コスモステーション川島
コスモステーション川島は、昭和63 年5月に東京都モデル商店街事業として完成した。
「川島」の地名は、江戸時代の雑色村川島に由来する。明治初年には現在の商店街付近に家屋が散在していたが、関東大震災後、官立東京高等学校(現東大付属)が移転してきたころ、周辺が本格的に住宅街となった。昭和に入り小規模な市場が2 軒、メインストリートの東西両端にできた。
川島商栄会は昭和 11 年に結成され、商店街活動を始めた。昭和2 年には中野新橋で中野第二土地区画整理事業が行われて周辺が開発され、三業地(花街)が作られた。また十貫坂上―川島町―東京高等学校前にバス停がおかれるなど、川島商店街を取り巻く商業環境の基盤が形成される。
川島商店街は戦災で全焼するが、昭和20 年代後半には街路灯の設置や福引を行っている。昭和20 年代、川島商店街の後背地となる中野区南東部の人口は約1.8 倍となり、急激に人口が増加したが、昭和30 年代後半は人口増加が落ち着いた時期で、このころの商業の隆盛は、むしろ高度経済成長による住民の消費行動の変化が原因と思われる。この繁栄を背景に、昭和40 年に任意団体から振興組合になった。昭和46年にはアーケード計画が消防法の規定に抵触して頓挫したが、昭和49 年柳通りが現在の幅に拡幅となった。11 月には街路灯を新設し、消火器を設置している。また、この頃から昭和52 年頃までにスーパーマーケットが進出し3 店の中型店ができている。
昭和 53 年には商店街近代化為の積み立てを開始し、昭和57~58 年アーチ委員会が設置計画に入る。当時商店街中央に金融機関進出の話が持ち上がり、これがきっかけとなって近代化、活性化にむけた活動に拍車がかかった。昭和60 年には販売促進対策のため朝市を開始し、東京都のモデル商店街指定を受けた。同時期に都民生協の出店問題が発生している。昭和61 年にはスタンプ事業を開始している。
コスモステーション川島は、昭和63 年5月に東京都モデル商店街事業として完成した。
「川島」の地名は、江戸時代の雑色村川島に由来する。明治初年には現在の商店街付近に家屋が散在していたが、関東大震災後、官立東京高等学校(現東大付属)が移転してきたころ、周辺が本格的に住宅街となった。昭和に入り小規模な市場が2 軒、メインストリートの東西両端にできた。
川島商栄会は昭和 11 年に結成され、商店街活動を始めた。昭和2 年には中野新橋で中野第二土地区画整理事業が行われて周辺が開発され、三業地(花街)が作られた。また十貫坂上―川島町―東京高等学校前にバス停がおかれるなど、川島商店街を取り巻く商業環境の基盤が形成される。
川島商店街は戦災で全焼するが、昭和20 年代後半には街路灯の設置や福引を行っている。昭和20 年代、川島商店街の後背地となる中野区南東部の人口は約1.8 倍となり、急激に人口が増加したが、昭和30 年代後半は人口増加が落ち着いた時期で、このころの商業の隆盛は、むしろ高度経済成長による住民の消費行動の変化が原因と思われる。この繁栄を背景に、昭和40 年に任意団体から振興組合になった。昭和46年にはアーケード計画が消防法の規定に抵触して頓挫したが、昭和49 年柳通りが現在の幅に拡幅となった。11 月には街路灯を新設し、消火器を設置している。また、この頃から昭和52 年頃までにスーパーマーケットが進出し3 店の中型店ができている。
昭和 53 年には商店街近代化為の積み立てを開始し、昭和57~58 年アーチ委員会が設置計画に入る。当時商店街中央に金融機関進出の話が持ち上がり、これがきっかけとなって近代化、活性化にむけた活動に拍車がかかった。昭和60 年には販売促進対策のため朝市を開始し、東京都のモデル商店街指定を受けた。同時期に都民生協の出店問題が発生している。昭和61 年にはスタンプ事業を開始している。