平らな深み、緩やかな時間

154.高村峰生の著作からベンヤミンの「触覚性」について考察する

明日の3月15日(月)から20日(日)まで、東京・京橋のギャラリー檜で個展を開催します。
冒頭のblog「はじめに」やギャラリー檜のHP、または石村HPなどご参照ください。
一都三県の緊急事態宣言の延長期間中ですので、外出を自粛されている方は展覧会のパンフレットを制作しましたのでご覧ください。「blog.151」にパンフレットのテキスト部分を掲載しましたし、石村HPの「はじめに NEWS」のページにpdfファイルもアップしてあります。展示した作品の写真の一部も掲載しましたので、よかったらご覧ください。会場にいらっしゃらない方で、パンフレットをもらっていただける方には郵送しますので、石村HPの「コンタクト CONTACT」からご連絡ください。
実は昨日、ギャラリーに作品を展示してきました。反省は多々ありますが、とにかく今回は「触覚性絵画」というコンセプトをはっきりと打ち出すことが第一の目的でしたから、その努力は見てとることができると思います。さらに次回は内容の詰まった作品にすべく、準備を整えたいと思います。そのためにも、なるべく会場にいて、いまの自分の水準をしっかりと見極めなくてはならないのですが、これがなかなか厳しいです。この状況下でわざわざお越しいただいたのにお会いできない方々には、本当に申し訳ないと思っています。わがままですが、またの機会に感想を聞かせていただけるとありがたいです。

さて、今回は以前からとり上げている高村峰生(1978 - )の『触れることのモダニティ』という著作から、ヴァルター・ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)に関する「第三章 ヴァルター・ベンヤミンにおける触覚の批評的射程」を取り出して考察します。この著書ではD.H.ロレンス(David Herbert Richards Lawrence, 1885 - 1930)、アルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz, 1864 - 1946)、ベンヤミン、モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)の4人の芸術家、思想家が取り上げられていますが、「触覚性」という観点からするとベンヤミンの章がもっとも難しい印象を受けます。ベンヤミン本人がはっきりと「触覚性」について言及していないからですが、それだけに研究者としての高村の手腕がもっとも問われている章なのかもしれません。そこでベンヤミンの著作も横に置きながら、「触覚性」に関する考察を進めていきたいと思います。なお、私が参照しているのが岩波文庫版のベンヤミンの本なので、論文のタイトルが高村の引用文とは異なります。分かりにくかったらごめんなさい。

「触覚性」の話に入る前に、ベンヤミンをご存知ない方のためにほんの少しだけ、ベンヤミンがどんな人だったのか押さえておきます。ベンヤミンはドイツの文芸批評家、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家です。彼の書いた文章でもっとも有名なものは、今回も取り上げられている『複製技術時代の芸術作品』でしょう。この文章は1935年に初版が出た後、彼が亡くなるまで手を加えられたそうで、版によって内容に異動があるそうです。私がこの論文を知ったのは、この文章のなかに書かれた「アウラ」という概念を誰かの批評(たぶん、藤枝晃雄)の中で読んだことです。「アウラ」とは、何だろう?と原典を知りたくて、この論文にたどり着きました。そのベンヤミンの説明を読んでみましょう。

いったいアウラとは何か?時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、目で追うこと―これが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない。
(『複製技術の時代における芸術作品』ベンヤミン著 野村修訳)

これを読んで何だか分かりますか?ベンヤミンの文章は、美しさのなかに簡単に語れない思いを含んでいて難解です。それをあえて、卑近な例から単純に解説してみましょう。
まず「アウラ」という言葉ですが、「オーラ」と言った方が私たちの日常的な感覚になじんでいるでしょう。例えば、今を時めく有名人に対して、「オーラ」を放っているみたいだ、という言い方をすることがあります。それはその人が、何か人を引き付ける魅力を持っている、ということでしょう。ただ、そのような輝きは一時的なものですから、いずれ人々の思いも落ち着いてしまいます。だからこそ、今輝いている人物の実物(本人)を生で見たときに、その「一回限り」の希少性に促されて私たちは後光のような「オーラ」を感じてしまうのです。そのとき、本人を間近で見ていながら、まるで遥か遠くにいるような、そんな近づきがたい感じを受けることになるでしょう。それを「オーラ」、つまり「アウラ」というのです。
ところで、この例が有名人ではなくて、絵画作品だとしたらどうでしょうか。例えばレオナルド=ダ=ヴィンチ(伊: Leonardo da Vinci、1452 - 1519)の『モナリザ』は、レオナルドの残した数少ない作品であり、この世でたった一枚の名画です。希少価値という点で、まさにその実物は「アウラ」を放った名画です。しかし、写真の技術の発達によって、私たちはその画像をどこでも見ることが出来ます。さらにバーチャルリアリティーの技術が発達し、質感を含めた精緻な画像なり、オブジェなりが大量に出回れば、『モナリザ』の実物を見ることなど、一部の専門的な研究者以外の人にはあまり意味をなさないことになるかもしれません。
このように考えると、複製技術の時代が到来したことは、芸術作品にとってひとつの危機だとも考えられます。それでは、ベンヤミンは『複製技術の時代における芸術作品』のなかで、「アウラ」の消滅の危機を告発したのでしょうか。そうとも言えますが、それだけではありません。そこがベンヤミンの文章の解釈の複雑さ、難しさなのです。今回の話題にも、ベンヤミンの難解さが読み取れることと思います。
そのベンヤミンが亡くなったのが1940年で、その悲劇的な死も有名な話です。ユダヤ人であった彼は第二次世界大戦中、 ナチスから逃亡する途中のピレネーの山中で服毒自殺を遂げたとされているのです。ベンヤミンの死の追憶として、造形作家のダニ・カラヴァン(Dani Karavan, 1930 - )が大がかりな作品を設置したことも、美術関係者のあいだではよく知られた話です。そのことを私はblog「107. ジュゼッペ・ペノーネ、ダニ・カラヴァンから時間について考える」で取り上げたことがあります。ダニ・カラヴァンの作品は、「モニュメンタル」という言葉で遺棄できない魅力を感じます。モダニズムの巨大な立体作品のように見えて、そこに収まらない何かがあるのです。以前にもリンクを貼ったものですが、よかったら、画像と動画をご覧ください。上のカラヴァンの作品のページからは、「パッセージ、ウォルター・ベンジャミンへのオマージュ」を選んで見てください。また、下の動画の内容は、なかなか格調高いです。
https://www.danikaravan.com/works/
https://www.youtube.com/watch?v=qJHQDZsj46s

話が横道にそれましたが、本題に戻ります。まず、高村峰生による『触れることのモダニティ』の「第三章」の概要について、解説している冒頭部分を読んでみましょう。

本章では、ヴァルター・ベンヤミンの著作に現れる触覚について検討を行い、それが彼の身体、政治、歴史、記憶といったさまざまな主題についての議論とどのように関わっているかを検討する。本論に入る前に、まずベンヤミンの提示する触覚には、相容れないように見える二つの性格があることに注意を喚起しておきたい。従来の議論は、たいていそれらの二つの性格のうちの一つの定義に沿ったものに限定され、ベンヤミンの触覚言説を位置づけるうえでの混乱を招いていた。本論においてはそれらを正確に識別することが議論の要となる。詳細は本章の主要部分に譲るとして、ここでは見取り図を得るために便宜上簡単な整理をしておこう。二つの触覚の性格のうちの一つは、映画に代表される20世紀の視覚メディアがもたらした、新しい身体の感受性のモードである。これはメディアを媒介することに起因する通常は「見ること」の変容と捉えられることに関連する。このような性格を持つ触覚は『複製技術時代の芸術作品』をはじめとする後期の著作において、メディアの時代における人間の感性の変容を示すものとしてしばしば言及されている。もう一つは、人間の本性的で古来から受け継がれた模倣の能力に根差し、伝統的な芸術作品を産み出す具体的な手の経験と結び付けられたものである。こちらは、複製技術時代以前の人間の感受性を言い表したものであり、「触覚的」という言葉が通常喚起するような事物との関係性に起因しながらも、実際の接触を必ずしも伴わない、時間的、空間的な「距離」の経験、あるいはベンヤミンの有名な概念である「アウラ」とも結びつけられている。つまり、ベンヤミンの著作に現れる触覚は全く正反対の二つの性格を持つと言ってもよく、それぞれ全く異なる文脈で現れるのである。眼前に存在する物質とも遠くにある起源とも結びついた「触覚」の二つの顔はどのように関連し、彼の著作全体において、それぞれがどのような表情を見せるのだろうか。
(『触れることのモダニティ』「第三章 ヴァルター・ベンヤミンにおける触覚の批評的射程」高村峰生著)

ここで書かれている「ベンヤミンの著作に現れる触覚は全く正反対の二つの性格を持つ」とは、どういうことでしょうか。
まず、わかりやすい「触覚性」について確認しておきましょう。私たちが「触覚性」と結び付く芸術作品について考えた時に、どのようなものを思いつくのでしょうか。まっさきに思いつくのは、伝統的な「手仕事」によって生みだされたものでしょう。例えば陶工の手によって作られた陶器のようなものです。ベンヤミンにおける触覚も、それらのものと結び付いています。

このように、語源的にtangereというラテン語と結びついた語群は、ベンヤミンの著作において「経験」の身体的な期限を構成する。シフとレスリーはともにベンヤミンの触覚は始原的な身体性を指示しており、それは時間、空間、歴史、ナラティブのような抽象概念と切り離すことができないと論じている。手のイメージと触覚は「真の経験」と芸術活動にとって基礎となるものである。レスリーは、ベンヤミンの触覚をめぐる想像力が、伝統的な「手仕事(Handwerk)」の概念と結びついていることを指摘している。
(『触れることのモダニティ』「第三章 ヴァルター・ベンヤミンにおける触覚の批評的射程」高村峰生著)

ちなみにラテン語の「tangere(タンゲレ)」は「触る」という意味だそうです。「Handwerk(ハンドベルク)」はドイツ語の「手仕事、手工業」です。このような伝統的な「手仕事」の概念が、「ベンヤミンの触覚をめぐる想像力」と結びついているという説明ですが、このような「触覚性」の考え方はわかりやすいものです。
しかし、もうひとつの「触覚性」は難解です。それは映画に代表されるような、複製技術の時代に生み出された人間の感覚に直接訴えかけるような表現を指しています。高村峰生は、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』(ちくま文庫)を引用しつつ、次のように書いています。

ダダイストたちにおいて芸術作品は、もはや魅惑的な形姿や説得力のある響きであることをやめ、一発の銃弾となった。それは観る者に命中した。芸術作品はいまやある種の触覚的な性質を獲得した。これによって、映画の需要が促進されることになった。映画の持つ注意散逸を引き起こす要素も、ダダの芸術作品の場合と同様、まずもって触覚的要素だからである。(『複製技術時代の芸術作品』からの引用)

「触覚的な性質」はここでは同時代の社会を特徴付ける二つの要素と関連している。それは暴力性と大衆性である。ダダイズムは「銃弾」に比較しうるような直接的で暴力的な表現形式であり、それは鑑賞する側に「精神集中」の余地を残さない。そしてダダイズムが深い知性の働きによる「精神集中」を必要としない、本質的に大衆的な表現形式であることも意味している。映画もこれと同様の「注意散逸」的な効果を持っており、観客から機械的な反応を引き出す。映画は観客とのあいだに「直接的な」関係を結ぶだけではなく、人びとの生の営みとも深いかかわりがある。
(『触れることのモダニティ』「第三章 ヴァルター・ベンヤミンにおける触覚の批評的射程」高村峰生著)

ベンヤミンの死が、ナチスに追いつめられたものであったことは、先ほど触れました。そしてベンヤミンにとっての映画の考察は、ナチスが大衆を扇動するのに映像表現を用いたことと切り離せないもののようです。ここで使われている「触覚的」という意味は、人間の知性や理性を越えて直に感覚に訴えかけるような、「直接的で暴力的な」ものです。映画を見たときの感想として、私たちはしばしば「映像に引き込まれるような」という言い方をしますが、ベンヤミンにとっての映画は「注意散逸を引き起こす」というのですから、ちょっとわかりにくいものです。
その理屈を言えば、次のようなものです。ダダイズム作品や映画は、「一発の銃弾」となって「観る者に命中した」とベンヤミンは考えます。この言い方から察すると、映像作品というのは触覚的な「表現」というよりは、触覚的な「衝撃」と言った方がいいぐらいです。その触覚的な衝撃は、見る者の心を打ち砕いて「注意散逸を引き起こす」ということなのでしょう。このような芸術作品の受容の仕方は、それまでの美術作品や音楽の楽曲とはまるで違います。絵画や音楽が視覚や聴覚を通じて穏やかに精神の中に入り込んで、そこで好ましい感情の変化を作り出すのに対し、映画の触覚的な表現は銃弾のように鑑賞者の心に飛び込んで、その人の感情を揺さぶるものですから、「直接的で暴力的な表現形式」という言いかたがまさにふさわしいものです。
このように説明してみると、ベンヤミンは映画という表現形式に対して否定的な評価をしていたように見えますが、必ずしもそうではありません。そこがベンヤミンの複雑なところです。ベンヤミンは大衆が芸術鑑賞の母体となってきたことで、「現在、芸術作品にたいする従来の態度のいっさいは、新しく生れ変わっている」と書いています。そこに複製技術の発達が関わることで、現在は「量が質に転化して」「関与する大衆の数がきわめて増大してきた」時代だと分析しているのです。そして、そのことが芸術の在り方を変えてしまった、というのですが、その変化が「さしあたって悪評に包まれて見えるからといって、観察を誤ってはならない」と言うのです。
おそらく、ベンヤミンはこの変化が不可逆のものであると感じ取り、だからそれらが今までの芸術の在り方や芸術鑑賞の形式と違っているからといって、悪く評価することは誤りである、と言っているのでしょう。ベンヤミンンは、絵画が視覚的な表現だとするなら、映画は触覚的な表現だと見なしたうえで、その受容の仕方の違いについて考察を進めていきます。というのは、「視覚」と「触覚」という受容感覚の違いは、鑑賞者の態度の違いにも大きくかかわってくるからです。ベンヤミンは「視覚的な受容」では、鑑賞者は「静観」的な態度を取るが、「触覚的な受容」において鑑賞者は「慣れ」という「方途を取る」と言っています。その変化は、時代の流れの中で避けがたいものだと考えているのです。

じじつ、歴史の転換期にあって人間の知覚器官に課される諸課題は、たんなる視覚の方途では、すなわち静観をもってしては、少しも解決されえない。それらの課題は時間をかけて、触覚的な受容に導かれた慣れをつうじて、解決されてゆくほかはない。
(『複製技術の時代における芸術作品』ベンヤミン著 野村修訳)

ここまでのベンヤミンの話ですが、みなさんはスーッと理解できるでしょうか?私は、「静観」と「慣れ」との違いとはいったい何なのか、もっと詳しく説明してよ!などと聞いてみたいことが多々あります。しかしここは、「静観」とは視覚によって見ることであり、「慣れ」とは繰り返し触れることで生じるものだ、というふうに仮に理解しておきましょう。映像による銃弾のような表現の連射に、私たちは数多く触れることで、やがて受容できるようになる、それが「慣れ」という意味だ、というふうに解釈しておくことにします。
しかし、人は得てして、そのような新しい変化、新しい芸術に対して否定的になるものです。そんなものは芸術ではない、芸術とはもっと静かな態度で鑑賞できるものだ、などという人たちのことです。それに対して、ベンヤミンは次のように書いています。

ところで個々のひとには、そのような諸課題から逃れたいという誘惑が、なお根強く存在しているから、芸術が諸課題のうちのもっとも困難で重要なものに立ち向かうのは、芸術が大衆を動員しうるところにおいて、ということになる。現在、その場は映画だ。くつろいだ受容は、芸術のすべての分野のなかでしだいに目立ってきていて、知覚の深刻な変化の徴候となっているが、それを練習するのに、映画にまさる道具はない。映画はそのショック作用をもって、くつろいだ形態の受容に対応している。このように映画は、この側面からしても、ギリシア人において美学と呼ばれたあの知覚にかんする学の、明らかにこんにちもっとも重要が対象となっている。
(『複製技術の時代における芸術作品』ベンヤミン著 野村修訳)

ここまで読むと、なんだ、ベンヤミンって映画が好きな人なんだ、と少し安心します。世の中にはいい映画も、そうでない映画もありますが、映画という表現形式そのものを否定してしまっていたら、芸術評論としてお話にならないでしょう。ただ彼が不幸だったのは、ファシズムの時代と遭遇してしまったこと、そしてファシズムの政治家が大衆を扇動するのに映像表現を巧みに使うありさまを目の当たりにしてしまったことでしょう。
その結果、私の持っている岩波文庫版の『複製技術の時代における芸術作品』では、論文の最後が政治と芸術との関係についての考察に充てられています。ベンヤミンにとって、それは切実なことだったのでしょう。しかし、ここではそれよりも、高村峰生が『触れることのモダニティ』第三章の最後に触れている、翻訳と「触覚性」との関係に話を移しましょう。高村はその部分に「翻訳の触覚」という見出しをつけて、次のように書いています。

ベンヤミンの「起源」と「複製」をめぐる問いのうちで最後に考えたいのは彼の言語観を強く反映した初期の翻訳論である。翻訳もまたミメーシスの一形態であると同時に「媒介」であると考えることは、彼の翻訳論の特異な性格について考察する際の重要な土台となるだろう。それは、ベンヤミンの触覚言説の最も深い部分における「触れること」の主題に関わってくる。「翻訳者の使命」は1921年に書かれ、1923年に彼が翻訳したボードレールの『悪の華』の一部、「パリの光景」の序文を成している。ここで、彼は原文と翻訳との常識的な関係性を覆している。翻訳はふつう、先に存在している原文に対してなされた二次的なものだと思われている。しかし、ベンヤミンはこのような階層的な関係性―本文の中で彼が「原作と翻訳の地位の差」と呼んでいるもの―を前提とはしない。翻訳を何かをもとに新しいものを生成する作業であると考えるならば、それはオリジナルを単純に異なる言語に置き換えたものではありえず、言語一般に異他性を導入し、言語の根源的な性格を明らかにするプロセスであるはずである。「翻訳者の使命」は彼の歴史的唯物論についての論文よりも少なくとも10年は早く書かれているが、同じような「転覆」の原理に基づいている。彼は、「野蛮なもの」や「未開のもの」と現代を弁証法的な関係に置いたのと同様、翻訳とオリジナルを相互に関係しあう弁証法のうちに置いたのである。
(『触れることのモダニティ』「第三章 ヴァルター・ベンヤミンにおける触覚の批評的射程」高村峰生著)

なかなか難しい文章です。ちなみにミメーシス( Mimesis)とは古代ギリシアに由来する哲学の概念で、「模倣」という意味だそうです。翻訳は「模倣」であると同時に「媒介」である、というのですが、この「媒介」というのはどういうことでしょうか。私たちは何か新しいことを知るときに、「媒介」するものや人を通じて知ることの方が、直接の情報源にあたることよりも圧倒的に多いでしょう。だから「媒介」するものや人はとても重要であり、もしかしたらおおもとの原典よりも「媒介」するものの魅力によってものごとを認識することだってあるのです。ベンヤミンは「翻訳」もそれと同じだと言っているのでしょう。それに「翻訳」には、単純にミメーシス(模倣)となるわけにはいかない事情があります。そのことをベンヤミンの『翻訳者の使命』(岩波文庫版『翻訳者の課題』)を参照しながら考えてみましょう。ベンヤミンはこのことに関わって、「翻訳可能性」という言葉と同時に、「翻訳不可能性」という言葉も使っています。それはなぜでしょうか。

諸言語の親縁性が翻訳において示されるといっても、その示されかたは、模写と原作との曖昧な類似性によるものとは、違っている。分かりやすい比喩でいえば、近親だからといって似ているとは限らないのと、同じ事情がここにはある。
(『翻訳者の課題』ベンヤミン著 野村修訳)

この「近親だからといって似ているとは限らない」という比喩ですが、具体的でわかりやすいようでいて、いろんなふうに解釈できて困ってしまいます。なぜ翻訳と原作の関係は「模写と原作との曖昧な類似性」と異なっているのでしょうか。
これが例えば絵画や彫刻であれが、「模写と原作との曖昧な類似性」という言い方がとてもわかりやすいものになります。「模写」されたものは「原作」と似たものですが、例えば模写をした人の技量によって微妙に異なるものになるでしょう。その差異は「曖昧な」ものですが、しかし絵画や彫刻などの視覚的な情報に言葉の壁はありませんから、誰もが自らの工夫によって「原作」にアプローチすることができます。
しかし、言語を介してなされる「翻訳」は、そういうわけにはいきません。この言語の違いという要素は、私たちがふつうに考えるほど単純なものではありません。例えばベンヤミンは、次のような分かりやすい事例をあげて説明しています。

ドイツ語の「ブロート」とフランス語の「パン」とでは、意味されるものは同一だけれども、言いかたは異なっている。言いかたからすれば、二つの語はドイツ人にとってとフランス人にとってとではそれぞれに別の意義をおびていて、互いに交換がきかないどころか、けっきょくは互いに排除し合おうとさえする。しかし意味されるものからすると、二つの語は絶対的に同一のものを意味している。このように、この二つの語において、言いかたは互いに相手に逆らっているのに、これらの語を生んだ二つの言語のなかでは、その言いかたが互いに補完しあう。
(『翻訳者の課題』ベンヤミン著 野村修訳)

私たちが日常的に使っている「パン」という言葉でさえ、ドイツ人とフランス人とでは「別の意義」を帯びているというのです。どうやらラテン語系の「パン」とゲルマン語系の「ブロート」「ブレッド」の違いもあるようで、外来語はみんな同じだと思っている私のような無教養な人間には知りえない世界があるのですね。それはともかく、このような複雑な関係にある二つの言語が同じ内容を表現しようとしたもの、それが翻訳というものなのでしょう。「同一のものを意味している」のにもかかわらず、「互いに相手に逆らっている」、しかしそれらは「互いに補完しあう」、このように考えてみると、翻訳という営為は他の表現分野において比喩することすらできない、特殊な営みだと言えるのかもしれません。
そしてこのような言語を介した「翻訳」という特殊な営為が、なぜ「触覚性」と関わってくるのでしょうか。それはベンヤミンが、翻訳と原作との関係を次のようにイメージしていることによるのです。

このことから、翻訳と原作との関係にとって意味に残される意義は、ひとつの比喩で捉えられる。接線が円に瞬間的にただ一点において接触するように、そして法則ではあっても接点ではないように、翻訳は瞬間的に、かつ意味という無限小の一点においてのみ原作と接触したのち、忠実の法則に従いつつ、言語運動の自由において翻訳独自の軌道を辿ってゆく。
(『翻訳者の課題』ベンヤミン著 野村修訳)

これ難しい文章ですが、単純に言うとこういうことです。
「翻訳」と「原作」とは、円と接線の関係のように、ただ「一点において」のみ「接触する」という、とても微妙な関係にあります。そしてその「一点においてのみ」接触したら、あとはそれぞれの言葉の世界の中で、独自に語られていくしかないのです。
この「原作」と「翻訳」の微妙な接し方が、円と接線という絶妙な比喩となり、そのことが「触覚性」という概念を想起させています。その「一点においてのみ」という接触の様態が、「触れる」というイメージを増幅させているのです。
私はこのベンヤミンの比喩を読んだとき、即座に画家の中西夏之(1935 – 2016)のことを思い出しました。中西には弓を画面に貼り付けた作品がありますが、これは画家の背後からのびてきた円が、画家の目前にある画面に触れた、という想定なのです。絵画という平面形式による表現は、たんに物理的な平面がそこにあるのではなくて、画家が感じる円環運動が目前に現れた平面に触れた瞬間に成立する、という中西独特の絵画観があるのです。中西のこの妄想のような絵画の概念にとって重要なのは、円環が平面に触れる、という「接触性」なのです。その接触は一点であるがゆえに濃厚なのです。

さて、このように見ていくと、少なくともベンヤミンが示唆した「触覚性」には、高村峰生は冒頭で「相容れないように見える二つの性格」がある、と書いていましたが、実は三通りのものがありました。手仕事による触覚性、映画やダダイズムによる直接的で暴力的な触覚性、それに加えて「翻訳」に見られる円と接線のような一点でしかありえない接触による「触覚性」です。私は今回の個展において、「触覚性」を強調するあまり、直接的で暴力的な「触覚性」に傾斜していったのかもしれません。それは、視覚的に距離をおいて眺めるような絵画との差異を認識するために必要なことだと考えていましたが、「触覚性」による表現の本当の豊かさを感受するためには、例えばベンヤミンが翻訳において論じたような、円と接線をイメージさせるような触覚性にも目を向けるべきです。しかしそれはどのようにして絵画において可能なのか、中西夏之の例があるとはいえ、私なりに考えていかなくてはなりません。
それにしても、ベンヤミンの文章から「触覚性」を取り出して論じる、というのはいささか困難なことでした。それは彼がそのことを積極的に論じたようには読めないからです。しかし、結果的には「触覚性」に関する豊かな考察がそこに潜んでいることを、高村峰生の著作によって私たちは学びました。その高村峰生が、このベンヤミンを論じた章の結びの部分でのようなことを書いているのか、読んでみましょう。

ベンヤミンが映画の触覚性の議論の中で問題視しているのはアウラの消滅だけではなく、人間の知覚が可能とする繊細な触覚的体験の衰退であり、その根底には具体的かつ身体的な生と抽象的な思弁を決して切り離すことなく、遠い過去と眼前に展開する現実の両者を弁証法的に把握しようとした彼の姿勢がある。本章で論じたように、ベンヤミンにおける触覚的なものは、物と物、生命と生命の連関のあり方、歴史認識の方法、翻訳と言語の問題など、さまざまな問題系と密接に関わっているのである。ベンヤミンは著作において触覚を正面からテーマとしたことはなかったが、彼の著作は至るところにおいて触覚的なものへの想像力に浸されていた。同時代において大きな変遷の途上にあった感覚のモードであった触覚の変性にベンヤミンは生そのものの変性を見ていたのであり、そのような変性に対応した批評の言語をつくり出すことに力を傾注したのである。
(『触れることのモダニティ』「第三章 ヴァルター・ベンヤミンにおける触覚の批評的射程」高村峰生著)

どこかで書いたことの繰り返しになりますが、私にはベンヤミンの文章は難解過ぎて、内容がうまくつかめないままに、ここまで来てしまいました。しかしそれは、ベンヤミンが観念的に考えたことを分かりやすく筋道をつけて書いたのではなくて、彼が触覚的な皮膚感覚で感受したものを大切にしたからなのかもしれません。高村峰生が『触れることのモダニティ』という著作においてベンヤミンのために一章をさいたのは、そのことを高村が正しく認識していたからでしょう。
しかし、ここにも書かれている通り、ベンヤミンの文章にはまだまだここで論じられていないような鉱脈がありそうです。折に触れて読み直して、私もベンヤミンの「触覚性」について新たな切り口を見出したいものです。

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