東京・日本橋兜町のSPCギャラリーで、阿部 隆さんが個展を開催しています。 会期や時間は次のとおりです。
2022年 9月19日(月) ~ 10月1日(土) 日曜休廊
12:00p.m.~7:00p.m. (最終日 5:00p.m.)
前回の武蔵野美術学院での展覧会を見逃してしまったので、楽しみにしていますが、残念ながら私はまだ見ていません。私が見てからご紹介すると、会期末になってしまうかもしれないので、とりあえず阿部さんという画家をご紹介します。
阿部さんはキャリアの長い方ですが、ここに来て作品の充実度が増しています。それはどういうことかと言えば、阿部さんの絵画のイリュージョンの緊密度が高まってきていて、画面の構造に隙がない感じになってきているのです。
そういう点について、作家自身はどこまで自覚しているのかと言えば、阿部さんは少し前の展覧会で次のようなメッセージを寄せています。
構造について考えすぎると絵が老いる感じがする。完成を夢見るよりこの絵が今、生きているかを問題にしよう。
いたずらに相対的で稚拙な自己分析でもって自分自身を分解してしまう前に、今一度<感ずること>をより意識化すべく作業に向かい合おう。
(2020年 トキ・アートスペースの作家コメントより)
以前にも、私はこの言葉をblogで取り上げたのですが、作家自身は絵の構造について考えすぎない、分析しすぎないようにしている、ということのようです。こういう考え方は、作品と真剣に向き合っている作家にはありがちなことです。自分の作品を客観的に分析することはとても困難ですし、いま制作している作品ならば、なおさらのことです。そうなると、作品そのものの構造を考えるよりも、いま制作している自分の気持ちを少しでも良い方向に向けようと努力するのは当然のことです。この時の展覧会の記事を読んでいただける方は、末尾にリンク先を掲載しましたので、終わりまで読んでくださいね。
その阿部さんの作品ですが、作風は大きく変わっていませんが、空間の構造は微妙に変化しています。とりあえず、次のホームページに掲載されている写真を順に見ていってください。今回の2022年の写真、2020年の写真、2016年の写真、2010年の写真というふうに年代をさかのぼって作品の変化がご覧になれます。
https://spc.ne.jp/spcblog/20220915-3066/
http://tokiart.life.coocan.jp/2020/200706.html
http://rashin.net/oldsite/2016/08/index000995.php.html
https://spc.ne.jp/archive/2010/1446
いかがでしょうか?ひとつの展覧会の中でも、阿部さんの作品にはかなりのヴァリエーションがあることが多いので、色調の変化などはそれほど気にしないでください。今回の展覧会でも、おそらくいろんなタイプの作品があるでしょう。私が注目していただきたいのは、作品が持っている空間の質、例えば奥行きや広がりです。
2010年の作品では、阿部さんが描いていない部分は、そのまま画面の地の白が見えています。色のついているところがとてもボリューム感があるので、私には地の白さがちょっと浮いて見えます。この頃の阿部さんは、地の部分がどう見えるのか、ということについてあえて問題とせずに描いていたように見えます。例えば、水墨画を描く画家が、紙の地の部分をそのまま描き残すような感じ、と言ったらよいでしょうか?しかし、先ほど書いたように、阿部さんの筆のタッチはあまりにボリューム感が豊かなので、地の白い部分が違和感を持って残っているように見えてしまうのです。
そのことを意識したのかどうかわかりませんが、それ以降の作品は地の白さが気にならないように、うまく筆を運んでいます。描いている部分のたっぷりとしたボリューム感はそのままですが、阿部さんは地の部分を残すとか残さないとかいう神経質な気配りをしないですむように、上手に絵と向き合っているように見えます。
そして今回の作品写真は、筆のタッチのボリューム感が抑制され、地となる部分にも心地よい奥行きがあります。心地よい奥行きというのは、画面の表面からはるか遠方に引いてしまうような、旧套的な絵画空間の奥行きではなくて、表面に近いところで微妙な抵抗感のある、いわば張りのある奥行きのことです。
私は現代の抽象絵画において、これまでの具象絵画の遠近法とは異なるこの奥行きの感覚、抽象絵画におけるイリュージョンを正確に感受する能力がとても大切であり、画家にとって、あるいは鑑賞者にとってもそれが不可欠のものとなりつつある、と思っているのです。しかし、この新たな絵画のイリュージョンについて説明しようとすると、これがなかなかたいへんです。そもそも今までに、そのことをちゃんと語った美術批評があったのだろうか?と途方に暮れてしまうのですが、それがあったのです。
阿部さんのように、自由に空間を動き回るような抽象絵画の先駆者の一人に、ジョアン・ミロ(Joan Miró i Ferrà 、 1893 - 1983)という画家がいます。ミロさんは不思議な画家で、前衛的な表現者としての側面と同時に、親しみやすいユーモアを絵に込めた画家でもあります。ミロさんが若い頃に描いた絵で、故郷の家の周りを描いた作品がありますが、足跡や生き物などが記号のような形となって散りばめられていて、不思議なリアリティに満ちた作品だと思います。この絵はノーベル賞作家のヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway、1899 - 1961)が所有していたことでも有名でした。
https://omochi-art.com/wp/joan-miro/
そんなミロさんですが、現代美術の動向の中ではシュルレアリスム運動の中で語られることが多い画家です。シュルレアリスムというと、ちょっと奇妙な、場合によってはグロテスクな絵が多いのですが、その中にミロさんが含まれるというのも不思議な気がします。
そのシュルレアリスム( surrealism)運動ですが、1920年頃の世界大戦の戦間期に起こった芸術運動です。フランスのアンドレ・ブルトン(André Breton, 1896 - 1966)という詩人、作家がその中心人物でした。表現としてのシュルレアリスムの技法には、主に二つあると考えられます。いずれも理性による監視を排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた状態で創作する方法です。
そのひとつがオートマティスムと言われるもので、絵画の例で言えば無意識のうちに画面に線を引いてみたり、絵の具を垂らしてみたり、というよう方法です。やり方によっては、そこに偶然性が入ってくる余地があるでしょう。
もうひとつは、フロイト( Sigmund Freud、1856 – 1939)の精神分析で明らかになった人間の無意識や夢のイメージを、描写的な画像として表現する方法です。日本人はこの傾向の作品が大好きなので、シュルレアリスムと言えばサルバドール・ダリ(Salvador Dalí 、1904 - 1989)さんの演出過多の不思議な絵を思い浮かべる人も多いでしょう。
ミロさんはオートマティスムを応用した、前者のタイプのシュルレアリストです。彼の描くユーモラスな画像だってシュールじゃないか、と言われればそうですが、やはり彼はオートマティックな方法を活用したことでシュルレアリストとして認められた人なのです。
そのミロさんの傑作に『世界の誕生(The Birth of the World)』(1925)という作品があります。
https://www.moma.org/collection/works/79321
Joan Miró「The Birth of the World」(1925)
実は、この作品について論じた素晴らしい文章があります。それをぜひ読んでいただきたいと思います。著者は前回もお名前の出てきた、美術評論家の藤枝晃雄(1936 -2018)さんです。かなり長い引用になりますが、藤枝さんの文章は少々難しいので、途中で切りにくいのです。しっかりと読んでください。
ミロのオートマティスムは、マッソンほど過激ではない。マッソンにおいては、オートマティックに起因する線や形体が活用され、イメージ化されており、オートマティックな要素と非オートマティックな要素がもつれ合っている。ミロにあっては、オートマティックな要素はより地として働き、そこから漸次、発生したり加筆されたりする諸要素との相関性からイメージが布置される。「世界の誕生」において画面の上から下へと滴り落ちる線は、偶然によるが、そこにある程度、考慮された間隔がある。もちろん、この用法は、当時としては斬新であったし、後日アーシル・ゴーキーやサム・フランシスが利用したものである。しかし、これをもって抽象表現主義との関係を強調するのは誤りである。ジャクソン・ポロックやバーネット・ニューマンは、このような偶然は重視しなかった。真の抽象表現主義者が注目したのは、ミロのイメージとそれを成立させている空間の在り方である。この点においてミロの影響は、アクション・ペインティングの概念の盲従者たちには想像できないだろうが、抽象表現主義はもとより、カラー・フィールド・ペインティングにも及ぶ。
ミロの芸術で強調されているもう一つの局面は、マティエールである。それはオートマティックな表面であればマティエールを連想するシュルレアリスムへの誤った観点による。「世界の誕生」のオートマティスムがもたらした表面は、マットなマティエールで、しかし終局的にはそれを度外視できる空間の広がりとして現れているのだ。これがミロの作品が優れている大きな要因である。反面、ミロが現実物を用いたコラージュ/オブジェは、弛緩した実験的作物にとどまっている。
ミロは「世界の誕生」以後、以前と同じように彼の欠陥である漫画的な、あまりに漫画的と言い得るイメージを誇示する作品や、水平線や分割によってイメージをたやすく効果づける作品を描いた。しかし1933年ころの絵画はそれから脱却したイメージと空間が絵画として説得力を有するものになっている。これに関して、オートマティスムは、背景の表面性をミロに示唆したに違いない。そしてこの場合、ミロは主として彩度の高い色相の対比、そしてこれと結びつく明度の諧調による重要な色彩表現を獲得したのである。オートマティスムは、イメージを湧出させる源泉であると同時に、イメージを抑制する役目を担っているが、これに気づくことは、作家如何による。
ミロは、サルバドール・ダリやイヴ・タンギーやポール・デルヴォーやハンス・ベルメールのように、奇妙であったり、異様であったりするイメージのバーゲンセールを行うアカデミックなシュルレアリスム、あるいはそうしたものに自我を投入し文人趣味を開陳するほかないシュルレアリスムの周辺とは異なっている。このことは繰り返し批判してきたことだが、それは不幸にもいまなお有効である。
(『モダニズム以後の芸術』「第5章 作家と作品ー印象主義からダダイズムまで」より、ホアン・ミロ「世界の誕生」1925年より 藤枝晃雄)
最後のところで、先ほど例示したダリさんらの描写的なシュルレアリストたちへ、辛辣な批判が書かれています。これが藤枝晃雄さんのシュルレアリスムへの評価ということになると思います。ここでは「文学的なイメージの開陳」にあたるような作品が批判されています。これらの作品は、美術表現としては見るべきものがない、というところだと思います。彼らの作品を「アカデミックなシュルレアリスム」と揶揄したくなる藤枝さんの気持ちもわかります。ただ私はポール・デルヴォー(Paul Delvaux、1897 - 1994)さんの作品などは、古典的な作品としてそれなりに楽しめるので、嫌いではありません。
さて、本題はミロさんの『世界の誕生』です。この作品におけるミロさんの手法を、前々回取り上げたゴーキー(Arshile Gorky, 1904 - 1948)さんが利用したというのです。それはどういうことでしょうか?
藤枝さんは、偶然に出来た線や絵の具の滴りを面白がるような一般的なオートマティスムの絵画とは違った手応えを、ミロさんの絵の中に見ています。それは「ミロにあっては、オートマティックな要素はより地として働き」という一節に現れています。画面の「地」の部分、つまり図の背景の奥行きに当たる部分にオートマティックな絵の具の痕跡が利用されていて、それが画面上の抵抗感となっているのです。それがもっと具体的な言葉になっているのが、次の文章です。
「世界の誕生」のオートマティスムがもたらした表面は、マットなマティエールで、しかし終局的にはそれを度外視できる空間の広がりとして現れているのだ。
この「マットなマティエール」が「空間の広がりとして現れている」という部分に注目しましょう。それは空間の奥行きではなくて、「広がり」なのです。ミロの『世界の誕生』は、図像が描かれていない地の部分において、漠然と奥へと引っ込んでしまう空間ではなくて、平面的に広がっていく空間で形成されているのです。したがってかなり明度の低い、視覚的に奥へと引いてしまう色彩を使いながら、画面の構造としては平面的に広がっていく「張り」のようなものを感じさせるのです。
このようなオートマティスムの活かし方は、後にカラー・フィールド・ペインティングの絵の構造へと繋がっていくのだ、と藤枝さんは分析しています。このことは、ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)のアクション・ペインティングの行為性ばかりに目を向けている人たちには想像すらできないだろう、というダメ押しの一言も添えられています。
藤枝さん自身は、ポロックさんのアクションが一般の人が考えるよりもコントロールされたものであり、絵の具の滴による偶然性も限定的なものだと見做していました。要するにポロックさんの絵画が、派手なアクションによって偶然に出来上がったものであるかのように語る軽薄な美術批評が、我慢ならなかったのだと思います。
藤枝さんは、つねに絵の構造に着目した人でした。その結果、表面に現れた色や形よりも、画面を支える地の部分を、より重視したのです。結局のところ、画面の地の部分が絵画空間全体を規定するものであり、まさにその見え方が絵画の構造を形作っているからです。
さらに文章の中ほどを読むと、コラージュ/オブジェなどの新奇な概念が絵に入り込んでくるときに、その手法が実質的に画面の構造とどのように関連しているのかが問題なのだ、と藤枝さんは言いたかったようです。そのやり方が適切でなければ、大芸術家のミロであっても容赦なく批判する、という藤枝さんの姿勢が、まさにフォーマリズム批評の良質な点を私たちに示しているのだと思います。
さて、ここで前々回の「250.私の好きな画家ゴーキー、そしてゴダール追悼」を、ちょっと振り返ってみたいと思います。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/8f580703568923d776d4c9677cc09244
私がこの文章で考察したことの一つに、ロベルト・マッタ( Roberto Antonio Sebastián Matta Echaurren、1911 - 2002)さんとゴーキーさんとの絵画空間の構造的な違いがあります。表面的には、茫漠とした空間にオートマティックに描かれた自由な形が漂うという画面が共通しているように見えるのですが、ゴーキーさんの絵画空間には平面的な「張り」がありましたが、マッタさんの絵画空間は古典的なイリュージョンに過ぎない、と私は評価しました。この差異はいったいどこから生じたのでしょうか?
私は久しぶりに藤枝晃雄さんの文章を読んで、これはミロさんの絵画からの影響であったのかもしれない、と思いました。
ゴーキーさんは、マッタさんからは自由な空間形成のイメージを、ミロさんからは地の空間の作り方を、それぞれの絵画からいいとこ取りをしたのかもしれません。その絵画は、同僚のデ・クーニング(Willem de Kooning, 1904 - 1997)さんが「ものがよく見える魔力を持った人」と形容したゴーキーさんでないと出来ない離れ技で出来上がっていたのです。
そして阿部さんの絵画は、ミロさんやゴーキーさんと同じ質を獲得しつつあるのかもしれません。今回の展覧会の作品を見ないと確信的なことは言えませんが、前に見せていただいた作品展ではそのように感じましたし、そのことを私は以前のblogに書きました。
今回のように、作品としてはヴァリエーションがありながら、画面の位置が彼の行為を感受させるのに適したものばかりが揃ってみると、彼の絵画との交感の様子がひしひしと伝わってきて、興味が尽きないのです。
(117.『阿部 隆 新作展』(トキ・アートスペース)から絵画について考える)
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/9882421ab342ff02ce6c9a19b0f6fe0f
この時に、「画面の位置」と書いたものが、今回、話題にしている「絵画空間の張り」にあたるものです。なかなか言葉にするのが難しい感覚ですが、今回はその文章化を試みてみました。まだまだ道半ばですので、折を見てまた書いてみましょう。
もしもミロさんやゴーキーさんの絵画を見て、その「絵画空間の張り」のようなものを皆さんと共有しながら話ができたら、こんなに楽しいことはないでしょう。そんな時間を求めて、阿部さんの個展に伺うことにします。