こんばんは。久しぶりに文学での更新。ずっと読もうと思っていた大江健三郎の短編作品集を読みましたので、その所感を記します。
文壇デビュー作である『死者の奢り』と芥川賞受賞作『飼育』を表題とするこの短編集、全部で6篇収録されていましたがどれも非常に読み応えのある短編ばかりでした。
■『死者の奢り・飼育』収録目録
死者の奢り (「文學界」昭和32年8月号)
他人の足 (「新潮」昭和32年8月号)
飼育 (「文學界」昭和33年1月号)
人間の羊 (「新潮」昭和33年2月号)
不意の啞 (「新潮」昭和33年9月号)
戦いの今日 (「中央公論」昭和33年9月号)
こうして見るとものすごいペースで執筆していることがわかりますね。もちろん、書き溜めたものとかもあったんでしょうが…
最後の「戦いの今日」以外は全部好きな作品でした。「戦いの今日」に関してはちょっと内容の具体性が見えて来ず、戦争色と米兵が割と前面に出てきてしまっていてそれまでの作品とはちょっと質感が違ったかもしれません。
各々の短編に通じていることは大なり小なり戦争色が必ず入っているという点でしょう。「死者の奢り」では死体処理室で戦死者を扱うシーンがありますし、「他人の足」では身体障害を持つ子供たちが反戦声明を発しますし、「飼育」は黒人米兵と(町とは孤立した限界集落を思わせる村の)村人のやり取りを描いたものですし、「人間の羊」は米兵によって主人公が辱められることから物語がスタートしますし、「不意の啞」は米兵のジープが村に乗り入れたところから事件が始まります。「戦いの今日」に関してはまんま朝鮮戦争を題材にしています。(それが直接的で他の短編とは色合いが異なる気が…)
サルトルの実存主義の影響を受けた作家として登場し、戦後日本の閉塞感と恐怖をグロテスクな性のイメージを用いて描き、石原慎太郎、開高健とともに第三の新人の後を受ける新世代の作家と目される。(Wikpediaより)
Wikipediaに記載してある通り、「戦後日本の閉塞感」が非常に伝わってくる短編群でした。全ての作品を通して、終始ねっとりとした沼のような絶望感が漂っている小説。その暗さが個人的には好きだったのかもしれません。根暗なものですから、ハイ…主体と客体の入れ替わりや米国と日本の関係性の立ち替わりなど、構造的な皮肉が「込められている点も好きだったかもしれません。
1994年にはノーベル文学賞を受賞していますが、その時に「デンマークの文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引き、「抗議すること」という概念に言及した。」そうです。この「抗議しないことに対する批判的態度」の思想は米兵に辱められたことを警察に訴えない(恥を広めたくない)「人間の羊」の主人公や、村長を殺された村人たちが頑なに米兵無視する「不意の啞」にも現れていると言えるでしょう。しかし、ここでの「抗議」とは何も"criticize"的なものではなく、無言による抗議を肯定的に捉えているようにも思うのです。特に「不意の啞」は非暴力・不服従による無言の抵抗が、不気味なほどに強く感じられました。最終的には米兵は村をいそいそと去っていくわけですが、その無言の抵抗の強さたるや、米兵に情けをかけたくなるくらいの苛烈さを秘めているわけでもあります。
極端な民主主義者で国家主義を批判していたという大江らしさが出ているような作品です。(「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」と言って文化勲章と文化功労者の受賞を辞退した逸話もあるようです)まだ存命ということで正に生きる伝説といったところでしょうか。
(各小品に対する所感も書こうと思いましたが余りにも長くなったので個別で更新します)
文壇デビュー作である『死者の奢り』と芥川賞受賞作『飼育』を表題とするこの短編集、全部で6篇収録されていましたがどれも非常に読み応えのある短編ばかりでした。
■『死者の奢り・飼育』収録目録
死者の奢り (「文學界」昭和32年8月号)
他人の足 (「新潮」昭和32年8月号)
飼育 (「文學界」昭和33年1月号)
人間の羊 (「新潮」昭和33年2月号)
不意の啞 (「新潮」昭和33年9月号)
戦いの今日 (「中央公論」昭和33年9月号)
こうして見るとものすごいペースで執筆していることがわかりますね。もちろん、書き溜めたものとかもあったんでしょうが…
最後の「戦いの今日」以外は全部好きな作品でした。「戦いの今日」に関してはちょっと内容の具体性が見えて来ず、戦争色と米兵が割と前面に出てきてしまっていてそれまでの作品とはちょっと質感が違ったかもしれません。
各々の短編に通じていることは大なり小なり戦争色が必ず入っているという点でしょう。「死者の奢り」では死体処理室で戦死者を扱うシーンがありますし、「他人の足」では身体障害を持つ子供たちが反戦声明を発しますし、「飼育」は黒人米兵と(町とは孤立した限界集落を思わせる村の)村人のやり取りを描いたものですし、「人間の羊」は米兵によって主人公が辱められることから物語がスタートしますし、「不意の啞」は米兵のジープが村に乗り入れたところから事件が始まります。「戦いの今日」に関してはまんま朝鮮戦争を題材にしています。(それが直接的で他の短編とは色合いが異なる気が…)
サルトルの実存主義の影響を受けた作家として登場し、戦後日本の閉塞感と恐怖をグロテスクな性のイメージを用いて描き、石原慎太郎、開高健とともに第三の新人の後を受ける新世代の作家と目される。(Wikpediaより)
Wikipediaに記載してある通り、「戦後日本の閉塞感」が非常に伝わってくる短編群でした。全ての作品を通して、終始ねっとりとした沼のような絶望感が漂っている小説。その暗さが個人的には好きだったのかもしれません。根暗なものですから、ハイ…主体と客体の入れ替わりや米国と日本の関係性の立ち替わりなど、構造的な皮肉が「込められている点も好きだったかもしれません。
1994年にはノーベル文学賞を受賞していますが、その時に「デンマークの文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引き、「抗議すること」という概念に言及した。」そうです。この「抗議しないことに対する批判的態度」の思想は米兵に辱められたことを警察に訴えない(恥を広めたくない)「人間の羊」の主人公や、村長を殺された村人たちが頑なに米兵無視する「不意の啞」にも現れていると言えるでしょう。しかし、ここでの「抗議」とは何も"criticize"的なものではなく、無言による抗議を肯定的に捉えているようにも思うのです。特に「不意の啞」は非暴力・不服従による無言の抵抗が、不気味なほどに強く感じられました。最終的には米兵は村をいそいそと去っていくわけですが、その無言の抵抗の強さたるや、米兵に情けをかけたくなるくらいの苛烈さを秘めているわけでもあります。
極端な民主主義者で国家主義を批判していたという大江らしさが出ているような作品です。(「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」と言って文化勲章と文化功労者の受賞を辞退した逸話もあるようです)まだ存命ということで正に生きる伝説といったところでしょうか。
(各小品に対する所感も書こうと思いましたが余りにも長くなったので個別で更新します)
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