K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

ある男

2023年11月19日 | 文学
最近映画ばかりなのでたまには小説でも、ということで平野啓一郎の『ある男』のご紹介です。丁度先日同氏の『本心』を読了いたしまして、せっかくなら平野啓一郎のヒューマニズム三部作の感想は書こうじゃないかと思い至ったわけです。

弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、「ある男」についての奇妙な相談を受ける。宮崎に住んでいる里枝には2歳の次男を脳腫瘍で失って、夫と別れた過去があった。長男を引き取って14年ぶりに故郷に戻ったあと、「大祐」と再婚して、新しく生まれた女の子と4人で幸せな家庭を築いていた。
ある日突然、「大祐」は、事故で命を落とす。悲しみにうちひしがれた一家に「大祐」が全くの別人だったという衝撃の事実がもたらされる……。

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。

出自のアイデンティティに疑問を抱える在日韓国人三世の主人公城戸が対峙した、過去のない愛。一人の男の物語。
テーマは「愛」と「アイデンティティ」の相関関係のように感じました。何者かわからない相手でも、出自関係なく愛することができるのか。私としては疑似家族がこの数年テーマとして流行っていたことを踏まえれば、愛にアイデンティティは関係ないという問いに対しては是と答えます。

因みに、前作の『マチネの終わりに』に続き、本作と『本心』を合わせて、平野啓一郎の提唱する概念「分人主義」をベースとする後期分人主義の三部作として位置づけられているので、そちらの視点も感想を書く上では欠かせないでしょう。

分人主義とは、氏曰く……

「個人」は、分割することの出来ない一人の人間であり、その中心には、たった一つの「本当の自分」が存在し、さまざまな仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営むものと考えられています。
これに対し、「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。

個人的にはペルソナの概念とほぼ同じような気がしないでもないですが、要は一人の個人の中には複数の側面があるというということです。そういう意味では、アイデンティティを失った男が中心人物となる本作は最も分人主義的側面が出ているのではないでしょうか。



他者を通じたアイデンティティ

中年にもなればアイデンティティは安定していて、死生観もしっかりしているものだろうと思いがちですが、意外とそんなことはないのではないでしょうか。
主人公の城戸はこれからどう生きるかという視点から、今後どう人生を終えるのかを考えるようになります。

自分とは何か、ではなく、何だったのかということを、生きるためというより、寧ろどういう人間として死ぬのか、ということを意識しながら、問い直すように迫られていた。

どう死ぬか、という問いは実は後の作品『本心』でも重要なテーマの一つです。つまり、死ぬときは一瞬でタイミングを自分で選べない中で、どのように人生を終わりにするのか、というのがこれらの問いの根幹にあるものだと思います。

城戸は三世であり在日韓国人とは言え生まれの感覚は完全に日本人という自分の人生に疑問を持ち、時には弁護士という仕事で知り得た他人の人生を騙り、別の人生を仮に味わうことで間接的に自らの人生を客観視するという行動も起こします。

他人の人生を通じて間接的に自分の人生に触れることができると述べる城戸、他者の人生との相対評価をすることで価値を感じられるのではないかと、少々倒錯しているような思考にも至ります。



変身願望

そうした彼が戸籍ロンダリングを通じて谷口大祐という他人になりすました、殺人犯を父に持つ原誠の人生に深い興味を抱くのも当然のことでした。つまり、出自の事実がデメリットになり得る原誠に自分が重なっていたわけです。

本作ではオイディウスの『変身物語』が引用されます。樹木へと姿を変えたヘリアデス、牡鹿に変えられたアクタイオン、月桂樹となったダフネ、そしてスイセンとなったナルキッソス……戸籍ロンダリングによって他人に人生を生きている人々にギリシア・ローマ神話が重ねられるのです。「自分の身体から出ることができたなら」と嘆きながら死んでいったナルキッソス、それは自分に恋した彼が自分を客観的に愛せたならという願望の言葉でしたが、それはつまり、他者の人生を通じて自分の人生を見つめなおすという本作の登場人物と同様の態度だったのです。

神話の中で登場人物はみな何かから逃避しようとして「変身」することになります。本作でもまた、谷口大祐は実家の温泉宿のしがらみから逃げようと戸籍を変え、殺人犯の息子である原誠もまた自らの出自の事実から逃げ谷口大祐として余生を幸せに生き抜いたのです。
ポイントは「幸せに」生き抜いたということで、果たして他人の人生をうまく生きられるかというのも非常に面白いテーマです。原誠は谷口大祐として愛する妻を持ち子供を授かり、幸せな家庭を持ち最後事故死しました。一方、本来の谷口大祐は、「曽根崎義彦」というヤクザの息子としての人生を引き継ぎ、城戸が目にした彼の姿はとても幸せそうなものではなかった。戸籍ロンダリングをしたところで、結局人生とはその人柄次第だと思わせる描写です。

『――どこかに、俺ならもっとうまく生きることの出来る、今にも手放されそうになっている人生があるだろうか?……もし今、この俺の人生を誰かに譲り渡したとするなら、その男は、俺よりもうまくこの続きを生きていくだろうか?原誠が、恐らくは谷口大祐本人よりも美しい未来を生きたように。……』

そう考えると、神話の登場人物が人(というか神)変身しなかったのは賢い選択だったのかもしれませんね。



愛に過去は必要か

本作の一番の問いでもある、愛に過去は必要か――目の前に居る相手がもし犯罪者の子供だったとしたら?その愛情は変わらないのでしょうか。
小説の中では、愛に過去は不要、とは言い切らないまでも、愛した事実や相手への愛情に変わりはないという結論のように読めました。結局、谷口大祐に成りすました原誠と3年9か月を過ごした里枝は、彼と過ごした日々、そして息子や娘との将来を見据えて幸せであったと振り返ります。つまりは、彼女の愛は彼の過去が明るみになったからといって変わるものではなかった、という形で物語は締めくくられます。

最後に、私が一番共感した、城戸のサポートをした谷口大祐の元恋人、後藤美涼の言葉を引用して終わりにします。

わかったってところから、また愛し直すんじゃないですか?一回、愛したら終わりじゃなくて、長い時間の間に、何度も愛し直すでしょう?色んなことが起きるから。


妻夫木聡主演で映画化もしてましたね。個人的には『マチネの終わりに』の映画の方が好みでしたが……『本心』も映画化するのでしょうか?多少SF要素もあるから映画にはしやすそうな気もしますが……
次回は三部作の最後『本心』の感想を書こうかなと思っています。宜しければお読みくださいませ。


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