「仏教思想概要3:《中観》」の第4回です。
前回から、第2章の中観派の思想に入り、中観派の創始者であるナーガールジュナの思想をみてみました。今回から「空の理論」に入り、今回は『中論』における「縁起」を取り上げます。
2.空の論理
2.1.『中論』の本質-縁起
2.1.1. 『中論』礼拝の詩頌
『中論』のまっさきに以下の詩頌が掲げられています。
「滅しもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数でもなく、来たりもせず、去りもしない依存性(縁起)は、ことばの虚構を超越し、至福なるものであるとブッダは説いた。其の説法者の中の最上なる人を私は礼拝(らいはい)する。」と。
つまり、一でもなく多でもない依存性がブッダの教えの本質であり、『中論』はその教えを継承するものだ、とナーガールジュナはこれで表明しているのです。
ここで依存性とした言葉は、「原語:pratîtya-samutpãda、漢訳:縁起」のことで、一般的にいって、ものが必ず原因によって生起(しょうき)することを意味します。つまり「因果関係」のことです。
但し、ここでの因果関係は、時間を異にして存在する二つのものの間に生ずる関係だけを意味しません。つまりは、関係一般と考える方が比較的は正しいのです。仏教で考える因果は、われわれが考える因果よりも広い概念であるのです。
(参照表9:仏教思想2アビダルマ、六因、四縁 )
2.1.2. 中観派の縁起解釈
『中論』注釈者たちが、批判の対象とし、また自説としてあげる「縁起」の語義解釈の主なものには以下の三種の説があります。(下表10参照)
中観派は、有部の恒常的な本体が刹那滅的なものとして現象することを認めません。また、縁起を時間の過程における生起という、狭い意味の因果関係に限ることを避けようとしました。
つまり、中観派の縁起解釈は以下のように整理できます。
①説一切有部の立場への批判
(有部の説:「ほんらいは恒常的な本体である多くの実在要素が同時に共同して現象し、そこに現在一瞬しか持続しない経験的なものがあらわれることが縁起である」)
ここで、中観派は、本体が現象することの解釈を批判しました。
②縁起を狭い意味の因果関係に限定せず、「論理的な相対関係」も含むものと理解し、「これを縁するもの」と表現したのです。
↓
つまり、本体を固執する立場での因果関係も論理関係も成立しない。関係一般というものは、同一とか別異とかの本体をもたないものの間にしか成立しないとし、バヴィアは般若灯論で、ただ「縁起」といわず、「生じもせず、滅しもしない、などという特徴によって限定された縁起」という説明をしているのです。
本日は短めですが、ここまでとします。次回は本論の中心となる「中観派の批判哲学」について取り上げます。次回はかなり長くなります。
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