夢の持てない社会だから視点が内向きになってしまうのか。
例外や異端を探し出してそれを標準に変えようとする内向きのパワーが高まっている気がする。
特に取り立てて言う程のことでもないが世相の移り変わりについてである。
行方不明の高齢者が大勢発見されてニュースになっているが、これをどう扱ってどう顛末させるのか、消化する側の見識と度量が問われているような感じがする。
日本は元からそんなにちゃんとした社会だったのかなぁ。
例外を容認しない考え方や仕組みが大よその秩序や統制を生み出しているだけであって、根本理念に於いてはかなり杜撰というのが私の見解なのだが、もっと管理や監視を徹底させようという傾向は息苦しさしか連想させない。
日本は人の生死については昔から相当にいい加減な国なのだが、その辺をどれ位理解しているかで見解が分かれてくるようだ。
私の父は誕生日が四月二十一日ということであったが、実際は三月末の某日に生まれていたということであった。
届出が遅れたわけではなく小学校へ通わせることを遅らせようとして四月生まれということにしたらしい。
どんな狙いがあってのことかは解らないが、兎に角何かの家の事情があってそれを優先したということなのだろう。
家々の事情の中には、私生児の扱いやら、婚姻の日にちとの関係やらと色々とあって、子供の頃は大人達から「あの人は何々だが、本当は何々なのだ」という裏事情の説明を聞くことが多かったように思う。
例えばあの家の何々ちゃんの本当の親は家に居るあの高齢の婦人ではなく、大阪へ嫁いだ娘さんなのだとか、この前死んだ何々さんの息子は心臓マヒということになっているが、本当は首吊り自殺なのだとか、そういう情報が子供の耳にも届くのだから、近隣社会が本音と建前のような二面性のある顛末を容認しているようでもあった。
今回の事件に例えれば、「あの家の区内一の長生き爺さんは生きていることになっているが、本当はもう死んでいていないのだ」ということになるのだろう。
例外や異端の不利益が余りにも大きいから標準や普遍を装うのであるが(勿論「世間体」とか抽象的に語られる場合も例外ではない)、その装いの形式が選択肢として利益の獲得手段として利用されるのは充分に起こり得ることだと言える。
正当でないとされるものや標準でないものに対する締め付けや差別が厳しく、不利益が大き過ぎる社会慣行が偽りを許容する下地になってきた気がする。
ありのままを求める社会には、ありのままによる不利益が生じない仕組みや考え方が必要になると思う。
悪意による利益獲得だけを排除するというのは虫のいい話ではないかね。