平らな深み、緩やかな時間

261.新しい実在論について、岩内章太郎を読む

このところ、岩内章太郎さんという哲学者の本を手がかりに、新しい哲学について勉強してきました。そろそろ内容をまとめて、今の哲学がどのように私たちの創作活動に関わっていくのか、考えておきたいと思います。

 

今回は、岩内さんの『<普遍性>をつくる哲学』(2021)を読むつもりですが、それと同時に前著『新しい哲学の教科書』(2019)も、一緒に読んでいきましょう。私が見た限りでは、これらの著作は連続性があって、続けて考察した方が岩内さんの思索の展開がよくわかると思うのです。

例えば、この二つの著書の目次を並べてみます。

 

『新しい哲学の教科書』

プロローグ 「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」

第I章 偶然性に抵抗する──カンタン・メイヤスー

第II章 人間からオブジェクトへ──グレアム・ハーマン

第III章 普遍性を奪還する──チャールズ・テイラーとヒューバート・ドレイファス

第IV章 新しい実在論=現実主義──マルクス・ガブリエル

エピローグ メランコリストの冒険

 

『<普遍性>をつくる哲学』

 現代の普遍論争

第一章 新しい実在論の登場――普遍性は実在する

第二章 構築主義の帰結――普遍性を批判する

第三章 現象学の原理――普遍認識の条件

第四章 現象学的言語ゲーム――普遍性を創出する

終章 もう一度、自由を選ぶ

 

これを見ると、『新しい哲学の教科書』の最後が「新しい実在論」で、次の『<普遍性>をつくる哲学』の始まりがやはり「新しい実存論」であることがわかります。そして各章で取り上げられている哲学者を見ていくと、次のようになります。

 

カンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux, 1967 - )

グレアム・ハーマン(Graham Harman、1968 - )

チャールズ・マーグレイヴ・テイラー(Charles Margrave Taylor、1931 - )

ヒューバート・ドレイファス(Hubert Lederer Dreyfus, 1929 -2017)

 

マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )

 

ケネス・J・ガーゲン (Kenneth J. Gergen、1935 - )

エトムント・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl 、1859 - 1938)

ヴィトゲンシュタイン( Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889 - 1951)

 

単純には言えませんがあえて大雑把に言えば、両方の著書で大きく取り上げられている哲学者、マルクス・ガブリエルを折り返し地点にして、前著は最新の哲学へと歩みを進め、後著は現象学へと遡行しているように見えます。

これはどういうことでしょうか?岩内さんはポストモダニズムの時代の後で、再び実在論が注目されている現在の状況にシンパシーを感じていて、それを著したのが『新しい哲学の教科書』です。しかし岩内さんは、この新しい実在論のすべてに納得しているわけではないことを、折に触れて書かれていました。2年後に『<普遍性>をつくる哲学』を著すにあたり、その新しい実在論への微妙な違和感を考察していった結果、岩内さんはポストモダニズム以前の現象学へと遡ることになったのです。

この『新しい哲学の教科書』、『<普遍性>をつくる哲学』はともに専門的な哲学書ではなくて、一般向けのわかりやすい体裁で書かれています。とはいえ、この近代から現代の思想を視野に入れた壮大な流れをつかむことは大仕事です。素人の私の手に余ることですが、これらの思想が私たちの興味の対象である芸術表現にどう関わるのか、そして私たち自身がどのような考え方をベースにして表現活動を続けたら良いのか、ということついて、大いに気になるところです。ですから、岩内さんの言わんとしていることを、私なりに解釈してみることにしたのです。

ここから先は出来の悪い哲学科の学生のような、要領を得ない文章になるかもしれませんが、よかったらおつきあいください。

 

まず、岩内さんのような若い哲学者が「実在論」を論じるようになった時代背景について確認しておきましょう。『新しい哲学の教科書』の序文のところで、岩内さんはここまでの時代の思想状況について次のように書いています。

 

大局的な見地で哲学の歴史を眺めるなら、現代実在論は20世紀後半から人文学を席巻したポストモダン思想を超克する試みだと言える。ポストモダン思想は徹底した相対主義によって、しばらくのあいだ西洋の思潮を先導してきた。そのポストモダン思想の相対主義的ラディカリズムに対抗するため、21世紀になってフランス、イギリス、イタリア、ドイツ、アメリカ、カナダ、日本などで同時多発的に「実在論」のもとに哲学者が結集した。

(『新しい哲学の教科書』「はじめに」岩内章太郎)

 

このあたりの状況については、私の感想を含めてもう少し丁寧に、以前のblogで書きましたので、よかったら参照してください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/f932f89ba0a4abd26643e9cae147a539

ここで「ポストモダン思想」と呼ばれているものの代表的なものは、構造主義の思想でしょう。構造主義の代表的な思想家としてはレヴィ=ストロース、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルトなどが挙げられますが、彼らは世界のさまざまな事象についてその構造を明らかにすることで、西洋思想を相対化しました。それは西欧の思想を客観視した点で健全な試みだったと言えますが、それを曲解して「何をやっても同じじゃないか」というニヒリズムを産んでしまったことも確かです。そのニヒリズムの悪しき例の一つとして、絵画におけるポストモダンの潮流がありました。

その中でも、ちょっと変わった事例としてジュリアン・シュナーベル(Julian Schnabel、1951 - )という画家に触れてみましょう。彼はアメリカ合衆国の映画監督ですが、芸術の世界にデビューした時には、新表現主義絵画(ニュー・ペインティング)のスターとして登場しました。

https://www.julianschnabel.com/paintings/plate-paintings-items/st-francis-in-ecstasy

彼は陶器の破片を画面に貼り付けたことで有名になりましたが、それを除くと物語的なモチーフをあまり上手ではない描写で描いた表現主義の画家であると言えます。それまでの現代美術は、コンセプチュアル・アートやミニマル・アートなどの理念的で禁欲的な作品が最先端のものだと思われていました。そのなかで稚拙に見える描写と旧套的な物語のモチーフと、それにオブジェやコラージュといった使い古された手法と・・・、あらゆるナンセンスなものが詰め込まれた絵画が、新奇な表現としてもてはやされたのです。

私はシュナーベルさんの作品を何度か見ましたが、表現力という点では確かに長けた人だなあ、と思いました。彼の作品は、類似の作品にはない暴力的な荒々しさに満ちていましたが、暴力的な人がそういう作品を描けるわけではないのです。暴力性を演じるプロデュースの能力が、シュナーベルさんにはあったのだと思います。後に彼が映画監督として大成して、大きな賞を受賞したというニュースを聞いて私は納得しました。ともあれ、彼の絵画に象徴される折衷主義が、美術の世界におけるポストモダン的なニヒリズムのあらわれだったのだと思います。

そういう状況下で、ちゃんと絵を描きたいなあ、と思っている私のような人間にとっては、そんなニヒリズムに陥るわけにはいきません。同じように哲学や思想の分野においても、もっと確かなものはないのか、と考えた人たちがいて、その動機が新しい実在論として現れたのだと思います。岩内さんの二冊の本は、そんな哲学者たちを紹介した本なのです。

 

それでは、具体的な本の内容に入ります。

まず、『新しい哲学の教科書』の第Ⅰ章のメイヤスーさんと第Ⅱ章のハーマンさんですが、彼らは思弁的実在論( speculative realism)という現代哲学の運動に関わった人たちです。そしてメイヤスーさんは「偶然性」に着目した人でした。

 

生は絶対的な偶然性に絶えずさらされている。しかしだからこそ、そこに希望もあるのではないか。偶然の気まぐれは私たちを困惑させるが、徹底的に考えることで偶然性を我がものとし、それを飼い慣らす可能性はたしかに存在する。

(『新しい哲学の教科書』「第Ⅰ章 偶然性に抵抗する」岩内章太郎)

 

これは以前のblogに引用した文章になりますが、私たちは偶然に左右される「存在」であることを認めた上で、それでも存在する意味がある、ということを言っています。なんだか当たり前のことを言っているようですが、哲学の世界で何かが存在する意味がある、と言いたいときには、そこに必然的な理由が必要です。それが論理的に説明できなければ、「神」様を持ち出してでも必然的な理由を捻出します。しかしその「神」が死んだとするならば、偶然に起るできごとには必然的な意味などありませんから、私たちには存在する意味がない、ということになってしまいます。メイヤスーさんは、それでも徹底的に考えれば、私たちが存在する意味を見出せるはずだ、と考えたのです。

 

それでは、次のハーマンさんですが、この人はものの存在を考えるときに、つねに人間が中心になってしまっていることを指摘した人です。ものとものとの関係について、哲学は十分に考えてこなかった、とハーマンさんは考えます。これも以前のblogで書いたことなので、端折って書きますが、デカルトの「我思う、故に我あり」という有名な哲学の原理は「私が思う」ということを根本に据えています。私の思いが消えてしまうと、全世界が消えてしまいそうですが、現実にはそうでないことを私たちは知っています。

このハーマンさんについて岩内さんが説明している第Ⅱ章を読むと、哲学の世界ではいかに人間中心でものごとを考えてきたのか、ということを痛感します。そしてものとものとが相互に関連しあって存在することを語ることが、哲学の歴史の中ではとても大変なことなのだな、と実感しました。人間中心であった哲学ですが、さまざまな事象が構造主義者によって説明されたときに、それまでの実存的な思考を放棄したい、というニヒリズムに襲われました。そこでハーマンさんが考えたことは、人間中心の認識から離れても、ものの存在を考え抜くことで実存的な思考が可能なのだ、ということでした。なかなか斬新な視点なので、興味が湧きますね。

 

次の第Ⅲ章で取り上げられているのがテイラーさんとドレイファスさんです。すでに哲学者として一家を成していた二人が、力を合わせて一緒に本を書きました。『実在論を立て直す』という共著ですが、日本でも法政大学出版局から翻訳されて出版されています。彼らは「多元的実在論」という考え方を提示しています。実は、この「多元的実在論」は、本来なら「実在論」と対立するはずの「構築主義」の考え方と似ているのです。どういうことでしょうか?

「多元的実在論」も「構築主義」も、人間が直接、ものや事象に触れるのではなく、それぞれの人がそれぞれの人が持っている、あるいは所属している文化、社会などの考え方を通じてそれらに触れている、と考えます。そして構築主義では、対象や現象の実体がなくても、すでに成立している認識があれば、それを現実として認識する、ということに注目します。例えば、地球は丸い、という事実は誰でも知っていますが、実際に地球を見たのは宇宙飛行士だけです。しかし私たちは文化的な知見として、地球は丸い、と知っていて、それが現実だと認識するのです。「構築主義」では、この事例のように人間の認識には直接性や客観性は必要ない、と考えます。人々の共有した認識だけで世界は構築されている、と考えるのです。いうまでもなく、この「構築主義」の考え方は「実在論」とは相容れないものですが、それだけに「実在論」と大きく関わっている、と言えるのです。

テイラーさんとドレイファスさんの「多元的実在論」では、そのように文化という触手を使って人間がものや事象と接することを否定しません。それに加えて科学的な知見や、直接的な認識も排除しないのです。この「構築主義」と「多元的実在論」の違いについて、岩内さんはこうまとめています。

 

「観念論」と「多元主義」が一緒になったものが「構築主義」だとすれば、「多元的実在論」は「実在論」と「多元主義」が一緒になったものである。自然科学が到達した〈どこでもないところからの眺め〉を肯定しつつ、文化的な多様性も尊重すること。それらを両立させるのが「多元的で頑強な実在論」なのだ。

(『新しい哲学の教科書』「第Ⅲ章 普遍性を奪還する」岩内章太郎)

 

岩内さんは、この「多元的実在論」が重要なのは、人間にとって極めて重要な「普遍性」を奪還したことだ、と考えます。「構築主義」ではいろんな文化、いろんな認識方法が共存しているだけなので、なんでもありの状態になり、ニヒリズムに陥ってしまうのです。しかし「多元的実在論」では、「実在論」の認識を否定しないので、人間にとって普遍的な認識にも扉を開いているのです。

例えば「平和の大切さ」や「差別の否定」などは、人間にとって譲れない価値観です。「多元的実在論」には、このような価値観を普遍的なものとして共有できる可能性があります。現実にはさまざまな困難があることは確かですが、そうは言ってもニヒリズムをそのまま追認するような思想では、思想と呼ぶだけの価値がないでしょう。

その一方で、盲目的に普遍性ばかりを求めていると、全体主義に陥る危険性があります。全体主義の中でものの本質を求めていくと、それは悪しき本質主義に陥り、本質的ではないものを排除するために暴力的な行為が誘発されることもあります。そうならないためには、絶えず他者に対して思想の扉が開かれている必要があります。岩内さんは、これから求められる普遍性は、「絶えず未来の他者の検証に開かれた間主観的普遍性」なのだと書いて、この章を閉じています。

 

さて、ここで『新しい哲学の教科書』と『<普遍性>をつくる哲学』の折り返し地点に来て、マルクス・ガブリエルの「新実存主義」が登場します。ガブリエルさんについては、前回のblogの後半、もしくは私の以前のblogを参照してください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/f2a61fa9d7a2aba8c48afecce3fa03a7

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/28606636b896541442b3705c47a7f645

ここでは、岩内さんがどのようにガブリエルさんを評価し、その思想を乗り越えようとしているのか、という点に絞って本を読んでいきたいと思います。

 

そこで、ガブリエルさんへの批判から書き始められている『<普遍性>とつくる哲学』の次の一節を読んでいただきたいと思います。

 

ガブリエルは、認識論の限界を指摘して、すべての認識は特定のコンテクストにあることを受け入れる。別言すれば、認識の厳密な基礎づけを断念する。しかし、ガブリエルが優れているのは、そこで簡単に普遍性を手放さないことである。認識の厳密な基礎づけが不可能になったからといって、物自体を認識できないということにはならない。物自体がさまざまな仕方で現れていると考えればよいからだ。このようにして、実在論と多元主義の長所を併せ持つ意味の存在論は、伝統的形而上学と構築主義の先に出るための道具立てを整える。

だが、私の見るところ、ガブリエルは近代認識論の達成の半分しか受け取っていない。つまり、絶対に正しい認識は存在しない。これだけである。本当は続けてこう言うべきなのだ。にもかかわらず、<私>は<私>の認識の根拠を確かめることができて、特定の領域においては、それぞれの<私>が自らの認識の根拠を少しずつ確かめながら、他者との相互主観的な確証に至るときに、やっと創出されるものなのである。そのようにして、ようやく<私>は、子どもの頃から徐々に身につけた世界確信のありようを批判的に考え、それを修正していくことができるようになる。

(『<普遍性>をつくる哲学』「第一章 新しい実在論の登場」岩内章太郎)

 

岩内さんは、先の『新しい哲学の教科書』では、「複数の意味の場」から出発しようと宣言したガブリエルさんの新たな「実在論」の価値を認めました。しかし、そこから先へと進もうとした時に、岩内さんはその「意味の場」から私という存在の根拠を確かめなくてはならない、と書いています。ガブリエルさんの「新実存主義」は、そこまで至っていないと言うのです。

そのことを確かめるために、冒頭でも書いたように岩内さんは、『新しい哲学の教科書』とは逆に『<普遍性>をつくる哲学』では、最新の実在論から思想の流れを遡って、認識論を再検証していくことにしたのです。

 

「第二章 構築主義の帰結」では、『新しい哲学の教科書』では批判の対象であった「構築主義」が再検証されていきます。次の二つの説明を読んでみてください。ガブリエルさんの「新実存主義」と似ているところと、実存主義や実在論と相容れないところと、その両面が読み取れると思います。

 

マルクス・ガブリエルは、世界は存在しない、と述べたが、ネルソン・グッドマン(1906 - 98)によると、世界の「ヴァージョンは複数ある。唯一絶対の世界は存在せず、世界の様式は無数に存在するというのである。したがって、特定の世界像を優遇することはできない。

(『<普遍性>をつくる哲学』「第二章 構築主義の帰結」岩内章太郎)

 

ネオプラグマティズムを主導したリチャード・ローティ(1931 - 2007)の本質主義批判を見ていこう。

ローティによると、哲学で語られる「実在」や「本質」は、特定の言語的実践においてのみその意味を獲得するのだから、世界それ自体の構造を写し取ったものではない。「一切が社会的構築であるということは、人間の言語的実践は他の社会的実践と緊密に結合しているので、自然についての記述も人間自身についての記述もつねに社会的必要性の関数となっているということである」(ローティ2002、117頁)

すべての記述は特定の観点からなされる。どの観点が人間の役に立つかーこのような問いであれば、批判的に吟味して答えを得られるかもしれない。しかし、どれか一つの観点を特権化することはできない。世界の記述は社会的必要に相関する関数なのだから、それぞれの記述はいつか不要になれば廃れる。だから、ローティにしたがえば、「どこでもないところからの眺め」は存在しないことになる。

(『<普遍性>をつくる哲学』「第二章 構築主義の帰結」岩内章太郎)

 

このような「構築主義」は、「実在」や「本質」を否定するところから、ニヒリズムに陥る可能性があり、ガブリエルさんたちは、そうではない哲学を模索したのです。しかし「構築主義」が持っている多元的な世界観は、多くの現代思想家と共通するものです。そのため、それらの思想家は「構築主義」との関連で語られることがあるのです。しかし、そもそも彼らは、自分自身を「構築主義」として認識していたのでしょうか?

その中で、私はミシェル・フーコー(Michel Foucault 、1926 - 1984)のことが気になっていました。フーコーさんは、私の記憶では自分自身がポストモダン的な「構造主義者」であることを否定していましたし、「構築主義」に含まれているとも思っていないでしょう。しかしフーコーさんの「知の考古学」と呼ばれる研究が、各時代におけるエピステーメー(ある時代と社会における知の枠組み)を明らかにしたことで、そう考えられたのではないかと私は考えます。確かにフーコーさんの思想は、それぞれの時代、社会にはそれぞれのエピステーメーがあったことを提示しましたが、それは現代の思想を相対化し、批判するためのものであり、現状を肯定するためのものではなかったはずです。岩内さんはこの本の中でフーコーさんの『監獄の誕生』という著作を取り上げて、その内容を次のように要約しています。

 

認識はつねにすでに権力によって媒介されていて、社会で一般化もしくは正当化されている尺度にも、規律・訓練的な権力が影響を与えている。しかし、私たちはその事実に気づかないまま、与えられた自由を享受する。他者の自由を侵害する狂人や罪人ー自由な主体を確立できず、主体の自由を尊重できない者ーが監禁されることには正当な理由がある。彼らには科学(知)に裏打ちされたプログラムに基づいて、治療を受ける義務がある。こういう信念を自然な形で持てるように、権力は人びとを主体化=従属化するのである。だとすれば、主体的な行為がじつは権力の強化に奉仕している、という事態もありうる。

(『<普遍性>をつくる哲学』「第二章 構築主義の帰結」岩内章太郎)

 

このような痛烈な現状批判に対して、ニヒリズムしか感受できないようなら思想について語らない方が良いでしょう。だから私たちはどうすべきなのか、という問いかけが次にくるはずなのです。したがってフーコーさんは、この考え方もあり、あれもあり、とする狭義の構築主義には含まれないと私は考えます。ただし、このようなフーコーさんの思想の現状に対する批判的な視線は、構築主義的な考え方の動機になっているでしょう。

それから岩内さんは、この章の中でエドワード・サイード(Edward Wadie Said, 1935 - 2003)の『オリエンタリズム』を取り上げています。この『オリエンタリズム』は、西洋中心主義に対する痛烈な批判であって、西欧の「普遍性」を求める思想がマイノリティの存在と必ず衝突することを示していました。岩内さんによれば、その一方でサイードさんはマイノリティの側にも自己批判の原則を貫徹することを求めています。そこにはニヒリズムとは無縁の、いずれの思想にもありうべき存在意義が求められていました。しかし現代思想の流れがサイードさんから汲み取ったものはそこまで至っていないようで、結果的にサイードさんの構築主義的な側面がクローズアップされてしまうのです。

このように、構築主義とは言っても、狭義に定義すれば批判することも容易なのかもしれませんが、広義にその動機となった思想まで視野に入れると、もっと世界の深いところまで考えなくてはならないようです。その上で岩内さんは、この著書の中で改めて「新しい実在論は構築主義を乗り越えているのか」という問いを発しています。例えばガブリエルさんについては、次のように批判しています。

 

新しい実在論は構築主義の動機を十分に汲みとっているだろうか。ガブリエルは、構築主義の多元性を上手にインストールすることで、見かけ上は文化的多様性を尊重している。だが、私の見るところ、新しい実在論は、マジョリティが押し付けてくる「当たり前」から外れてしまった人びとの状況を、実質的には考慮できていない。ガブリエルのモデルでは、マジョリティが見ている意味の場とマイノリティが見ている意味の場は存在論的に対等である、という事実以上のことを言えず、さらには、新しい道徳的実在論は特定の道徳観の実在を前提する議論になっているからである。

(『<普遍性>をつくる哲学』「第二章 構築主義の帰結」岩内章太郎)

 

私には、岩内さんのこの批判がどの程度妥当なものであるのか、判断できません。ガブリエルさんの思想が「外れてしまった人びと」を考慮できていない、と私には断言できません。しかし人間の歴史がつねに前の時代の認識を乗り越えてきたとは限りません。『新しい哲学の教科書』を読んだ限りでは、「新しい実在論」が「構築主義」にはなかった「普遍性」を志向することへの糸口を持ち得ているようでしたが、どうやらそれを手放しで肯定できるものではないようです。

そうして岩内さんの検証は、さらに思想を遡って現象学へと至ります。岩内さんはここまで思考してきて、なぜ現象学へと遡行するのでしょうか?

それは新しい「実在論」が人間主体の「認識」も問題から離れてしまうことで成立した思想だからです。これまで見てきたように、一人の人間が対象を認識することをあまりに重視してしまうと、人間中心の認識に陥ってしまいます。それではまずいと考えた新しい「実在論」の人たちは、人間の意志とはかけ離れた「偶然性」を受け入れ、「ものとものとの関係性」に注目し、「多元的な認識」を思想の中に位置付けてきました。その辺りの事情について、岩内さんは次のようにまとめています。ちょっと長くなりますが、この本の重要なところなので引用してみます。

 

実在論の立場では、存在の本質は認識の可能性の条件とは別のところにある。近代哲学者がそうしたように、認識の可能性の条件を経由すると、結局のところ、存在は認識との相関性でしか語られない。そして、その相関性は相対性以外のなにものでもない。これが現代実在論の言い分である。

しかしながら、現代実在論は、それがまさに認識論から離れてしまったがゆえに、深刻な信念対立に帰着した。思考から独立した実在を思考することができるのか、実在に近づいていくための方法とは何か。これらの問いに対して、さまざまな答えが乱立している状況である。認識問題を最後まで解かずに、実在論者はそこから立ち去ってしまったのだ。

さて、現象学の主要な課題の一つは、認識の謎を解明することだった。その原理は「現象学的還元」と呼ばれる。さしあたり、ここで形式的に述べておくと、現象学的還元は存在を意識との相関性において捉えるための態度変更を意味するが、そのとき現象学者は、意識に現れてくるものを単に記述するだけではなく、「本質直観」という方法を使って、意識体験の本質構造を探究する。つまり、意識作用とそれに相関する意識対象の本質を取りだす、ということである。これは志向的分析(意識作用と意識対象の相関性を現象学的に分析すること)と呼ばれる。

認識問題と現象学的還元の関係を深く理解すれば、「普遍認識」の条件が見えてくる。逆に、これがうまくつかめないと、現象学の態度はよほど不自然に思われるばかりか、すべての存在を意識の確信として捉えるという発想は、<私>は<私>の世界に閉じ込められている(=独我論)という印象を与えかねない。ひとまずここでは、現象学的還元の根本動機は、「主客一致の認識問題」の本質を明らかにして、普遍学としての哲学を再建することである、とだけ言っておこう。

(『<普遍性>をつくる哲学』「第三章 現象学の原理」岩内章太郎)

 

フッサールに端を発する現象学が生まれてから、一世紀が過ぎようとしている間に、例えば「現象学的還元」という方法に対し、さまざまな批判がありました。また、フッサールの弟子であったハイデガーが、フッサールと袂を分かって独自の思想を打ち立て、それが哲学の世界に大きな影響を与えたのも事実です。それに岩内さんが上記の文章の終わりのあたりで書いているように、フッサールの思想は<私>という檻を作ってしまう危険性があります。本質を追い求める思想は悪しき本質主義に陥る可能性がありますし、普遍性を追求することが人間の自由を奪うことになりかねない、それらは全体主義とも結びつきやすいのです。

そういった課題を熟知した上で、岩内さんは「普遍学としての哲学を再建する」と言っているのです。そこで、この後の章で岩内さんが注目したのがウィトゲンシュタインの言語論です。

 

現象学は人間と社会の本質を探究する。この営み全体を、複数の超越論的主観性による言語ゲーム、すなわち「現象学的言語ゲーム」と考えてみよう。「言語ゲーム」はルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(一八八九─一九五一)に由来する概念だが、言語ゲームという視座を持つことで、現象学はさらに遠くまで、哲学としての射程を伸ばすことができる。 言語ゲーム論を現象学に援用すれば、本質は実体として存在するものではなく、間主観的な信憑構造として生成する、と言えるようになる。さらには、意味を媒介にしたコミュニケーションによって、直観のありかたが変容する事態を分析することも可能になるだろう。とりわけ、意味と価値に関係する領域において普遍性を新たに創出していこうとする場合には、それぞれの直観の内実が変わる可能性が重要になる。

ところで、現象学的還元は主客一致の認識問題を解決するために要請された態度変更だが、そこから始まる現象学的言語ゲームは、自然の論理である「力のゲーム」に拮抗している。だから、言語ゲームを断念することは、力のゲームを容認することに等しい。

(『<普遍性>をつくる哲学』「現象学的言語ゲーム」岩内章太郎)

 

話がややこしくなってきましたが、私なりに解釈してみましょう。

フッサールの現象学的還元には、さまざまな批判や思想的な危険性の指摘がありました。しかし、その方法論にウィトゲンシュタインの言語ゲームの考え方を援用すれば、現象学的還元が抱えていたさまざまな問題を克服できそうだ、と岩内さんは言っているのです。現象学は生の現実に触れようとする哲学ですが、それゆえに起こるさまざまな問題点を、言語を媒介することでそれらが「間主観的」な構造を持ち、そのことによって乗り越えられるのです。

私の思い込みでは、フッサールの現象学は「生な世界」に触れる方法だからこそ画期的であったはずです。しかし、フッサール以降のさまざまな思想の経験から、私たちはそこだけにこだわるのではなく、言語による媒介を認めることで新たな可能性が広がるという話です。

 

やれやれ、ちょっと話が浮ついてきたでしょうか?それも当たり前の話です。

私はウィトゲンシュタインの言語学に興味がありつつも、これが現在の私の表現のどこに繋がるのか皆目見当がつかず、ここまで放置してきてしまった、という苦い思いがあります。それにフッサールも、現象学はその後のメルロ=ポンティやハイデガーによって発展してきたという通説に乗っかって、あえて素通りしてきてしまいました。それがここに来て、彼らがリアルな勉強の対象として現れてきました。彼らの難解な著書を考えると、この事態を喜んでいいのか、嘆いていいのかわかりませんが、とにかく現代思想を遡行してみる必要がありそうです。そこに新しい実在論と、近代哲学の認識論との合流地点があるのだとしたら、とても興味深い話だと思いませんか?時代を遡行することが最新の哲学の取得である、という倒錯した、そして面白そうな事態になってきました。

 

ということで、ちょっと結論らしきものが出ないままに、今回は新しい実在論を知る過程の記録ということになってしまいました。中途半端ではありますが、希望のようなものもあります。というのも、現在、私が作品を制作していて、今までの自分の語彙ではうまく言葉にならない画面との接触感が、この新しい実在論の学びとなんとなくリンクするような気がするのです。例えば、私は現実の世界と接触している感覚があるものの、やはりそれは人間的なものなのではないか、というような予感があります。岩内さんはそこに言語という媒体を考えているのでしょうが、私にとってはそれが絵画という媒体なのです。そのような概念の置換が可能なのかどうかもわかりませんが、おそらくこの予感は当たっています。

芸術家は、とかく自分こそは「生な世界」に触れている、と思い込むものですが、私が知っている多くの画家の作品は、それが思い込みに過ぎないことを証明しています。そのような愚かしい堂々巡りから一歩外に出るためには、今回取り上げたような思想的なサポートが必要です。

それにしても、もっと正確に、そしてもっとわかりやすく噛み砕いて!ということを目標に、もう少しこの問題を掘り下げてみることにします。なんだか、とてもワクワクしています。

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