これらの本は、語学に関わる人ならば必読の本だと思いますが、私のような者が読むことにどのような意味があるのでしょうか?私なりに、難解な本の内容を読み解きつつ、その学習の意味を考えてみたいと思います。
まず、これらの本の内容について、いつものように本の紹介文から読んでいきましょう。
『ことばと思考』
私たちは,ことばを通して世界を見たり,ものごとを考えたりする.では,異なる言語を話す日本人と外国人では,認識や思考のあり方は異なるのだろうか.「前・後・左・右」のない言語の位置表現,ことばの獲得が子どもの思考に与える影響など,興味深い調査・実験の成果をふんだんに紹介しながら,認知心理学の立場から語る.
(本の紹介文より)
『英語独習法』
英語の達人をめざすなら,類義語との違い,構文や文脈,共起語などの知識に支えられた高い語彙力が不可欠だ.記憶や学習のしくみを考えれば,多読や多聴は語彙力向上には向かない.語彙全体をシステムとして考え,日本語と英語の違いを自分で探究するのが合理的な勉強法なのだ.オンラインのコーパスや辞書を利用する実践的方法を紹介.
(本の紹介文より)
この紹介文を読んでいただけるとわかるのですが、『ことばと思考』は今井さんの専門である「認知心理学」の立場から「ことば」について探求した本です。そして『英語独習法』は、その知識を活かしてどのように語学を学習したらよいのか、言わばその実践編のような本です。『英語独習法』は「英語の達人をめざすなら」と書かれているように、英語学習の上級者に向けて書かれた体裁になっています。私のような者には、とても歯が立たない内容ですが、具体的な事柄はともかくとして、その実践の方法はとても参考になります。
それでは、具体的な内容を見ていきましょう。
『ことばと思考』の紹介文の中に「私たちは,ことばを通して世界を見たり,ものごとを考えたりする」と書かれていますが、これはどういう意味でしょうか?
例えば、目の前に犬がいるとします。私たちは犬を犬として認識し、その動物に「いぬ」という呼称を割り振った、というふうに考えがちです。しかし、犬という種類の動物を認識することと、それらを「いぬ」という言葉で呼ぶこととは、表裏一体のものであり、それは切り離せないものなのです。私たちは犬を「いぬ」と呼ぶことで、あるいは猫を「ねこ」と呼ぶことで、犬や猫という動物の種類を認識し、その区別をしているのです。
私はその言語と認識との関係について、学生時代にスイスの言語学者のソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)さんから、あるいはソシュールさんの研究者であった丸山圭三郎(1933 - 1993)さんの本から学びました。
そして同じく紹介文の中の「日本人と外国人では,認識や思考のあり方は異なるのだろうか」という文章があります。例えば日本語では信号の色を「青」信号という言い方をしますが、英語では「green」と言う、というふうに言葉によって違いがあることも、私は丸山さんの本から学んでいました。言葉には、対象を区別して認識する働きがありますから、言語が違えば微妙にその区別が異なるのは当然です。
私はその程度の知識を持っていたので、今井さんの本からとくに学ぶべき点はないのかな、という先入観を持っていました。しかし、それはとんでもない思い違いで、今井さんの認知心理学は、丸山さんがその後に哲学的な思考へと深く分け入ったこととは別に、もっと私たちの生活に密着した新たな地平を切り拓いているようなのです。
今井さんの認知心理学は、言葉について細かな実験と検証を積み重ねていくので、「新書」ということで相当に噛み砕いて書いているのだと思うのですが、読むのに少々、骨が折れます。その中で、私の興味がある分野について、二つほど紹介しておきましょう。
一つ目は、空間認識に関わることです。
私たちは、モノとモノとの位置関係を言い表すのに、「前」「後」「右」「左」という言葉を使います。今井さんは、これらの位置を表す言葉は、視点をどこに置くかによって決定されることから、「相対的」な枠組みの言葉だと分析します。例えば「前に置いてある鉛筆を取って!」と人に頼むときに、それは「私」の前の場合もありますし、「相手」の前の場合もありますし、あるいは「テレビの前の・・・」などという場合もあります。日本語ならば、「テレビの前の・・」と言われたら、鉛筆はテレビと「私」または「相手」の間に置いてあることになりますが、それは言語によって異なるようです。いずれにしても、どこに視点を置くかによって言い方が変わる「相対的」な枠組みの言葉であると言えるのです。
そのような「相対的」な位置関係を表す言葉を使わずに、「東」「西」「南」「北」のような方角を表す言葉で、「絶対的」な位置関係でモノの位置を語る言語もあるそうです。オーストラリアのアボリジニの言語の中のグーグ・イミディル語という言語がそういう言葉だそうです。
私たちが「ボールは木の前にある」とか、「リモコンはテレビの左にある」と言うとき、この言語の話者は「ボールは木の南にある」とか「リモコンはテレビの西にある」とか言うわけである。
(『ことばと思考』「第一章 言葉は世界を切り分ける」今井むつみ)
なかなか面白い話ですね。このような「絶対的」な位置関係を語る言語の話者は、自宅から離れた場所に連れ出されても、正確に自分の家の位置方向がわかるのだそうです。すごいですね!私はいわゆる方向音痴で、まったくそういう感覚がありません。車を運転する時には、カーナビに頼りっきりです。私がもしもグーグ・イミディル語の話者であったなら、私の空間把握の認知が変わるのでしょうか、それとも、落ちこぼれとして生きていくしかないのでしょうか。
二つ目は、色の認識に関わることです。
先ほど、信号の色の呼び方が国によって異なることを書きました。しかし、色の基本的な区分には、異なる言語の間にも共通性があります。それは色に限らず、どんな言語の話者にも共通するような、つまり人間にとって普遍的なものや事柄には共通する区分の認識がなされるのです。
今井さんは次のように書いています。
どんな言語でも、知覚的な類似性を全く無視した形で名前をつけることはしない、というのは大きな原則である。例えば、色の帯の中で、真ん中を抜いてその両隣の領域に同じ名前をつけ、真ん中に別の名前をつけるようなことはしない。つまり、私たち日本人が言うところの黄色と青をひとまとめにして同じ名前で呼び、その間にある緑の領域に別の名前をつける、ということはしないのだ。
(『ことばと思考』「第三章 言語の普遍性を探る」今井むつみ)
うーん、当たり前と言えば当たり前の話ですね。
私たちは、色の区分は言語話者によって全く恣意的なものなのか、それとも普遍的なものなのか、どちらかに振り切って考えたくなります。しかし、現実には、そんなふうに単純に割り切って考えるわけにはいかないのです。人間は、知覚的な類似性の高いものについては一つの名称で区分し、類似性の低いものとものとの間には、境界線を引いて領域を分けて区分し、認識するのです。その境界線、つまり区分の仕方は、異なる言語間で全く同じというわけにはいかないとしても、ある程度の共通性は存在するのです。
そして色の呼称の問題だけでなく、実際に私たちは色をどのように見ているのか、どのように色を区分しているのか、というのも気になる点です。
例えば、色の区分が少ない言語の話者は、視覚的な色の認識においても色の区別が大雑把になるものなのでしょうか、それともあまり関係ないものなのでしょうか。
最初にこの疑問に答えようとしたのは、エレノア・ロッシュというアメリカの心理学者である。ロッシュはダニ語の話者にマンセル・カラーチップ(「チップ」は小片)を次々に見せた。その後、さっき見たチップがどれかをダニ語話者が覚えているかどうかテストした。もしダニ語話者が、名前で区別しない色をみな「同じ」と思うなら、さっき見た色はみな同じ色として混同されてしまうはずだ。しかし実際には、ダニ語話者はさっき見た色に対して英語話者と遜色ない記憶を見せたのである。
(『ことばと思考』「第三章 言語の普遍性を探る」今井むつみ)
この結論だけを読むと、言語による色の区分に関係なく、人間は色を認識できるようです。しかし言語による色の区分の境界付近の色については、人間はその区分に判断を引きずられる傾向にあるようで、そのことについても検証例が記載されています。
だから、私たちの色の知覚は、言語とまったく関係ない、とも言えないのです。
さて、いささか中途半端な結論のように見えますが、現実にはこのような仕組みになっているようです。私たちは言語と認識との複雑な関わりを持っています。そのことは、空間や色の例を見ただけでもわかります。
この新たにわかった複雑な知見について、私たちはどのように考えたら良いのでしょうか。
今井さんは次のように書いています
異なる言語の間に、普遍的な傾向は確かにあり、これは人間の認識や知性の普遍性を映し出すものとして確かに非常に重要だ。しかし、言語の多様性が非常に大きいことは紛れもない事実で、人の認識の性質を理解する上で、これを「取るに足りないこと」と看過することはできない。
しかも、先ほど述べたように、モノや出来事を無意識に見るという行為でさえ、言語の存在が脳の計算プロセスの一部になっているのだ。このように考えると、私たちは言語のフィルターを通して、少々歪められた世界を見ているのである。呼吸するのと同じように無意識に当たり前に行なっている、身の回りのモノや出来事を見て、認識して、記憶する、という行為を、脳がどのような認知プロセスで行なっているかを明らかにすることは、人間の思考、知性について理解するために、絶対に必要なことだ。そして、その問題を考える上で、私たちが見ている世界は言語のフィルターを通した世界であることを理解し、言語がどのように関わっているかを明らかにすることは、いうまでもなく非常に重要なことなのである。 言語と思考の関係を考える場合に、もはや、単純に、異なる言語の話者の間の認識が違うか、同じかという問題意識は、不十分で、科学的な観点からは、時代遅れだといってよい。いま私たちがしなければならないことは、私たちの日常的な認識と思考見ること、聞くこと、理解し解釈すること、記憶すること、記憶を思い出すこと、予測すること、推論すること、そして学習することに言語がどのように関わっているのか、その仕組みを詳しく明らかにすることである。
その上で、異なる言語がそれぞれの認識と思考にどのように関わるのか、その関わり方が言語の文法による構造的な特徴や語彙の特徴によってどのように異なるのか、という問題に取り組んでいくことになるだろう。
(『ことばと思考』「終章 言語と思考」今井むつみ)
私にとって、この今井さんの言葉が、今井さんの一連の研究の結論のようなものになります。
「異なる言語の話者の間の認識が違うか、同じかという問題意識は、不十分で、科学的な観点からは、時代遅れだといってよい」という言葉は耳に痛いですね。私たちは、どうしてもそういう共通点や相違点を探すことに夢中になりがちです。そして、何か発見があると、さも大発見をしたような気分になるのです。しかし、重要なのは「私たちは言語のフィルターを通して、少々歪められた世界を見ているのである」という認識を忘れないことです。
これに対して、「美術や音楽は世界共通の認識」だという考え方を聞くことがあります。しかし、これは相当におめでたい認識だと言わざるを得ません。単純な色の認識でさえ、言語による歪みが生じるのです。芸術の認識に歪みや差異がないわけがありません。
美術や音楽を特別なものだと思わずに、もっと謙虚に私たちは最新の知見から学ばなければなりません。
さて、そのようなことがわかると、言語学の知識ばかりでなく、実際に外国語を学ぶことが私たち自身の認識の歪みを知る格好の学習材料になることが理解できます。今井さんは『ことばと思考』の最後に、次のように書いています。
言い換えれば、外国語を勉強し、習熟することで、その外国語のネイティヴと全く同じ「思考」を得るわけではないにしても、母語のフィルターを通してしか見ていなかった世界を、別の視点から見ることができるようになるのである。つまり、バイリンガルになることにより、得ることができるのは、その外国語の母語話者と同じ認識そのものではなく、母語を通した認識だけが唯一の標準の認識ではなく、同じモノ、同じ事象を複数の認識の枠組みから捉えることが可能であるという認識なのである。自分の言語・文化、あるいは特定の言語・文化が世界の中心にあるのではなく、様々な言語のフィルターを通した様々な認識の枠組みが存在することを意識することそれが多言語に習熟することによりもたらされる、もっとも大きな思考の変容なのだと筆者は考える。
(『ことばと思考』「終章 言語と思考」今井むつみ)
この中で、「自分の言語・文化、あるいは特定の言語・文化が世界の中心にあるのではなく、様々な言語のフィルターを通した様々な認識の枠組みが存在することを意識することそれが多言語に習熟することによりもたらされる、もっとも大きな思考の変容なのだ」という一文を肝に銘じておきましょう。
このようなことを理解した上で、今井さんの『英語独習法』を覗いてみましょう。
余談ですが、この本を読んでいくと、日本の英語学習がいかに間違っているのかよく分かりますので、文部科学省や語学の教育行政に関わる方、そしてもちろん外国語の先生方に読んでいただきたい本だと思います。
それに、怪しげな英語学習の教材がいかにナンセンスなのかも、よくわかります。例えば自分の英語のレベルを気にする前に、とりあえず多聴多読をするのが良い、とか、英語の聞き流しで学習効果が上がる、という宣伝をよく聞きます。今井さんはこの本の中で、十分な語彙の学習、つまり単語もわからずに読んだり、聞いたりしても意味がない、とごく当たり前のことを指摘をしています。それらの商品の宣伝文句に誘われて、楽に英語が上達できると思って無駄なお金と時間を使わないように、お互いに注意しましょう。
さて、そういう学習方法の話も興味深いのですが、私たちにとってとりあえず認識しておきたいことは、英語による認知と日本語による認知の違いを知り、私たちがいかに日本語のフィルターを通してものごとを見ているのか、つまり私たちのものの見方がいかに相対的なものであるのか、を実感することです。
例えば、この『英語独習法』のはじめの方で、「可算・不可算文法」について書かれています。これは、「可算名詞」には「a」をつけるか、複数形にしなければいけない、という英語の初歩の話です。中学校の時に、名詞に「a」をつける必要があるのかどうか、それはその名詞が数えられるかどうか考えればいいんだよ、というふうに教わりました。しかし、これが意外と難しい・・、そして間違えると、自分が馬鹿な人間だという気がして落ち込むのです。
私が馬鹿なのは仕方ないとして、この「可算・不可算文法」について、今井さんは「名詞で表されるすべての概念は、まず可算・不可算のどちらかに分類されなければならないのだが、それは単純に、日本語的な感覚で数えられるか、数えられないかということで決まるのではない」と書いています。
そして続けて、今井さんは次のように書いています。
その文脈で、自分は特定の個別事例のことを言いたいのか、個別単位に分けることができない不可分の集合体のことを言いたいのか。それが先に立って、その文中でaをつけて可算名詞として表現するのか、aをつけず、複数形にもせずに不可算名詞として表現するのかを決めるのである。
イヌや自動車やコップが可算名詞で、水やミルクが不可算名詞なのはすなおに納得できる。しかし、『オックスフォード現代英英辞典』によると、キャベツ、レタスは可算・不可算両方、とあり、ブロッコリー、カリフラワーは不可算名詞、卵は可算名詞と書かれている。この「両方」はクセモノである。どちらでもいい、ということではないからだ。a chicken(可算)かchicken(不可算)かと同じように、ブロッコリーが可算か不可算かは、話し手が、その文脈で、今は「数えることに意味がないかたまり」と見たいか、「一つ一つを別個の個体」として見たいかによって決まる。
(『英語独習法』「第2章 『知っている』と『使える』は別」今井むつみ)
この後に続けて、今井さんは抽象名詞はさらにやっかいだと書いています。
名詞だけを例に取ってもこれほど難しいのに、英語話者の人の頭の中はどうなっているのだろう、と考えてしまいます。今井さんは、ここで認知心理学の概念である「スキーマ」という言葉を紹介し、説明しています。
スキーマ(schema)を辞書でひくと次のように書いてあります。
「スキーマとは,過去の経験や外部の環境に関する構造化された知識の集合である。長期記憶に貯蔵されている,出来事,行為,事物などについての一般的知識のことをいう。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%9E-4844
つまり、言葉を使うときの「知識のシステム」のことで、これを私たちは日常的に意識しないで使っているのだそうです。
だから私たちが「a」の使い方、つまり可算・不可算の名詞の使い方を間違えると、英語話者にとっては無意識のうちにスキーマが働いて「何か変だな、気持ち悪いな」という違和感を抱くのです。このスキーマが具体的な言葉の上で働くのは氷山の一角を見るようなもので、本当に英語を身に付けたければ、そのスキーマ全体を、つまり海面下にある全体像を理解しなければなりません。
英語話者は、幼少時に例えば「可算・不可算」のスキーマを身に付ける学習を繰り返し行なってきたのです。これは英語話者に限らず、私たちが母語を身に付けるにあたり、それぞれが必要なスキーマを体得していると考えて良いでしょう。だから外国語を身に付けるということは大変なことなのです。母語ならば、無意識に身に付けているスキーマを、後から学ばなければならないからです。
しかし、先ほどの『ことばと思考』の学習の続きとして考えるなら、この外国語のスキーマを身をもって学ぶことが、自分自身の母語の理解を相対化し、その母語を通して得ている認識の特徴や歪みを真に理解することになるのでしょう。
今井さんは、スキーマについて次のように書いています。
大切なことなので繰り返すが、「使えることばの知識」、つまりことばについてのスキーマは、氷山の水面下にある、非常に複雑で豊かな知識のシステムである。スキーマは、ほとんど言語化できず、無意識にアクセスされる。可算・不可算文法の意味も、スキーマの一つなのである。
外界で起こっている出来事や言語情報は、すべてスキーマのフィルターを通して知覚される。私たちは、スキーマによって、現在自分が置かれている状況で何が大事かを判断し、情報を取捨選択するのである。
(『英語独習法』「第2章 『知っている』と『使える』は別」今井むつみ)
英語が得意な人が読んでいらっしゃったら、私が初歩的なところにこだわっていることに可笑しさを感じておられるかもしれません。しかし、今井さんは中学校時代の次のような小噺を書いています。
私も中学校で英語の勉強を始めたとき、どうしてaとtheの「意味」がわからず、英語の先生しつこく聞いたら先生が怒り出してしまい、「こんなこともわからないのか」と叱られてしまった苦い記憶がある。先生もわからなかったのだと思う。しかし生徒にそう言えないので、怒るしかなかったのではないだろうか。
(『英語独習法』「第2章 『知っている』と『使える』は別」今井むつみ)
英語の先生でも分からないのですから、私が分からなくても仕方ありません。
そしてこのエピソードは、英語が「わかる」「わからない」のいずれかで語られるものではなくて、私たちがどこまで母語ではない言語のスキーマを理解し、体得できたのか、という奥深い次元で語られるものだ、ということを示しています。
そして、最後に外国語を学ぶ意義について、今井さんが書いている部分を引用しておきましょう。
ことばは奥深く、面白い。資格を取るために、あるいは希望の大学に合格するためだけに英語を勉強するなんて、もったいない。拙著『ことばと思考』(岩波新書)では、ことばがいかに多様に世界を切り分け、分類・整理しているかについて述べた。英語(あるいはそれ以外の外国語)を学ぶことで、自分が慣れ親しんできた、当たり前だと思っていた世界のとらえかた、切り分けかたのユニークさにも気づくことができる。
(『英語独習法』「第10章 大人になってからでも遅すぎない」今井むつみ)
この『英語独習法』は、「ことばがいかに多様に世界を切り分け、分類・整理しているか」を学ぶための実践編なのですが、この「第10章」以降がなかなか難しいです。これは、よほど本気で英語を勉強しようと思わないと・・・、という内容です。仕事を辞めたら、取り組んでみたいことの一つですね。
さて、外国語の認知から見えてくる世界について、今回は考えてみました。これで英語がわかるわけではありませんが、私たちが新しい世界を知る方法、あるいは手がかりが一つ増えたのは良いことです。
それは自分の認知を相対化することにもなります。これが大事だと私は思います。
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