https://spc.ne.jp/spcblog/20240523-3873/
この展覧会から、絵画表現について考えてみましょう。
それに相応しい展覧会なのです。
今回の展覧会は、案内状にあるような段ボール箱(これはミネラル・ウォータのポリタンクが入っていた箱だそうで、ギャラリーの片隅に空のポリタンクが置いてあります)を開いて貼り合わせた作品や、お米が入っていた紙袋を、やはり開いて貼り合わせた作品、ガラス瓶などを輸送する際に使われていた梱包の保護材の紙をそのまま支持体とした作品等などが展示されています。
高島さんは多様な表現形式で作品を発表している美術家ですが、彼が絵画形式で展示する際には、このところ多くの場合、下塗りが施されていない綿布の生キャンバスを木枠に簡易に張りつける、などの形式を用いています。それらは、既成の絵画形式を少しだけずらしたものです。通常のキャンバス形式や紙の作品に近いけれども、何か違うものであるだけに、若干の違いが大きな違和感となって、私たちに「絵画とは何か」という反省を促すのでした。
そして多くのそれらの作品は、木炭やコンテで作品の隅の数箇所に点のような短い線が描かれているだけで、描画行為は最小限に抑えられていました。この禁欲的とも言える表現から、高島さんの作品をミニマル・アートの延長にあるものだと評価する人もいるでしょう。
ところが今回の作品は、そもそも支持体の作り方が、既成のキャンバス作品からかけ離れています。
そして、今回の作品の支持体には、共通する何かがあります。
それは何でしょうか?
高島さんによれば、水のポリタンクや米を包んでいた梱包材は、私たちの暮らしに欠かせないものを包んでいた「もの」です。それらを開いて貼り合わせるだけ、という人為性をできるだけ排除した形で支持体にすることで、高島さんは私たちの命に直結するものをそのまま作品に取り入れたかったのだと私は推測します。高島さんは、自分自身が恣意的に選んだものではなくて、誰にとっても切実なものをあえて支持体にしようとしているのです。
この発想には、高島さんが美術を私たちにとって特別なものにはしたくない、と考えていることが反映していると思います。美術が何か贅沢なものであったり、私たちの暮らしの余剰品であったり、ということではなくて、もっと身近にあるもの、もっと生命とつながったものだと考えているのです。
ですから、今回の展覧会では、高島さんの芸術に対するそのような姿勢が、これまでの展示とは違った形で表れていて、それが高島さんの作品に対するあらたな理解を生むものとなっています。
そのことは、それぞれの作品の片隅に塗布された彩色にも表れています。
大きな作品ではラッカー塗料の単色が、それぞれ青、赤、黄色といった明確な色ですが、それらのうちの一色が選ばれて塗布されています。何気なく塗られているようでいて、実は念入りに、線や点の上にはテーピングを施し、塗布自体も作者の手の動きが残らないようにテーピングされた領域内を刷毛のようなもので塗っているようです。
ラッカー塗料は艶やかな光沢を放っていて、それは色であると同時に塗料としての物質性を主張しています。支持体である紙に馴染まない、あくまで塗料としての色なのです。それが不規則な形ではあるけれども、機械的に塗布されているように見えます。一部、色の濃淡が滲んでいますが、それすらも人為的なものではなく、あくまで物資としての塗料が偶然に滲んだように見えるのです。
さて、このように人為的な行為を廃して、そして芸術的な趣向から遠く離れたところで、高島さんは、いったい何をやろうとしているのでしょうか?
それは私たちが、高島さんの作品の中に何を見るのか、ということでもあります。
私は高島さんの作品を見ると、高島さんの作品が「絵画」として成立する瞬間を見るような気になります。
お米の袋は、そのままでは「絵画」とは言えません。しかし袋が開かれ、高島さんが「これは絵画になりそうだな」と考え始めた時に、それは絵画としての様相を整えつつあります。そしてそれが貼り合わされ、描く準備が整ったところで、もうその紙は作品として成立しています。しかしそれは、「絵画」ではなく、「平面的なオブジェ」と言った方が良いでしょう。その紙に高島さんがドローイングを施した時に、それは「絵画」としての要件を満たすのだと思います。
今回の作品では、作品の隅に彩色が施されていることが展覧会の特色になっています。それは先に書いたとおりです。
その彩色は、作品を「絵画」らしくする効果があったのだと私は思います。もちろん、開いた段ボールに適当に線を入れて、「これは絵画である」と言ってもいいのですが、それでは「絵画」という概念を確認するための試験用紙のようなものになってしまいます。
今回の作品では、それが彩色を施されたことで、どれほどそれが「絵画」らしくなったのかを楽しむことができるようになっています。
紙がよれていたり、折り目が入っていたり、ところどころに穴や隙間があったり、ということがそれぞれの作品にあるのですが、それさえも「絵画」を構成する一つの要素として味わうことができます。
小さな作品で、色鉛筆で彩色されたものが縦にいくつも展示されたものがありましたが、それらの中には渦巻くような絵画空間を感じさせるものがありました。切り目の入った緩衝材の紙が、こんなふうに絵画的に見えるということに驚き、楽しんで見てしまいました。
さて、それでは高島さんはどうして、このような「絵画」の成立ということにこだわるのでしょうか?
それは、「絵画」というものが、極めて人間性に富んだものであり、絵画を「絵画」として認識するのは人間だけだからです。
「Wikipedia」では、絵画について次のように書かれています。
絵画は、基本的には、線や色彩を用いて、物の形や姿を平面上に描き出したものである。その起源は先史時代に遡り、スペインで6万5000年以上前にネアンデルタール人が描いたと推定される洞窟壁画が発見されている。また、「絵画は, ある物質の表面に故意に色をつけてつくり上げた「もの」にすぎない」との定義もある。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B5%E7%94%BB
この最後の文章の「もの」にすぎない、というところに注目しましょう。「もの」にすぎないものに、「物の形や姿」を見出してしまい、それを絵画として定義し、芸術として認識する・・、それは極めて人間的な営為なのです。
だから絵画を「絵画」として認識し、味わい、その思いを共有し、お互いに語り合うということも、同じく「人間性に富んだ行為」です。
だから高島さんは、繰り返し「絵画」が誕生する様を表現として定着し、その瞬間を私たちと共有しようとするのです。それが私たちの人間性に大きく関わることだからです。
もちろん、このような作品を制作し、絵画とは何かを問いかけているのは高島さんだけではありません。
例えば、先ほど少し言及した「ミニマル・アート」の作品もその一つであると言えます。「ミニマル・アート」について、三重県立美術館が定義した文章がありましたので、次に引用しておきます。
ミニマル・アート(最小限芸術)は1960年代後半にアメリカ美術にみられた一つの傾向。1950年代の抽象表現主義の主観的表現を否定し,イリュージョンや個人的感情,ニュアンスといったものを排して匿名的な形体や構造をもった,それ自体の事物性以外の何ものをも表現しない彫刻や絵画を指す。それらは,個人的な手わざの痕跡を避けるため無機的な素材感を有しており,作品のアイデア,プランが決定したら機械的なプロセスのもとで制作される。代表的作家にフランク・ステラ,ソル・ルウィット,ドナルド・ジャツドらがあげられる。
(「三重県立美術館ホームページ」より)
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55659038732.htm
上の文章の「それ自体の事物性以外の何ものをも表現しない彫刻や絵画を指す」というところに注目しましょう。「何ものも表現しない」ものなのに、それが「絵画を指す」としたら、それは一体、なぜそうなるのか・・、それは見る者の視線がそうさせるのだ、と言ったのは随分前に亡くなった美術評論家の宮川 淳(みやかわ あつし、1933 - 1977)さんでした。そのことについては、何回かこのblogでも書いていますので、ここでは割愛します。
このミニマル・アートの芸術家たちは、その表現を展開するにあたって、例えば先日亡くなったステラ(Frank Stella, 1936 - 2024)さんのように、徐々に作品を複雑化していった人たちがいます。そのことも、少し前に書きましたので、ぜひそちらをお読みください。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/561bebee81898da92ce5c783fe85bebd
ミニマル・アートの芸術家たちが、次第にその手法を複雑化したり、そのアイディアやプランに凝っていったりしたのは、ある程度、仕方のないことです。いろいろな理由があって、彼らは立ち止まっているわけにはいかなかったのです。しかし、彼らは「それ自体の事物性以外の何ものをも表現しない彫刻や絵画を指す」という原点から遠ざかってしまったことは事実です。
そして作家によっては、「機械的なプロセス」を洗練させて、インテリア・デザインのような作品に移行した人もいます。
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=45&d=857
私には、ミニマル・アートの作品が洗練されればされるほど、やはり「それ自体の事物性以外の何ものをも表現しない彫刻や絵画を指す」という原点から遠ざかってしまったと思えてなりません。
作品がラディカルな問いの意味を忘れてしまえば、それだけ作品を見ることの意味も減ってしまいます。単純に言って、スリルがなくなってしまうのです。それは残念なことだと思います。
あるいは私が今回の高島さんの展示から想起したものとして、フランスの現代美術の運動で「シュポール/シュルファス」と呼ばれたものがあります。
「現代美術用語辞典」には次のような記載があります。
1960年代末のフランスで起こった芸術運動。南仏を主な舞台とし、C・ヴィアラ、D・ドゥズーズ、V・ビレウスら現地在住のメンバーに、後にパリのL・カーンやM・ド=ヴァドらが合流した。「支持体/表面」という意味に相当する運動名は、70年にパリで初めて開催されたグループ展の名称に由来しているが、以後この名称で展覧会が組織されたのは4回に過ぎず、わずか数年のうちにあえなく終焉を迎える。作品制作を社会的現実のなかに位置付けようとするその試みは、いわゆる68年の「五月革命」からの強いインパクトを孕みつつ、作品自体の性質は「もの派」や「アルテ・ポーヴェラ」といった同時代の他の美術運動との深い関連も想起させる。91年にパリのサント=エチエンヌ美術館で開催され、93年に日本にも巡回した「シュポール/シュルファス」の回顧展は、しばらく忘れ去られていたこの動向にあらためてスポットを当てる好機となった。
https://artscape.jp/dictionary/modern/1198326_1637.html
この運動の中で、後継の世代の画家としてジャン・ピエール・パンスマン(Jean-Pierre Pincemin 、1944–2005) さんという人がいました。作風がいろいろと変わった人ですが、彼のもっとも「シュポール/シュルファス」運動に近い作品例のリンクを貼っておきます。
https://www.piasa.fr/en/news/news-piasa-auction-jean-pierre-pincemin-contemporary-modern-art
https://www.centrepompidou.fr/fr/ressources/oeuvre/c5ejegp
私がなぜ、彼の作品を想起したのかといえば、パンスマンさんの作品は作品の一部を彩色して貼り合わせたものですが、例えば高島さんの作品の彩色部分を大きくして、それを組み合わせればパンスマンさんのようになるからです。
「シュポール/シュルファス」運動は、絵画の「支持体/表面」の意味を問い直し、ひいては絵画の意味を問い直す、という運動でした。しかし彼らは、やや観念的に問題提起をした後で、その展開に行き詰まり、運動としては終焉しました。
パンスマンさんは中心作家の中ではやや年少で、その運動の精神をなんとかうまく展開しようとしたのだと思います。その結果、彼はこのような貼り合わせの作品に至ったのでした。
描くことの作為を最小限にして、規則的な作業で作品を制作したことに、作家としての真剣さを感じますが、「絵画」そのものへの問いかけとしては、少し離れてしまったのではないか、と思わざるを得ません。
それに「シュポール/シュルファス」は「五月革命」などの社会運動に影響を受けた運動でした。ですから、今日本で振り返って評価されるよりも、より政治的な側面が強かったのではないか、と私は思います。そのような事情もあって、根源的に絵画を問うことを継続することが、困難であったのかもしれません。根源的に絵画を問うことよりも、芸術と社会との現実的な関わりをどのようにしていくのか、そんなことが彼らの問題としてあったのではないか、と思います。
さて、このように考えてみると、高島さんのように「絵画」の意味を、「絵画」の成立の意義を問い直そうという動きはいくつもあったのですが、高島さんのように、そこに立ち止まり、繰り返しその思考を深めている人は珍しいのかもしれません。高島さんが冷静な人物であり、また美術界の商業主義とも無縁であったことが大きいと私は思います。
そして、私は私なりに絵画について、ラディカルに考えていますが、高島さんとはまったく別な道を歩んでいます。その意味で、高島さんは貴重な同伴者であり、その仕事の展開には興味がつきません。
最後にまとめておきましょう。
今回の高島さんの作品の展開は、根源的に絵画を問うことの可能性を広げてみせたものです。彼の仕事は同じことを反復しているように見えますが、そうであっても表現を展開することが可能なのだ、ということを示してもいます。
その点でも、とても興味深い展覧会となりました。
私自身、忙しくて会期の終盤に見せていただくことになってしまいましたが、あと数日の会期がありますので、絵画に興味がある方は、ぜひ見にいってみてください。
誰もが自分なりに何かを感じ取ることのできる展示であり、それが自分自身の絵画との関わりを推し量る事にもなると思います。
取り急ぎ文章をまとめましたので、事実誤認や不備があったらごめんなさい。もしも、そういうことがありましたら、ご指摘いただけると幸いです。
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高島芳幸
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