その人は疑わない、怒らない、欲しがらない。
みなさま令和を如何お過ごしですか。私は連休明け早々にトルコ出張に始まり、度重なる研修で苦しんでおります。観たい映画が自由に観られないってこんなにストレスなんですね!?
今回は連休中にBunkamuraで鑑賞した『幸福なラザロ』を紹介します。
《Story》
渓谷で外の世界と隔絶されたインヴィオラータ村(「汚れなき村」の意)。村人たちは領主であるデ・ルーナ侯爵夫人に支配されていた。
ある時、侯爵夫人の美しい息子タンクレディが町からやってくる。タンクレディはラザロを仲間に引き入れて自身の誘拐騒ぎを演出し、二人は強い絆で結ばれるようになる。
(「映画『幸福なラザロ』公式サイト」Storyより抜粋)
搾取構造の普遍性
恐らく多くの人の心に残ったのは、領主デ・ルーナの口にした搾取の支配構造でしょう。
小作人の仕事ぶりを見つめる領主デ・ルーナ
搾取される側もまた誰かを搾取している。
本作では、その連鎖の末端で犠牲になっているのが、小作人からこき使われる主人公のラザロというわけです。
彼は自分の意志のようなものを持たず、ただただ言われるがままに行動し、問われるがままに回答する純朴な青年です。
その純粋さゆえに、本来身内であるはずの小作人たちからもこき使われてしまう。
対照的なのは村人で、彼らは搾取されることに不平を漏らしつつも心優しき青年を搾取します。
良くも悪くも「幸福」を求める人間らしさであり、それは冒頭の婚姻の儀式で搾取される村から脱しようとする若い夫婦の姿が象徴しているとも考えられます。
つまり、農民たちは「弱者」ではあっても「善人」ではないわけです。「清貧」という言葉が象徴するように、数多の物語の影響で「貧者=善人」というバイアスが定着している気がしますが、本作ではそうした認識はミスリードを誘うでしょう。
「弱者」もまた「更なる弱者」を搾取している。マクロ視点では見えない食物連鎖のピラミッドの末端が描かれています。
物語中ラザロは一度復活を遂げるのですが、ラザロの復活前後で舞台は農耕社会から工業社会へと大きく様変わりします。
年月を経ても全く姿を変えないラザロに対し、変わらない搾取構造。
領主デ・ルーナから銀行へと搾取の主体が、謂わば搾取のスタイルが変わっただけ。小作人たちもホームレスとして搾取され続けていました。
本作ではそうした支配構造や権力の踏襲が、今なお起きている事実を示唆します。
復活のラザロ
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ《ラザロの復活》(1609年)
「復活」の象徴でもあるラザロ。物語でも一度復活を遂げます。それも死(と思しき現象)から何年も経て。
その人は疑わない、怒らない、欲しがらない。
このスローガンにラザロの人柄は良く現れています。決して感情的にならず、黙々と仕事をする。命じられるがままに動き、問われるがままに答える。まるで、対峙する相手の本性を映し出す鏡のような存在。
小作人に搾取されるラザロがそのまま搾取されている農民を映し出しているかのように。
元小作人たちの都会での孤独を映し出す鏡のよう
ラザロにとって一際大きい存在が、領主デ・ルーナの息子タンクレディでした。村人がラザロを労働力としてしか捉えていなかった一方で、外部から来た彼は遊びとは言えラザロと兄弟の契りを交わす。それまで無感情であったラザロが初めて嬉しそうな表情を見せます。
狼の鳴き真似をするタンクレディ
そして、その後のラザロはタンクレディのためにしか望みを口にしない。彼の言うことに従い、彼の障害となるものを排除しようとする。薄い関係性に奉仕するラザロの無垢な姿が愛しくも愚かに映ります。
ラザロは私たちに何を残したのでしょう?
変わらないラザロによって変わったものは何でしょうか。蓋し、今もなお搾取され続けているアントニアやピッポが笑顔を見せるようになったことではないでしょうか。
そこが、ラザロの復活前後で決定的に違うように感じました。彼らは学んだのです、搾取される側においても幸福を見出せることに。
これはラザロの生き様を通じて私たちにとっての「幸福」とは何かについて思いを巡らせる作品ではないでしょうか。
「狼」というアイコン
そして象徴的に登場する「狼」についても言及しておく必要があるでしょう。
私は本作での「狼」が「搾取の主体」を象徴しているように感じました。
中盤の挿話、家畜を脅かす老いた(退治が容易であるが無知ゆえに恐れている)狼への説得を聖人に押しつける村人。これは、ラザロに搾取の代償を払わせる旧式の(違法の、即ち公的権力で容易く覆せる構造であるも無知ゆえに揺るがない)支配構造の寓話でしょう。
しかし、挿話の結末はどうでしょう?狼は力尽きた聖人から「善人」の香りを認めるとその場を立ち去ったのです。搾取していた農民に対するアイロニカルな寓話とも言えそうです。
そして、ラザロは二度倒れるも狼は二度その場を立ち去る。最後まで善人であり続けたのです。
真に善人であれば搾取されない世界、という願いを最後に謳っているようでもあります。
みなさま令和を如何お過ごしですか。私は連休明け早々にトルコ出張に始まり、度重なる研修で苦しんでおります。観たい映画が自由に観られないってこんなにストレスなんですね!?
今回は連休中にBunkamuraで鑑賞した『幸福なラザロ』を紹介します。
《Story》
渓谷で外の世界と隔絶されたインヴィオラータ村(「汚れなき村」の意)。村人たちは領主であるデ・ルーナ侯爵夫人に支配されていた。
ある時、侯爵夫人の美しい息子タンクレディが町からやってくる。タンクレディはラザロを仲間に引き入れて自身の誘拐騒ぎを演出し、二人は強い絆で結ばれるようになる。
(「映画『幸福なラザロ』公式サイト」Storyより抜粋)
搾取構造の普遍性
恐らく多くの人の心に残ったのは、領主デ・ルーナの口にした搾取の支配構造でしょう。
小作人の仕事ぶりを見つめる領主デ・ルーナ
搾取される側もまた誰かを搾取している。
本作では、その連鎖の末端で犠牲になっているのが、小作人からこき使われる主人公のラザロというわけです。
彼は自分の意志のようなものを持たず、ただただ言われるがままに行動し、問われるがままに回答する純朴な青年です。
その純粋さゆえに、本来身内であるはずの小作人たちからもこき使われてしまう。
対照的なのは村人で、彼らは搾取されることに不平を漏らしつつも心優しき青年を搾取します。
良くも悪くも「幸福」を求める人間らしさであり、それは冒頭の婚姻の儀式で搾取される村から脱しようとする若い夫婦の姿が象徴しているとも考えられます。
つまり、農民たちは「弱者」ではあっても「善人」ではないわけです。「清貧」という言葉が象徴するように、数多の物語の影響で「貧者=善人」というバイアスが定着している気がしますが、本作ではそうした認識はミスリードを誘うでしょう。
「弱者」もまた「更なる弱者」を搾取している。マクロ視点では見えない食物連鎖のピラミッドの末端が描かれています。
物語中ラザロは一度復活を遂げるのですが、ラザロの復活前後で舞台は農耕社会から工業社会へと大きく様変わりします。
年月を経ても全く姿を変えないラザロに対し、変わらない搾取構造。
領主デ・ルーナから銀行へと搾取の主体が、謂わば搾取のスタイルが変わっただけ。小作人たちもホームレスとして搾取され続けていました。
本作ではそうした支配構造や権力の踏襲が、今なお起きている事実を示唆します。
復活のラザロ
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ《ラザロの復活》(1609年)
「復活」の象徴でもあるラザロ。物語でも一度復活を遂げます。それも死(と思しき現象)から何年も経て。
その人は疑わない、怒らない、欲しがらない。
このスローガンにラザロの人柄は良く現れています。決して感情的にならず、黙々と仕事をする。命じられるがままに動き、問われるがままに答える。まるで、対峙する相手の本性を映し出す鏡のような存在。
小作人に搾取されるラザロがそのまま搾取されている農民を映し出しているかのように。
元小作人たちの都会での孤独を映し出す鏡のよう
ラザロにとって一際大きい存在が、領主デ・ルーナの息子タンクレディでした。村人がラザロを労働力としてしか捉えていなかった一方で、外部から来た彼は遊びとは言えラザロと兄弟の契りを交わす。それまで無感情であったラザロが初めて嬉しそうな表情を見せます。
狼の鳴き真似をするタンクレディ
そして、その後のラザロはタンクレディのためにしか望みを口にしない。彼の言うことに従い、彼の障害となるものを排除しようとする。薄い関係性に奉仕するラザロの無垢な姿が愛しくも愚かに映ります。
ラザロは私たちに何を残したのでしょう?
変わらないラザロによって変わったものは何でしょうか。蓋し、今もなお搾取され続けているアントニアやピッポが笑顔を見せるようになったことではないでしょうか。
そこが、ラザロの復活前後で決定的に違うように感じました。彼らは学んだのです、搾取される側においても幸福を見出せることに。
これはラザロの生き様を通じて私たちにとっての「幸福」とは何かについて思いを巡らせる作品ではないでしょうか。
「狼」というアイコン
そして象徴的に登場する「狼」についても言及しておく必要があるでしょう。
私は本作での「狼」が「搾取の主体」を象徴しているように感じました。
中盤の挿話、家畜を脅かす老いた(退治が容易であるが無知ゆえに恐れている)狼への説得を聖人に押しつける村人。これは、ラザロに搾取の代償を払わせる旧式の(違法の、即ち公的権力で容易く覆せる構造であるも無知ゆえに揺るがない)支配構造の寓話でしょう。
しかし、挿話の結末はどうでしょう?狼は力尽きた聖人から「善人」の香りを認めるとその場を立ち去ったのです。搾取していた農民に対するアイロニカルな寓話とも言えそうです。
そして、ラザロは二度倒れるも狼は二度その場を立ち去る。最後まで善人であり続けたのです。
真に善人であれば搾取されない世界、という願いを最後に謳っているようでもあります。
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