平らな深み、緩やかな時間

213.『ミラーレス・ミラー』『森岡 純 展』『高橋幸郎 展』

好むと好まざるとに関わらず、私たちは過去のものに影響され、そして未来へと橋渡しをしていきます。いくら自分は無垢な存在であり、過去からの影響を受けないと言ってみても、私たちの生活は先人から引き継いだもので溢れていて、その経験を無視して生きてはいけません。
そして、過去からの経験をもっとよく知ろうと思えば、歴史的なものの見方を避けることができないのですが、だからと言って歴史的な定説にとらわれる必要はありません。とくに「現代美術史」と呼ばれるものは、今まさに更新中ですから、なおさら既成のものの見方にとらわれる必要はないのです。
今回は、そんなことを考えさせられる三つの展覧会をご紹介します。


まずひとつめは、前々回にご紹介したgallery αM(ギャラリー アルファエム)で開催中の『わたしの穴 美術の穴|地底人とミラーレス・ミラー』という展覧会です。今回はその後半の展示です。この展覧会は、現代日本美術史を探る若手作家の試みの一つであったことを、前回紹介しました。この展覧会のパンフレットから、そのことを示す一節を引用しておきましょう。

▊わたしの穴 美術の穴 わたしのあな びじゅつのあな▊
1970年前後の日本美術史をリサーチすることを主眼に石井友人、榎倉冴香、地主麻衣子、高石晃、桝田倫広により2014年に発足。
(『地底人とミラーレス・ミラー』パンフレットより)

そして前回は、高石晃さんのキュレーションによって、ロシア出身の地理学者でアーティスト、キュレーターでもあるニコライ・スミノフの企画した展覧会の一部と高山登さん、高石晃さん自身の作品を関連づけて展示する試みでした。詳しくは、展覧会のサイト、及び私のblogをご覧ください。
https://gallery-alpham.com/exhibition/project_2020-2021/plus_vol2/
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/220.html
続いて今回は、石井友人さんの企画による『ミラーレス・ミラー』という展覧会です。主催者のコメントを見てみましょう。

——この見えない巨大な鏡、すべてを写し出すかに見えるその明るい表面を通って、鏡の底へ降りてゆく。——
  宮川淳『鏡・空間・イマージュ』1967年

 鏡の向こう側を示唆する魅惑の物語は、歴史上数多に存在します。例えば、鏡の国のアリスやナルシスの物語のように。しかし、鏡の明るい表面と底、それは現実にはあり得ない二重の空間に思えます。
 私たちは社会生活を過ごす中で、現実と虚構、自己と他者、人間と自然を切り分ける認識を徐々に与えられていきます。「鏡の国」とは異なり、それが従来の鏡の役割とも言われています。
 そして現在、私たちは自己イメージを孕んだありとあらゆる模像(鏡、ショー・ウィンドウの反映、光学装置が生み出す複製イメージ、そしてスマホやデジタルデバイスにおけるミラーリングやミラー・ワールド)の世界に加速度的に取り囲まれ、同時的に世界と接しているにも関わらず、何故か事後的に世界が与えられているように感じることが少なくありません。
(『わたしの穴 美術の穴|地底人とミラーレス・ミラー』より)

ここでは、1960年代末から1980年代中頃まで絶大な影響力を持った美術評論家、宮川 淳(みやかわ あつし、1933 - 1977)の代表的な著作『鏡・空間・イマージュ』からの引用で文章がはじめられています。
宮川淳は、フランス現代思想への深い理解を美術評論に応用して、とても美しい文章を書いた評論家です。彼の著作そのものが、文学的な作品として鑑賞に耐えうるものでした。しかしその一方で、当時の日本には彼の評論に見合うような美術作品を見出すことが極めて困難だったと思います。時代が早すぎた、とも言えますし、彼の文章があまりにも高尚すぎた、とも言えるだろうと思います。
宮川の思想を端的に捉えると、芸術作品における「創造」よりも「引用」を、「深さ」よりも「表面」を重視したと言えるでしょう。若い頃に彼の著作に触れた私は、コラージュ作品を制作することで「引用」的な手法を取り入れたり、プリント生地や千代紙などを支持体として用いることで「表面」を意識したりしました。そんなおっちょこちょいなことしかできない私ですが、さまざまな失敗からそれなりに宮川淳の思想的価値と、その限界を実感できたと思っています。
しかしもしかしたら、私は宮川の美術批評を体現するには、あまりに古いタイプの作家であったのかもしれません。というのも、石井友人さんがパンフレットで書いていたように、「光学装置が生み出す複製イメージ、そしてスマホやデジタルデバイスにおけるミラーリングやミラー・ワールド」が日常的な世界となっている現在こそ、宮川の美術批評を再検討するのに相応しい時代なのかもしれない、と思うのです。
例えば石井さんは以前の個展で、スキャナーの受像機能を応用した作品を制作していました。どんな構造の作品だったのか、ハイテクに弱い私の記憶はすでに曖昧なので、詳細を書くことができませんが、次のサイトを見てください。
https://www.capsule-gallery.jp/exhibition/index.php?itemid=41
そして前回の高山登さんに続いて、やはり1970年代から活躍している現代美術家、藤井博さんが若い作家とともに展覧会に参加しています。藤井さんの作品は『内へ・外へ』という1978年の作品ですが、今回は仮設のガラスの壁を使って再制作されています。
この作品は、石を砕いて粉々にして、その破片に水分を含ませてガラスの壁にはりつけるというものです。床には、砕かれる前の石が散在していて、藤井さん自身はかつて同傾向の作品において「石塊と壁の間に在ってみること」というふうに書いています。今回は仮設のガラスの壁の作品では、石塊の付着した壁を裏側からも見ることができます。また、そこに木材が立てかけてあって、そのことで壁の垂直性が強調され、さらに木材によって一部の壁の石粉が剥ぎ取られていて、それをガラスの壁の両面から見ることで、石粉の様態をより明瞭に見せています。
このガラスの壁は、石を透過せずに跳ね返す確固とした平面であり、それはイメージを反射する鏡のメタファーだと言えるのかもしれません。ガラスの壁の作品を引用することで、今回の『ミラーレス・ミラー』という展覧会のコンセプトと、藤井さんの作品をうまく繋いでいると思います。
そして石井さんや高石さんが継続して探究している「1970年前後の日本美術史をリサーチすること」というテーマに沿って言えば、この『内へ・外へ』においても、前回の高山登さんと同様のことが言えます。それはどういうことかと言えば、高石さんが高山さんの作品について書いていた次のコメントです。

高山登が1968年前後から開始した表現実践は、一見要素還元的な形式をとっていたとしても、一貫して事物がその内部に抱え込んでいる記憶、歴史を志向しており、同世代の日本の作家よりもむしろヨーゼフ・ボイス等の実践との同時性をもっていました。
(『わたしの穴 美術の穴|地底人とミラーレス・ミラー』より)

彼らがヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys、1921 - 1986)との同時性を持っていたのかどうかはともかくとして、高山さんも藤井さんも「要素還元主義的な形式」をとる所謂「もの派」の作家として括れないことは確かです。高山さんについては前回のコメントで書きましたので、藤井さんについて見ておきましょう。
藤井さんの『内へ・外へ』という作品には、石を砕くという特殊な行為がともなっています。この強い印象を持つ行為によってできた「石粉」と、もとの「(岩)石」との対比は、「石」という物質をニュートラルに捉えた表現ではありません。例えば藤井さんと同時代の美術家の李 禹煥(リ・ウーファン、1936年 - )さんと比較してみると、李 禹煥さんは石の重さ、硬さ、ゴツゴツとした形などの一般的なイメージを増幅して表現したのに対し、藤井さんの表現にはもっとは人間の原初の記憶を呼び覚ますような、野生的なイメージがあります。李さんのような「もの派」として括られる作家たちが見せてくれるのは私たちの現実の世界の様態であり、高山さんや藤井さんが見せてくれるのは人間としての原初の世界、野生的で動物的な世界の様態であるように思います。
そう考えると、今回の『ミラーレス・ミラー』という展示会場の入り口に藤井さんの作品が置かれていることは、この展覧会のパンフレットに書かれていた「鏡の明るい表面と底、それは現実にはあり得ない二重の空間」を表現するはじまりの作品として、藤井さんの作品が位置付けられている、ということなのではないでしょうか。
さて、その部屋の奥には、若手作家たち(? 彼らの年齢を私は知りません)の最新のテクノロジーを駆使した作品が並んでいます。石井さんの作品のみタブロー作品でしたね。石井さん以外では、多田圭佑さんの作品が木の板を斧で傷つけた矩形の様式の作品でしたが、それも制作過程をビデオで記録したものと同時に展示されていましたから、単純なタブロー、ないしはオブジェの作品とは言えないようです。
私の個人的な感想を言えば、多田圭佑さんの作品はビデオで記録された斧を振るう姿が、今ひとつ迫力不足だったような・・・。これならば、傷ついた板だけを展示したほうが、鑑賞者のイメージの中で、斧の躍動感がよりいっそう膨らんだのではないでしょうか。私自身は静止した絵画の中にも動きがあり、時間が存在することに興味を感じているのですが、多田さんの作品を見ると、絵画作品がもたらす豊かなイメージと、動画や映像が直接的に表現するイメージとの比較ができて興味深く思いました。もちろん、それはどちらが良いということではなくて、双方に表現の違いがあり、絵画の代わりに映像作品があるわけではありませんし、逆もまた然りです。実は、この日は夕方に予定があり、その上でいくつかの展覧会をどうしても見て回りたくて、会場にあまりゆっくりといることができませんでした。映像作品のいくつかの展示を見るにあたって、その映像の変化に合わせて、こちらも時間を確保して鑑賞しなくてはならないなあ、と思いつつ会場を後にしてしまいました。
いまや家庭でのディスプレイ画面が大型化し、若い方にとってはそれを受像機械としてマルチに使うことが当たり前になっています。こういう映像作品は、展覧会場よりも自宅で気ままな時間に見ることが適しているのかもしれません。宮川淳の「この見えない巨大な鏡、すべてを写し出すかに見えるその明るい表面を通って、鏡の底へ降りてゆく」ということを視覚化した新しい表現が、新しいメディアで実現されるとしたら、とても楽しみなことですし、今回はその試みとして評価したいと思います。私は巨大な映像装置を使った作品が、擬似自然体験のような表現を試みているのを見るにつけ、ちょっとがっかりしてしまいます。こういう難解な哲学的なイメージを、わかりやすく映像ならではの表現で視覚化する試みこそ価値があると思っています。


次に紹介するのは、ギャラリー檜で3月12日まで開催されている『高橋幸郎 展』です。
http://hinoki.main.jp/img2022-3/exhibition.html
高橋さんは、日本の古典的な絵画に見られる「吹抜屋台(ふきぬきやたい)」という独自の遠近法を用いて、現代的な都市風景を作品にしています。「吹抜屋台」は『源氏物語絵巻』などの絵巻物や『洛中洛外図屏風』などの屏風作品に見ることができます。
https://www.tokugawa-art-museum.jp/exhibits/special/2015/01/
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/01.html
高橋さんは絵巻物をイメージして作品を制作されています。制作方法は新聞や広告、その他の紙を切り抜き、コラージュする、その上に抑制的なドローイングやペイントを施す、という現代的なものですが、見通している表現空間は平面上で広がっていく「吹抜屋台」の空間です。
おそらく、はじめて高橋さんの展覧会をご覧になる方は、その作品にどう対峙したら良いのか、戸惑うのではないかと思います。鑑賞するに際して、いくつかのハードルがあるからです。
私たちは、あまり意識することなく西欧的な透視遠近法を当たり前の見方だと受けとめています。それは抽象的な絵画を見るときにも応用されていて、私たちは自然と画面上に中心となるものを探したり、対比となるような画面のアクセントを見出したりします。高橋さんの「吹抜屋台」の空間は、それとは相容れないものですから、どのようにその空間を見たら良いのか、戸惑ってしまうのです。
それから、高橋さんが意識されている古典的な「絵巻物」ですが、この「絵巻物」を展覧会で見るたびに、私はその鑑賞のあり方に難しさを感じてしまいます。本来は、「絵巻物」は鑑賞者の手の届く範囲で広げながら見るものだと思います。長い絵巻物を見るならば、少しずつ広げながら、一方で少しずつ巻き取りながら、一定の範囲の画面が次々と現れてくるのを楽しむわけです。ところが現代の展覧会場での鑑賞方法では、そうはいきません。貴重な絵巻物を手に取って見るわけにもいかず、長いガラスケースの中に広げられた絵巻物を一望しながら、あるいは移動しながら鑑賞するわけです。日本の美術品の多くは生活環境と密着したものですから、それが西欧的な広くて明るい、ニュートラルな空間に置かれると、ほのかな違和を感じるのです。高橋さんの細長い絵巻物のような作品にも、同様の鑑賞の難しさがあると思います。いったん高橋さんの作品の空間に入り込んで仕舞えば、その色使いの工夫や微妙なテクスチャーの違いなどを味わうことができるのですが、その手前の段階で鑑賞を切り上げてしまうと、インパクトの薄いコラージュ作品に見えてしまうでしょう。
それではどうしたら良いのか、という妙案はありませんし、高橋さんもご自分の興味に沿ってこれからも制作を続けられることと思います。ただ、例えば今回のDMに印刷されている作品などは、西欧的な空間意識から見てみても、大変に優れた構成の作品だと思います。この辺りの作品が、高橋さんの作品を楽しむための入り口になりそうな予感がします。
高橋さんは、冒頭で書いたような歴史的な美術の継承ということで言えば、まったく独自のユニークな方法を取っています。それだけに多くの人の目に触れて、さまざまなことを感じ取っていただきたいと思います。


最後にもう一つ、トキ・アートスペースで開催されている『森岡純 展』という写真作品の展覧会です。残念ながら展示は今日で終了となります。
http://tokiart.life.coocan.jp/2022/220301.html
実を言うと、私は一般的に評価の高い写真作品というものが、ちょっと苦手なようです。美しい風景写真を見ると、その撮影の苦労がしのばれますし、技術的にも高度であることぐらいは理解できるのですが、それが完璧であればあるほど作りものの世界を見るような距離を感じてしまうのです。
しかし、森岡さんの写真は、いわゆる写真作品の鑑賞とは全く違う意識で見ることができます。それは森岡さんの作品をご覧になれば、すぐに合点が行くと思いますが、私なりの思いを書いておきます。
先ほども書いたように、写真作品というと私たちは写真らしい構えを感じてしまいますが、それは私自身が写真を撮るときでも同じです。日頃、何気なく見ているものを自然に切り取ってみたいと思っても、カメラやスマホを構えると一瞬のうちに何か別の意識が働きます。とくに私のように、下手くそでも絵をたしなんでいる者だと、何となく構図を整えてしまうのです。プロのカメラマンであれば、レンズから覗き込んだ世界がどういう表現に仕上がるのか、ということを即座に読み取ることでしょう。その作為がつまらない、というふうに感じたとしたら、どういうふうに写真を撮ったら良いのでしょうか。
森岡さんの写真を見ると、その作為のない一瞬を切り取ったような、そんな自然な感じを受けるのです。森岡さんだってカメラを構えてシャッターを押しているのですから、まったくの無作為などあり得ないはずです。ですから何か秘訣があるのだろう、と目を凝らして見るのですが、そんなものは何処にもありません。
例えば、私が仮に森岡さんと同じ場所に立ってカメラを構えたとしたら、こんな写真が撮れるのだろうか、と考えてみましたが、そうすると森岡さんのカメラがあらぬ方向を見ていることに気がつきました。建物を撮影しているのに、地面を写さずに中途半端に2階あたり?から見上げて撮った写真があります。あるいは歩道橋の上から、繁華街の道や建物を俯瞰するでもなく、かといって空を広く撮るでもなく、カメラを構えている視点の高ささえもあいまいなままにシャッターを切った写真がありました。
行き交う人並みをイキイキと写そう、とか高層ビルが聳える景観を美しく写そう、とかそういう発想が森岡さんにはありません。考えてみると、そういうことを表現しようとしている写真は、鑑賞者に無理やり感動を誘い、強要するような雰囲気があります。たぶん、私はそういう雰囲気の写真が苦手なのだと思います。
そして、世界をいかにそのまま受け取るのか、ということを無言で教えてくれる森岡さんの写真は、冒頭で書いたように美術史的な既成概念にとらわれずに世界を見る、ということに関して、大切な示唆を与えてくれている、と思います。そんなこと、考えてないよ、と森岡さんに言われそうですが、森岡さんの表現がそういう高みに達していることを書いておきたいと思います。


さて、私たちはどういう世界に生きていて、何を先人から受け取り、何を残していくのでしょうか。それを大袈裟に言えば「歴史観」とか「世界観」というものになるのですが、それが独りよがりで硬直したものであれば、現在のロシアの為政者のように取り返しのつかない災いをもたらすことになります。今はとにかく、このような戦禍が終わることを祈るばかりですが、私たち自身もものごとを深く学ぶと同時に、偏見のない絶えざる知識の更新に努めたいものです。
今回はタイプの異なる三つの展覧会から、そんなことを感じました。

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