佐川晃司さんが、ヒノギャラリーで4月2日まで展覧会を開催しています。
http://www.hinogallery.com/
佐川さんは私よりも半世代ぐらい年長の美術家ですが、若い頃より注目されていて、そのキャリアは相当長いものです。私が学生の時には、すでに美術雑誌で特集が組まれ、著名な評論家である藤枝晃雄(ふじえだ てるお、1936 -2018)と対談しているのを目にしたことがあります。そしてほどなく、京都精華大学の教師となられ、それから活躍の場を主に関西に移されたようです。
https://www.kyoto-seika.ac.jp/edu/faculty/sagawa-koji.html
したがって、佐川さんの作品を東京で見る機会は限られているので、現代絵画に興味がある方は、ぜひご覧になってください。
佐川さんの絵画の特徴は、真摯にモダニズム以降の絵画と向き合った、その制作態度にあります。そしてもちろん、高度な描画技術に支えられた表現力が、佐川さんの絵画を支えていることはいうまでもありません。
佐川さんの絵画を見ると、絵画と正面から取り組むことが普通のことのように思えるほど堂々とした印象を受けるのですが、佐川さんの少し後から絵画を描いてきた私のような者から見ると、それがどれほど困難なことであったのか、痛いほど良くわかります。佐川さんのような絵画を実現するには、美術家としての稀有な才能はもちろんのこと、それ以外にしっかりと腰のすわった信念が必要なのです。
そのことを実感していただくために、少々寄り道をしてみましょう。佐川さんが活躍しはじめた頃、現代芸術がどのような状況であったのか、若い方にも知っていただきたいのです。
佐川さんが活躍を始めた1980年頃というのは、前回も取り上げた藤井博さんの世代の作家たちが、物質を加工せずにそのまま作品の素材として活用する表現によって美術界を席巻し、それがあたりまえになっていた時代でした。「インスタレーション」と呼ばれる、画廊空間そのものを表現するような作品が画廊のあちこちでみられる一方で、絵を描いたり、彫刻を作ったりするような表現は、すでに終わってしまったものだと思われていたのです。
もしも絵画を描くのなら、絵画的な奥行きや構成をできる限り排除して、アメリカの美術評論家グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)によって提唱されたオールオーヴァー(カンヴァスを一様な平面として絵具で覆う手法)な絵画を制作する必要がありました。それを極端におし進めたのがミニマル・アートの絵画でした。グリーンバーグ自身は、ミニマル・アートの平面的な絵画を否定しましたが、彼のフォーマリズム理論を推進するなら、それは当然の帰結だったのです。
そのミニマル・アートとは、どんなものでしょうか。「ミニマル・アート」は「1950年代後期〜60年代前半に出現し、美術、デザイン、音楽の領域で、非本質的なフォルム、特徴、概念を排して、欠くことのできない本質的なものを表現する」ということを主旨とした「ミニマリズム」の考え方に基づく美術表現のことです。この「ミニマリズム」ですが、デザインや音楽、文学や映像などさまざまな領域でその活動を広げていきました。
簡潔にそのことを知りたい方は、次の美術手帖の次のサイトを参照してください。私もそこから先ほどの文章を引用しました。
https://bijutsutecho.com/artwiki/106
その代表的な美術家がドナルド・ジャッド(Donald Judd、1928 - 1994)です。彼の工業製品の箱のような作品は、まさに作家としての表現度をゼロに近づけた「ミニマル(最小限の)」な表現だと言えるでしょう。その作品を無味乾燥なものだと思われる方もいるでしょうが、芸術に対する理念を妥協せずに表現しているという点で、「美しさ」と同時に「純粋さ」も感じられる作品だと私は思います。
https://www.artpedia.asia/donald-judd/
この「ミニマリズム」という動向は、ある意味では「モダニズム」というもっと大きな理念を形として表現したものだと言えるでしょう。モダニズムの理念とは、ものごとの本質だけを取り出して、それ以外の余計なものを捨てることで、究極の効率性を求めるものだからです。そのモダニズムがもたらす科学的な発展が私たちの日常生活における利便性を高め、いつしか私たちは意識しなくても「モダニズム」的な考え方をするようになりました。例えば、仕事の上で無駄だと思われることを省略し、生産性を上げて利潤を高めることについて、誰もが必要なことだと感じているでしょう。
芸術表現にとって何が無駄で何が必要なのか、ということは難しい問題ですが、少なくとも1980年頃までは、素材を加工せずにそのまま設置する表現方法や、平滑な色面によるミニマルな絵画を描くことが切実に求められた時代でした。そのことについて何回もこのblogで書いてきたことですが、その時代の雰囲気はどこか息苦しいものがあり、絵画を描きたいと思う表現者を疎外するものがありました。
今の若い方はそんな時代の雰囲気とは無縁ですから、ミニマル・アートをスタイリッシュなものとして、つまりカッコイイものとして受け止められているのかもしれません。モダニズムの建物の箱のような部屋、例えば白い壁に囲まれたモダンなオフィスの一室に置くには、ミニマル・アートの作品は格好のディスプレイにもなり得ると思います。デザインの分野で、ごちゃごちゃした装飾よりもミニマリズムのシンプルなデザインが好まれる、ということも特別なことではありません。
しかし、もしもあなたが絵が好きで、そして描くことが大好きで画家になろうとしているのなら、そんなファッショナブルなことばかりを言ってはいられません。完全な平面で絵を描くというのは、絵を描かずにただ平滑に色を塗るということです。たとえそれがどんなに見栄えの良い作品であっても、ただ平滑な色を塗るばかりでは制作者として行き詰まってしまいます。それに、そんな作品が本当に芸術作品として尊いものでしょうか?
そんな画家の苦悩を、例えばミニマリズムの代表的な画家であったブライス・マーデン (Brice Marden, 1938 - )の作品から見ることができます。
https://www.wikiart.org/en/brice-marden/the-dylan-painting-1966
「BRICE MARDEN FAMOUS WORKS」の文字の下の、彼の作品画像を右の方へとめくっていってください。東洋の「書」のような作品へと移行していく様子がわかります。その作品は平滑な色面を捨てて、線の交錯する表現へと変わっていきました。それでもマーデンは、かろうじて「オールオーヴァー」な表現を維持することで、彼なりにモダニズム芸術の継承を試みているのです。
このようなブライス・マーデンの変容を肯定的に受け止めるのか、それともミニマリズムからの「変節」として否定的に受け止めるのかは、評価が分かれるところでしょう。しかし、1980年代以降、モダニズムからの「変節」どころか、ポスト・モダニズムという名目で落書きのような作品が流行したことを思えば、ブライス・マーデンは真面目に絵画と向き合った、真摯な画家だと言えると思います。
さらにもう少し感覚的に「ミニマリズム」をとらえていただくために、音楽における「ミニマリズム」、つまり「ミニマル・ミュージック」の例をちょっとだけみて(聞いて)おきましょう。「ミニマル・ミュージック」は、音の動きを最小限に抑え、パターン化された音型を反復させた音楽です。その事例となる音楽家を二人ほどあげておきましょう。
フィリップ・グラス(Philip Glass, 1937 - )は、アメリカの作曲家で、ミニマル・ミュージックの代表的な音楽家です。グラス自身はこの呼び名を歓迎していないとも言われますが、単調な旋律が繰り返しているように聞こえる彼の音楽は、「ミニマリズム」を体現しているように聞こえます。
https://ciruelorecords.com/?pid=165053096
もちろん、ずーっと同じ音の繰り返しではなくて、微妙に音にずれが生じてくるのですが、私のような素人が聞くと退屈な感じを否めません。ただし、私はシンガー・ソングライターのポール・サイモンのレコードで、グラスがアレンジした曲を聞いたときに、これは素晴らしいと思いました。『The Late Great Johnny Ace』という曲の最後のオーケストラ演奏の部分です。よかったら、次の曲を最後まで聞いてみてください。
https://youtu.be/6DMIVZtbrGA
それからもう一人、スティーヴ・ライヒ(Steve Reich、1936 - )の音楽を聞いてみましょう。『木片のための音楽(クラベス五重奏/Music For Pieces Of Wood For 5 Pair Of Tuned Claves)』は、楽器そのものがシンプルな木片だということで、まさにミニマルな音楽です。
https://www.music8.com/products/detail45717.php
それから比較的最近のライヒの作品を聞いてみましょう。意外と聞きやすいもので、現代音楽というよりはジャズに近い感じがしますね。
https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/18050
だいたい、感じがつかめましたか?
それから文学にも「ミニマリズム」があります。
村上春樹が翻訳したことで日本でも有名になったレイモンド・カーヴァー(Raymond Clevie Carver Jr.、1938 - 1988)が、ミニマリズムの代表的な作家の一人だと言われています。「ミニマリズム」の文学は、例えば小説であれば、そのストーリーに大きな展開がなくて、日常的な生活が淡々と綴られていくものです。しかし私には、カーヴァーの小説にはちゃんとしたストーリーも、物語の展開もあるような気がします。日本の私小説を読み慣れたせいでしょうか・・・。
そして初期の村上春樹の小説も、ミニマルな雰囲気があります。『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』は、小さなエピソードがつながっていくようで、物語の中心もクライマックスもないミニマルな小説だと思います。ところが三作目の長編小説『羊をめぐる冒険』になると、大きな物語が動き出します。「冒険」というタイトルに相応しい、ミステリー小説のような要素が入ってくるのです。それが同時期のアメリカの小説、例えば偉大な物語作家であるジョン・アーヴィング(John Winslow Irving、1942 - )のような作家の出現とリンクしていたような気がするのですが、どうでしょうか?村上春樹自身も、いち早くアーヴィングの初期の長編小説『熊を放つ』を翻訳して、日本に紹介しています。余談ですが、アーヴィングの『ガープの世界』、『ホテル・ニューハンプシャー』は、小説も映画も大ヒットしました。若い方でご存知ない方は、ぜひ読んだり、見たりしてみてください。私は、『ガープの世界』は小説の方が、『ホテル・ニューハンプシャー』は映画の方が面白いと思っています。
さて、佐川晃司さんの作品に話を戻します。
佐川さんについて、とても興味深いホームページを見つけました。絵の具会社のホルベインが作っているページのようです。ぜひ、ご一読ください。
https://www.holbein.co.jp/dcms_media/other/bt_0901.pdf
このページの中で、ここまで私が書いてきたように、佐川さんが絵画を描き続けてきたことがいかに稀有なことであったのか、佐川さんの言葉も引用しながら書かれています。そのきっかけの一つに1980年に藤枝晃雄が企画した絵画展で、辰野 登恵子(たつの とえこ、1950 - 2014)さんの作品を佐川さんが見たことがあげられています。その作品とは、次の作品でしょう。
https://www.gazaizukan.jp/fujicolumn/index.php?indid=149
このページは、以前に佐川さんと一緒に展覧会を開いた美術家の藤村克裕さんのblogですが、こちらもぜひご一読ください。このように、インスタレーション作品やミニマル・アートが隆盛の時代に、辰野さんから佐川さんへと数少ない優れた絵画表現がバトンを渡されるようにつながっていったことに、私は感動を覚えます。
その佐川さんの作品を、具体的に見ていきましょう。
実物の佐川さんの絵を見ると、表面的なシンプルな構造とは裏腹に、複雑で広がりのある画面がその下に隠されていることに気が付きます。佐川さんの作品は、いく層もの絵の具の重なりによって成り立っていて、その下の層の絵の具の色が、油絵具の透明感と目の粗いキャンバスの凹みの部分によって、透けて見えるように仕組まれているのです。どうしてそんな表現が可能なのでしょうか?私の推察を書いておきます。
佐川さんはおそらく、初めにキャンバスの凹みの部分にも絵の具がまわるように、やや薄く油で溶いた絵の具で絵を描き始めるのです。その時の画面は、最終的に見える画面よりも、もっと複雑で自由に色が広がっているに違いありません。その上から、エスキースによって検討した画面構成を、徐々に描き出していくのです。絵の具の濃度は少しずつ濃くなり、最終的に塗られる油絵具は、ほとんど油で溶かずに硬めのままなので、目の粗いキャンバスの凸面にしか付着しません。このような制作手順によって、描き始めから最後の仕上げまでの痕跡が、層状になって見えてくるのです。
このような段階的な描写によって、ミニマルな構造と複雑な広がりの双方が影響し合って鑑賞者の眼に飛び込んでくるような、不思議な構造の画面が出来上がります。今回の展示では手前の部屋と奥の部屋の、それぞれ部屋に入って正面の壁に『半面性の樹塊』という作品が展示されています。手前の部屋の作品では佐川さんの自由な色使いが強調されていて、奥の部屋の作品ではシンプルな形象が強調されています。手前の部屋の作品のバランスの良い色彩感も佐川さんの魅力なら、奥の部屋の作品の複雑な青の美しさも佐川さん特有のものです。とくに奥の部屋の作品の青い色は、美しいと同時に眼の中で広がっていくようにも感じられます。これは先ほどから言及している、隠された下の層の絵の具の色と上層の青との響きあいによって得られる効果です。
それでは、このような広がりのある画面の実現がどうして佐川さんには可能なのでしょうか?
一つには、佐川さんの絵画のシンプルな形象が、佐川さんの的確なデッサン力によって成り立っていることと関わりがあります。今回の展示でも、『半面性の樹塊』のエスキース(試作)だと思われるデッサンが展示されていますが、これも素晴らしい作品です。「樹塊」と佐川さんが言うところの木立の集まりが、シンプルなフォルムとして形成されていく過程がわかるような気がするのです。最終的にはシンプルなフォルムであっても、風景そのものの広がりを感受しながらデッサンしているので、その形象にも広がりが反映しているのです。このことについては、また後で触れることにします。
そしてその形象のことだけでなく、佐川さんの色彩の漸次的な変化がその空間の広がりの原因であることも、見逃してはいけません。この色彩変化がとても緻密に見えるのですが、それは佐川さんの優れた描写力、すなわち色を見る力、表現する力によって練り上げられたものなのです。あたりまえのことですが、抽象絵画といえどもデッサン力も描写力も必要なのです。それらの力量が不足している絵画は、無神経に色が変化し、画面がスカスカになってしまうのです。画面に密度がなければ、空間の広がりも生まれません。そのことについて、思い出したことを書いておきましょう。
私は数年前にある有名な現代画家の回顧展を国立美術館で見て、佐川さんの作品とはまったく逆の印象を持ちました。一見すると華やかな彩りの絵画が並んでいて、遠目に見るととても見栄えが良いのですが、いざ鑑賞しようと思って近づいてみると、じっと見続けられる絵がないのです。色の変化は大雑破で、一瞥したとき以上の魅力を放ってはいません。絵の具の層の重なりも予想外に単調で、佐川さんの作品のようにそこに新たな発見がないのです。その画家は佐川さんと同年輩の方ですが、両者を比較してしまうと力量の差が歴然とあると思います。記憶に基づく印象なので、お名前をあげて批評するだけの自信がありませんが、佐川さんの作品を前にして、じーっと佇んで画面を見ていると、その時のちょっとがっかりした思いがよみがえってきました。絵画というものは見れば見るほど新たな発見があって、目の中でそれが心地よい広がりとなって、その絵の前から離れ難い気持ちになるものが好ましい作品だと私は思います。そのもっとも良い例はセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)の絵画ですが、おそらく佐川さんも私と同じ思いを抱いているのではないでしょうか。そのように推察できる理由がありますので、佐川さんの絵画についてさらに探究しながら、そのことに触れてみましょう。
佐川さんの作品の魅力の中で際立っているのは、くり返しになりますが作品の中の空間が大きく広がっていくように感じられることです。その広がりは、良質の風景画を見るときに感じる心地よさと同質のものだと思います。そしてそれは佐川さんがエスキースを描く段階で、具体的な風景を想定していることと関わりがあるのです。もちろん、風景画の中にもそのような広がりが感じられない絵も山ほどありますので、風景を想定しさえすれば絵に広がりが出てくるわけではありません。ですからこれは佐川さんの絵画に見られる特有の現象なのですが、このことを探究する上で先ほど紹介したホルベインのページの文章の、とくに末尾の部分と大いに関係があります。よかったらもう一度、この文章を読み返してみてください。
https://www.holbein.co.jp/dcms_media/other/bt_0901.pdf
読んでいただけましたか?佐川さんが夕暮れの逆光の中で、木立のかたまりのシルエットの中に平面性と量感の双方を同時に感じ取った、というエピソードがとても重要です。そこには平面的な広がりと、充実した量感という一見矛盾するような表現上の要素が、同時に佐川さんの視界に入ってきたのです。そしてさらに重要なのは、佐川さんがそれを一枚の絵として実現するということだけでなく、その実感とともにこれから絵を描いていこう、すなわちその実感とともに生きていこう、と決断したことです。一枚の絵を巧妙に描くことが目的ではなくて、その実感を生きることが佐川さんの人生となったのです。どうして、こんな判断が佐川さんには可能だったのでしょうか?
それが現象学者のモーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)の著作『眼と精神』から学んだことなのです。『眼と精神』はセザンヌを中心とする近代絵画の考察を進めながら、それまでのデカルト的な哲学を批判して新たな思考を切り開いていく、という感動的な本です。学生時代にこの本を読んだ私は、これを画期的なセザンヌ論として読みました。そして、何回かポンティとセザンヌについて文章化することを試みてきました。佐川さんもポンティがこの本の中でセザンヌに触れている部分を読んで、絵画でしか表現できないことがあるのではないかと考えた、ということが書かれています。これは先ほどの辰野さんの絵画との出会いと同様に、なかなか感動的なエピソードだと思います。一冊の哲学書が、一人の優れた画家の人生を示唆していく力があって、現実に私たちはその豊かな成果を佐川さんの作品として見ているのです。そう思うと、本の言葉の重みを実感することができます。
それにしても、佐川さんはどうしていつもこのような、的確な判断ができたのでしょうか。それは知性によるものでしょうか、それとも直感によるものでしょうか?現代の画家には、その両方が必要なのかもしれません。この佐川さんの画家としての態度そのものが、佐川さんの作品と同様に奇跡的なものだと私は思います。そして佐川さんのような真摯な画家の作品は、その画家の人生そのものを表しているのだと、あらためて実感しました。それはインターネット上で、画像を見ながらちょっといい感じの絵をチョイスする現代にありがちな芸術に対する態度とは、正反対のものなのです。
さて、これから絵画を志す若い方には、ぜひとも佐川さんの作品を直に見ていただきたいと思うものですが、だからと言って佐川さんのような作品を描いてもらいたい、とは思いません。佐川さんや私の生きた時代は、絵画を描くことが狭い隘路をくぐり抜けるようなものだったので、佐川さんの作品はその時代の数少ない貴重な解の一つなのです。もしも若い方がその時代と同じ前提に立ってしまうと、絵画を描くことに絶望してしまうか、あるいは佐川さんと似たような絵を描くしか選択肢がないと思ってしまうかもしれません。
そうではなくて、これからの時代を生きる方は、佐川さんの切り開いた地平を前提にして絵画を制作していただきたいと思います。絵画にはさまざまな可能性があり、そのもっとも絶望的な時代にあっても、その事実だけは変わりませんでした。だから古典からモダニズムまで、どんなに深く絵画を勉強しても、その先には開かれた希望しかないはずなのです。先人を学ぶことは表現を深める上でぜひとも必要ですが、そこから先は先入観を持たずに自分の道を進んでいきましょう。私はそういう作品をたくさん見て、応援していきたいと心から願っています。
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