日如来の知恵を便宜的に五つに分類しています。(表14)また、『秘蔵記』において、水の状態でその五つの分類を例えています。
これらをまとめてみると、法界体性智という絶対の知恵の本体である法身大日如来は絶対的な全智者であって、その知恵は万有一切をあまねくありのままに明らかに顕しています。つまり、万有一切がそこに存在しているということ自体が絶対の知恵がそこにはたらいていることを暗黙のうちに語っているといえるでしょう。そして、この絶対智は万有一切を平等に認識するとともに、差別的にはたらく知恵であって、それは具体的には生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものを利益(りやく)するはたらきであるのです。
(2)宇宙生命の根源(知恵のつづき)
前述のように、法身大日如来の絶対の知恵は広大無辺であって、太陽の光が闇黒を破るにたとえられます。こうした、知恵を光で象徴しているところに密教の大日如来の第一の特徴を認めることができましょう。思うに、光はあらゆる生命の根源であるとともに生命そのものを意味しているのです。だから大日如来の絶対の知恵はわれわれに内在しているみずからの絶対智すなわちさとりの知恵(菩提)であるから、知恵の光はわれわれの全行為として表出される生命そのものであると理解することができるのです。したがって、これは「秘密にして荘厳なる宇宙の大生命を密という。それはわれわれのなかにもやどる。自然の中にひそむ力は生命そのものを生み、われわれの生命の中には自然の根源的生命力に通ずるなにかがある。」(梅原猛著『仏像-心とかたち-』より)とされる理由であると思われます。
3.2.4.大日如来の慈悲
(1) 空海のよぶ「慈悲」とは
知恵を光で象徴しているように、次に法身大日如来の実際的な活動もまた太陽の光の作用にたとえられています。あたかも太陽の光によってあらゆる草木が生長繁茂し、地上におけるすべてのはたらきがこれによって成しとげられるよう、法身の光は万物一切を照らし、人々のもつさまざまな諸善を生ずる根となるものを開発し、またあらゆる事業活動がこれによって完成されるのです。
こうした絶対の知恵のはたらきを、空海は「慈悲」とよびます。それは偉大なる愛ということができます。もちろん絶対の知恵と偉大なる愛は本来一つであり、知恵のはたらきが愛としてのかたちをとって現れ出ているのです。
(2) 「四種法身」
「知恵のはたらきが愛としてのかたちをとって現れ出ている」このことから、空海は法身大日如来を四つの型に分類しています。これを「四種法身(ししゅほっしん)」(下)表15)と呼び、このことは、『大日経』や『瑜祇経(ゆぎきょう)』などの密教経典に説かれていることです。
3.2.5.法身大日如来まとめ-永遠不滅の光そして唯一絶対の実在
(1)法身という真理の本体と真言
太陽や月・星などの天体の光には盛衰や生滅が認められるが、絶対者である法身の光は時間空間を超越して無限にひろがっているものです。
この光は知恵を象徴するとともに、その知恵のはたらきそのものだから、真理を語ることば、すなわち真言を象徴し、意味していると説かれています。だから、この場合、法身という真理の本体(法性、ダルマター)がとりもなおさず真言だということが理解されるのです。
(2)一門普門
万有一切によって象徴されているところの法身は、栄枯盛衰する無常なるいっさいを内につつみとりながら、それ自体は永遠の存在であるのです。したがって、密教の大日如来は最高の実在であるということができるでしょう。
大乗仏教で数多く創造された仏菩薩をはじめとして、バラモン教、インド教、民間信仰の神々などことごとく総合して、唯一者は、大日如来なのです。したがって、あらゆる仏菩薩、神々は大日如来がそうしたさまざまな姿をとって顕現しているものにすぎないからこの場合、大日如来を「普門(ふもん)」(「普遍者(ふへんじゃ)」)とよびます。
また、顕現している個々の仏菩薩、神々はそれぞれの立場において大日如来の所有する宗教的価値を分有しているから、その個別的なものを「一門(いちもん)」(「個別者」)といっているのです。
この「一門普門」という価値体系は空海の真言密教を大きく特色づけるものであるのです。
(3)曼荼羅と神仏習合の説(「本地垂迹説)」)
一門普門の考え方はインド宗教の権化思想に共通にみられるものでした。そのみごとな展開が曼荼羅の教え(後述)です。やがてそれが、理論的背景となって、仏とわが国固有の神々とは同一体であるという神仏習合の説が生まれたのです。
また、インドの仏が本体(「本地(ほんじ)」であり、本地の仏がわが国ではかりの神の姿をとって現われ衆生を救済するという「垂迹(すいじゃく)」、つまり本地垂迹説が生まれることとなったのです。
(4)唯一絶対の実在
本体論的にみて、大日如来は宇宙の大生命そのものとして雑多の現象界にさまざまの様相を顕しています。
そのことを空海は『弁顕密二教論』にて『菩提場経(ぼだいじょうきょう)』という経典を引用して、仏はこの世界において、あらゆるかたちをとって現われているとのべているのです。(数限りない名前でよばれる仏の例 表16)
このように、大日如来は最高の実在であって、もはやそれ以外に対峙者がないから、絶対的な主体、唯一の純粋主観というべきものです。そしてそれ自体真実であり、真理でなければならないのです。
そういう点で、真理を永遠に語り続けているものです。これを空海は「法身説法(ほっしんせっぽう)」といっているのです。(顕教では法身は説法しないものとしている・・・既述)
本日はここまでです。
次回は「第2章 空海の仏教思想・中核」「1.曼荼羅の世界」を取り上げます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます