平らな深み、緩やかな時間

260.村上RADIO『山下洋輔再乱入ライブ』から考える

今回も、芸術の話と新しい哲学を絡めながら考察していきます。私たちの興味のある分野と難しい哲学がどのようにリンクするのか、それがわかるとふだん縁のないと思っている思想書も面白く読めるはずです。そして感性と思考が切磋琢磨して進んでいけば、漠然と歩き続けるよりも実りの多い道が待っているはずです。

 

というわけで、このところ映画や美術展と、新しい哲学とを並行して読み解いてきました。

前回取り上げた『李禹煥』回顧展と『 Do it! わたしの日常が美術になる』の資料展示の中心となるのは、1970年代という時代です。この時代は、表現領域の枠組みを広げようとする動きが活発だったのですが、それが思想の枠組みを広げようとしている最近の新しい哲学と、どこかでリンクするのではないかと考えてみたのでした。

そんなことを考えていたら、少し前にラジオで『山下洋輔再乱入ライブ』という番組が放送されていたことを思い出しました。これは1ヶ月に一回、作家の村上春樹さんが出演しているラジオ番組なのですが、そのうちの9月25日に放送されたものが、『山下洋輔再乱入ライブ』という内容だったのです。

この『山下洋輔再乱入ライブ』という企画は、1969年の学園紛争の時に早稲田大学で山下洋輔さんがライブを行った、という出来事を現在の早稲田大学で再演しよう、というものです。この番組の音楽抜きの内容が、番組ホームページで読むことができます。

https://www.tfm.co.jp/murakamiradio/

これは偶然にも、『 Do it! わたしの日常が美術になる』の内容とほぼ同じ時期、もしくはその直前の時期の出来事になります。時代の雰囲気が熱気を帯びていた頃ですが、それは全世界的にそういう時期だったようです。このときのことについて、村上春樹さんがラジオで次のように語っていました。

 

こんばんは、村上春樹です。今日は2022年7月12日(火)におこなわれた「山下洋輔再乱入ライブ」の模様をダイジェストでオンエアします。

まず1曲聴いてもらいました。山下洋輔トリオの演奏で「木喰(もくじき)」という曲でした。

すごい迫力ですよね、僕は目の前で聴いていて、ぶっとびました。50数年たってもパワーがまったく落ちてないんです。本当に奇跡のようでした。素晴らしかったです。

1969年7月、僕が早稲田大学の学生だったころに、山下洋輔さんのトリオが早稲田大学の当時の4号館でフリージャズのライブをおこないました。当時は学生運動が激しくて、党派と党派が対立するいわゆる内ゲバみたいなのがあったんですけど、 そのとき敵対(てきたい)する党派が占拠する4号館にグランドピアノを運び込んで、山下トリオの「乱入ライブ」をやっちまえということになったんです。いわば音楽の殴り込みみたいなものですね。

50年あまりを経て、そのライブを再現したらどうなるだろうと山下洋輔さんに話したら、「やってみようじゃないか」ということになりました。 ライブの前に当時の時代背景とか、フリージャズの話を少ししました。ジャズミュージシャンの菊地成孔(きくち・なるよし)さん、写真家の都築響一さん。それから小説家の小川哲(おがわ・さとし)さんと坂本美雨さんにも加わってもらいました。

(『村上RADIO』9月25日放送分より)

 

ちょっと説明が必要でしょうか?もう一度整理しておきましょう。

山下さんが早稲田大学4号館でライブを行ったのは1969年7月です。

https://youtu.be/UJhywjV25KM

そしてその53年後の2022年7月に同じ早稲田大学の国際文学館(村上春樹ライブラリー)で行われたのが『山下洋輔再乱入ライブ』だったのです。この国際文学館というのは、かつての4号館の跡地に建て直されたものだそうです。さらに、そのライブのダイジェストを聞きながら、ラジオ番組で振り返ったのが、この9月25日の放送でした。

それでは、山下洋輔さんがどんなことを考えて演奏していたのか、次の番組内での話を読んでみてください。

 

村上;初歩的な質問をしていいですか。小節の数って数えてます?

山下;そんなものはありません(会場笑)。そういうものが嫌でフリージャズをやっているわけです。オーソドックスな正当的なジャズは、小節とコード進行を守ったうえでアドリブをする。それがどれくらいうまいかを聴く人は見ています。

(『村上RADIO』9月25日放送分より)

 

村上;ドラムソロからピアノソロに移るときの打ち合わせはないんですね。合図もなしで?

山下;僕が、とにかく音楽的でも何でも、とにかく何かをつかんで、到達して、「もういいや」「やったー」となれば、一緒にやっている演奏者は「あいつはイったな」とわかる。それで交代する。顔つきで「おれは終わるよ」と。それは誰だってわかる。

村上;フリージャズって生で聴いたほうが面白いですね。昔、ジャズ喫茶で難しい顔して一所懸命に聴いてたけど、疲れるんですよ。

山下;フリージャズのほうが高級な音楽という誤解があってね。菊地くんがさっき言っていたけど、最後の究極の難しい良い形がフリージャズだというのは、ちょっと違うんです。

村上;山下さんのフリージャズは物語性がありますよね。セシル・テイラーは解析的ですが、山下さんのは話が進んでいくようで楽しいです。

(『村上RADIO』9月25日放送分より)

 

私のような素人は、ジャズ・プレイヤーがどれくらいの決まりごとの中で演奏しているのか、よくわかりません。フリージャズが生まれる前の、ビバップと呼ばれた頃のモダンジャズは、小節やコード進行、リズムがある程度きまっていて、そこでの鋭いアドリブ演奏を競い合うものでした。チャーリー・パーカー(Charlie Parker Jr. 、1920 - 1955)やディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie、1917 - 1993)のアドリブ演奏を聴くと、まるでスポーツ選手のようなスピード感を感じます。

https://youtu.be/ryNtmkfeJk4

https://youtu.be/4PiKHAEcEvM

そのアドリブ演奏にジャズ以外の音楽の音階を活用したのが、マイルス・デイヴィス(Miles Dewey Davis III、1926 - 1991)でした。彼が試行し、完成したと言われるジャズをモードジャズと言います。

https://youtu.be/zqNTltOGh5c

マイルスがかっこいいですね。神妙な面持ちでコルトレーンが出番を待っていましたが、彼が吹き出すとマイルスが後で他のメンバーとタバコを吸っているのが面白いです。当時はふだんのステージでもこうだったのでしょうか?

そしてさらに自由な表現を求めてオーネット・コールマン(Ornette Coleman、1930 - 2015)らが試行したジャズをフリージャズと言います。

https://youtu.be/d0HB8ybKJzo

ちょっと横道にそれますが、この動画を見てびっくり、ギターを弾いているのはジェームス・ブラッド・ウルマーさんですね!私は名古屋のライブハウスで彼の演奏を聴きました。アドリブが佳境に入ると、異次元の世界に入ったように感じたのを覚えています。彼を見出したのはオーネットですから、二人が共演していて当たり前ですが、動画が残っているのですね。

さて、山下さんもアメリカのジャズの影響を受けて、日本で独自にフリージャズを模索したのですが、その演奏がとても自由なので、どうしてトリオでの合奏が可能なのか、よくわかりません。

村上さんが小節の数を気にしたのは、一見アドリブが自由に見える演奏でも、みんなで揃うタイミングをあらかじめ決めておいて、お互いに帰る場所と時間を示し合わせておくのが、それまでのジャズのやり方だからです。その場合は、ある程度の楽譜的な骨格があるということになります。しかし山下さんの答えは、それすらもない、すべてが互いの演奏を聞き合って決まるのだ、というのですからすごいですね。

私はジャズ・ギタリストで作曲家の大友良英さんのラジオ番組をよく聞くのですが、大友さんによれば、山下さんのフリージャズは本場のアメリカのフリージャズとは違うそうです。日本の中で、独特の進化を遂げた山下さんのジャズは、海外で高く評価され、その演奏は歓喜を持って迎えられたということです。それはどうしてなのでしょうか?もちろん、私にはそれがどうしてなのかわかりませんが、村上さんと山下さんの次のような会話にその秘密があるのかもしれません。この点については、もう少し後で考えることにしますが、とりあえずその会話を聞いてください。

 

村上;フリージャズって生で聴いたほうが面白いですね。昔、ジャズ喫茶で難しい顔して一所懸命に聴いてたけど、疲れるんですよ。

山下;フリージャズのほうが高級な音楽という誤解があってね。菊地くんがさっき言っていたけど、最後の究極の難しい良い形がフリージャズだというのは、ちょっと違うんです。

村上;山下さんのフリージャズは物語性がありますよね。セシル・テイラーは解析的ですが、山下さんのは話が進んでいくようで楽しいです。

(『村上RADIO』9月25日放送分より)

 

そうなんです。二人が話しているように、私が高校生の頃に立ち寄っていたジャズ喫茶は真っ暗で、だいたいフリージャズか、それに近い音楽がかかっていました。ブラック・コーヒーを注文して、目を瞑って音楽を聴くか、タバコを吸うか、難しそうな本でも読むか、そうでもしないとカッコがつかないような感じでした。今でも、そういう雰囲気でフリージャズばかりを聴かせる場所があるのでしょうか?

そんな時代の影響からか、私がジャズの王道であるはずのデューク・エリントン(Duke Ellington、1899 - 1974)をちゃんと聴いたのは、それから何年も経ってからでした。

https://youtu.be/r95flkZciJE

山下さんの言葉通り、「最後の究極の難しい良い形がフリージャズだ」という神話のようなものがあったと思います。だからエリントンはともかく、ルイ・アームストロング(Louis Armstrong、1901 - 1971)に至っては完全に古い音楽であって、年寄りのジャズファンが聴くだけの存在だと思っていた節があります。

https://youtu.be/l7N2wssse14

そんなふうに、ジャズという音楽は現代に近づくにつれて徐々にその表現領域を広げてきて、より自由に、より高い表現へと至ったのだ、というのが私がたまたま読んだジャズの入門書から得たイメージでした。今の私はそう思っていませんが、モダンジャズはモダニズム思想そのものだったのです。それはアメリカ型のモダニズム絵画がモダニズム思想と共に歩んできたことと、相似しているのかもしれません。さらにそれは、当時の若者の意識とリンクしていて、モダニズムの思想が学生運動の核となっていたことは間違いないでしょう。

ここで、前回から読み込んできた『新しい哲学の教科書』の、前半に書かれていたことを思い出してみましょう。現代の「実在論」の認識には、「広さ」と「高さ」を求める意識が働いていたことを、『新しい哲学の教科書』の著者の岩内さんから提示されていました。これはまさに、若者が社会制度の枠組みを壊して「広さ」を獲得しようしていたことに当たるでしょう。そして、モダンジャズを追究していた山下さんの音楽革新が、その世界観の中で「高さ」を希求していた、というふうに解釈できます。だから闘争中の学生たちにとっては山下さんが音楽の中でやっていたことこそ自分たちが求めているもので、その演奏を静かに聴き入ったのは当然のことであった、という実しやかな解釈が成り立ちます。

しかし、人間の心と身体はそんなふうにきれいに割り切って解釈できるものでしょうか?

前回、私は美術の世界において、ポストモダンと呼ばれる時代において、ずいぶんと現代美術と呼ばれるものは迷走した、と書きました。そして、李禹煥(リ・ウファン)さんや稲憲一郎さんが、その迷走の時代にあっても自分の芸術を追究し続けた、ということも書きました。彼らは「広さ」のあとで「高さ」をも追究してきたのだ、と解釈したのです。しかし、この解釈もある種の「実在論」の立場から考え得たことであって、必ずしも絶対的な解釈とは言えないようです。私はこの解釈を間違ったものだと思いませんし、私にとって共感できるものでもありますので、これはこれで良いのですが、強いて言えば、ちょっと堅い考え方なのかもしれません。私たちはもう一度、山下さんの言葉を思い出してみましょう。

「フリージャズのほうが高級な音楽という誤解があってね。菊地くんがさっき言っていたけど、最後の究極の難しい良い形がフリージャズだというのは、ちょっと違うんです。」

これはつまり、フリージャズは必ずしも「高さ」を象徴するような音楽ではない、と言っているのでしょう。しかし、それにも関わらず山下さんはフリージャズをいまだに演奏しているのです。もちろん、彼はいろんなジャンルの音楽を追究されているとは思いますが、彼はフリージャズが「究極の難しい良い形」ではない、と認識しているのです。それでも、彼はフリージャズを演奏し続けている・・・、これはとても興味深いことではないでしょうか?

この話を、『新しい哲学の教科書』の中に書かれていることに置き換えてみましょう。この本の終わりの方で、いよいよ新しい哲学を担う人として期待されているマルクス・ガブリエルさんが登場します。彼の世界観は、以前にもこのblogで確認した通りです。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/f2a61fa9d7a2aba8c48afecce3fa03a7

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/28606636b896541442b3705c47a7f645

彼にとって、この世界はさまざまな意味が存在する場所です。そのような場所を規定する言葉がないので、「世界は存在しない」とガブリエルさんは言います。そのガブリエルさんの考え方では「広さ」と言っても、一つの意味の「場」での広がりではなくて、いくつかの意味の「場」を横断するような「広さ」になるでしょう。しかし、それを「広さ」というべきでしょうか?

一方、「高さ」と言ってもガブリエルさんの学説の中では、一つの意味の場でのヒエラルキーを設定して、その高みを目指してもあまり意味がありません。それは一つの意味の「場」でしか通用しないことだからです。そのことを、岩内さんは次のようにまとめています。

 

だが、ガブリエルが広さの哲学的意義を強調しているかといえば、そうとは言えない、と私は考える。むしろ、民主主義とそれを支える概念の普遍性を前提にして、意味の場の複数性それ自体を最も重要なものとみなしているように思える。要するに、全体化しない意味の場が複数担保されているという状況そのものが肯定されている、ということだ。  

したがって、高さでも広さでもないとは、それらをまったく無視するのではなく、どの程度の高さと広さが可能なのかを抜本的に吟味することを意味するだろう。形而上学の高さは存在しない。民主主義の広さは存在する。要は、意味の場の複数性だけが存在する。こういう状況にあって、私たちはどう生きるのか。いや、私たちはどう生きうるのか?

(『新しい哲学の教科書』「第Ⅳ章 新しい実在論=現実主義」岩内章太郎)

 

なかなか難しいですね。

次回あたりで、この新しい実在論や新実存主義と言われる考え方と、日本の新進気鋭の思想家である岩内さんがどう向き合おうとしているのか、このblogでもまとめてみたいと思います。

しかし、今回は山下さんの「再乱入ライブ」から話が始まりましたから、山下さんの言葉から考察を進めてみましょう。山下さんの現在のフリージャズは、さまざまなモダンジャズの試みを経験した上で成り立っています。これは例えてみれば、さまざまな意味の「場」を想定したガブリエルさんの考え方を、山下さんは感覚的に身につけていると言えそうです。しかし山下さんが表現者として振る舞うときに、それらのさまざまな意味の「場」を百花繚乱的に並べてみても、それは自分の知見を見せびらかすことにしかなりません。だから、すべての意味の「場」を表現につなげることは不可能ですし、あまり意味がないのです。そんな境地に立って、山下さんはフリージャズを継続することを選びました。いや、選びました、というよりも、おそらくは自然にそうなっていったのでしょう。

さて、ここで大友さんが山下さんの音楽について、日本で独自の進化を遂げた、という趣旨のことを言っていたことを思い出してみましょう。山下さんの音楽には、大きな特徴があるのです。そのことを村上さんはこう指摘しました。

「山下さんのフリージャズは物語性がありますよね。」

音楽における物語性とは、何でしょうか?私はおそらく、それは山下さんの音楽には旋律が感じられるからだと思うのですが、いかがでしょうか。旋律という音楽的な要素は、時間と共にあるこの芸術の特徴を考えると、時間的に前後に存在する音と音とのつながりを意味するのだと思います。その音がつながっていく感触のことを、村上さんは作家らしく「物語性」と言ったのではないでしょうか。フリージャズのエネルギッシュな爆発の中でも、何か旋律的なものを感じさせるから、山下さんの音楽はアヴァンギャルドなのにポピュラリティーを得ているのだと、私は思います。私はこのことが、山下さんの音楽をアメリカのフリージャズとは違った独自のものにしていると推測します。山下さんの音楽を聴き込んだわけでもないので、当てずっぽうで書いていますので、外れていたらごめんなさい。

そんなふうに私が感じたのは、この「再乱入ライブ」の最後に演奏された“Memory is a funny thing”という曲を聴いたせいでもあります。この曲はフリージャズとは言えませんが、山下さんはこの曲について「最初のメロディが“Memory is a funny thing”と聴こえればありがたい」と言っていました。この言葉の中に、彼が旋律を大事する音楽家であることが象徴されていると思います。

https://youtu.be/3uZCPmITP4o

 

最後になりますが、この曲に関する山下さんと、村上さんのやりとりが面白かったので、今回の話題とは外れていますがちょっと聞いてみましょう。

 

坂本美雨;さて、このライブも終わりに近づいていますが、アンコールでもう1曲演奏していただけたらと思います。

山下;いつも演奏する自分の曲があるんです。じつは、すごく偶然なんですが、『ノルウェイの森』の7ページ目に、なんとわたしがいつも弾いている曲のタイトルが出てくるんです。本には、こうあります。

「記憶というのはなんだか不思議なものだ」

この通りの内容を僕は音楽にして弾いているんです。これはある時、アメリカ人のメールフレンドが“Memory is a funny thing”と書いてきた。このフレーズがとても良くて、その場でこの曲を書いてしまったのです。 今回、村上春樹ライブラリーに行って『ノルウェイの森』の英語版を見たら、まさしく、“Memory is a funny thing”とあった。

村上;……覚えてないなあ。最初に出てくるんですか(会場笑)。

山下;素晴らしいフレーズ、名言なのに。ほら、ここに書いてあるでしょ。主人公が18年の歳月を思い出すシーンで、この文章が出てくるんです。 「記憶というのはなんだか不思議なものだ」と。英訳を調べたら、たしかに“Memory is a funny thing”とある。僕の心を打った英語のフレーズと同じです。そのフレーズを頼りに、僕が作った曲をやります。

(『村上RADIO』9月25日放送分より)

 

村上さんが書いた一節が、山下さんの中で豊かな音楽として育まれていったのに、当の村上さんは覚えていない、というユーモラスな事件でしたが、その『ノルウェーの森』の一節は、次のようなものです。英訳のものと読み比べてください。

 

記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象的な風景だとも思わなかったし、十八年後もその風景を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいようなものだったのだ。僕は僕自身のことを考え、そのときとなりを並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼女とのことを考え、そしてまた僕自身のことを考えた。

(『ノルウェーの森』村上春樹)

 

Memory is a funny thing. When I was in the scene, I hardly paid it any mind. I never stopped to think of it as something that would make a lasting impression, certainly never imagined that eighteen years later I would recall it in such detail. I didn’t give a damn about the scenery that day. I was thinking about myself. I was thinking about the beautiful girl walking next to me.

(『ノルウェーの森』村上春樹 Jay Rubin英訳)

 

正直に言って「記憶というのはなんだか不思議なものだ」という一節は、村上春樹さんとしてはそれほど美しい一節だとは思えません。しかし私には英語のことはよくわからないものの、“Memory is a funny thing”という一節の方は、格言としても使えそうなぐらいに、とても印象的なフレーズに思えます。山下さんの、こういう一節に気がつく感性が素晴らしいですね。私は申し訳ないことに、フリージャズをほとんど聞きませんし、山下洋輔さんも何か話題にならないと聴きません。ちょっと認識を改めなくてはなりません。つねに愛聴する音楽にはならないでしょうが、もう少し聴いてみることにしましょう。

 

それにしても、ラジオ番組の何気ないお話から、ずいぶんと学ぶべきことがあるものです。まあ山下洋輔さんと村上春樹さんの会話ですから、当然といえば当然でしょうか・・・。

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