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喪失

2024-02-18 06:00:00 | エッセイ

 

年を取ると、「喪失」という言葉が一層身に染みてくる。

まず、「健康」である。

同年輩の知人、友人と顔を合わせると、

「体調はどうだ」というのがあいさつ代わりとなる。

何事につけ経年劣化は避けがたく、

人の体も、たとえば足腰の関節は長年の〝勤続疲労〟で歪んで痛み、

目の焦点は合いにくくなり、夜の運転は危なっかしい。

また、五臓六腑のあちこちもやはり〝勤続疲労〟が現れてきて、

医師は「加齢のせいですな」の一言で片づける。

その程度で済めばまだしもであろう。

                                       

そして、身辺から人が喪失していく。

仕事上知り合い、互いに一線を退いた後も

親交を続けていた方に久しぶりに電話したところ

「今、入院していましてね。いや大したことはありません。

間もなく退院する予定です。また食事にでも行きましょう。

こちらから連絡しますよ」口調もいつもと変りなく元気そうだったので、

すっかり安心していたら突然訃報が届いたのである。

確かに病状は回復し、いったん退院されたそうだが、

再び悪化して再入院、治療を続けた挙句のことだった。

死去を知った時には、すでに近親者のみで葬儀も終えられていた。

お別れの言葉一つかけられぬまま、

深い慙愧の念に沈むばかりである。

 

  

 

定年退職すると、言うまでもなく仕事を失くす。

伴って人との関わりが薄れていき、ついには人さえ失くす。

一人また一人と失くしていった挙げ句、

人との関わりがなくなってしまう人生。

そんな残酷な残りの人生をどう生きていけばよいのか。

ひどく悩ましい問題が突き付けられる。

 

実は、多くの人が同様の悩みを抱えているようだ。

そのためか定年後の人生をどう送ればよいか、

その方策を示してくれる本が、書店にさまざまに並んでいる。

そして、一様に「自らの役割を自ら探し求めよ」とし、

「まず何らかの『目標』を設定することから始めたがよい」とする。

個人の趣味でもよいし、できればそれによって仲間の輪が広がり、

さらにそれが社会的活動につながっていければ

社会に貢献することにもなるから、さらに良し。

こういうことが書かれている。

 

「人生100年時代」と言われれば、

まだ20年ほどの残余の時間がある。率直なところ長い。

どうすれば、残りの時間を悔いなく送ることができようか。

そうそう簡単な話ではないように思えてくる。

 

 

 

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