平らな深み、緩やかな時間

72.「絵について語ること③」「田中恭子展」の文章について少しだけ

「絵について語ること②」までで話題にしてきたような、「歴史の終焉」、「芸術の終焉」、「絵画の終焉」といった大それたことを語っていくと、このようなことは西欧の思想や芸術において起こったことで、そもそも日本にいる私たちにとって「歴史」や「芸術」、「絵画」といった確固とした概念が、正当に認識されたことがあったのだろうか?という疑問がわき起こってきます。
次の文章は美術や絵画に関するものではないのですが、日本の文化のあり方について重要な認識を示すものだと思うので、引用してみます。

わたしたちの詩歌の歴史は、いつかどこかでとてつもない思いちがえをしてしまったらしい。これは、たえず優位な文化から岸辺を洗われてきた辺境の島国という歴史的な宿命を負ってきたことを考えると、痛いほど身に沁みて感じられることだ。わが国では、文化的な影響をうけるという意味は、取捨選択の問題ではなく、嵐に吹きまくられて正体を見失うということだった。そして、やっと後始末をして、掘立小屋でも建てると、まだ土台もしっかりしていないうちに、つぎの嵐に見舞われて、吹き払われる。もちろん、その度ごとに飛躍的な高さに文化はひきあげられた。でも、その高さを狐につままれたように、実感の薄いままに踏襲しなければならなかった。
(「初期歌謡論/Ⅱ歌謡の祖型」吉本隆明)

これは和歌に関する文章ですが、学生時代にこの本を読んで、内容はちんぷんかんぷんだったのに、この一節だけは妙に心に残りました。和歌の長い歴史でさえ、「掘立小屋」という比喩で語られてしまうことに衝撃を受けたのです。西欧絵画の影響のもとで歩み始めた近代絵画のことを考えると、「掘立小屋」でさえ、建てることが出来たのだろうか、とあらためて考えてしまいます。前回も引用した、阿部良雄はこのことについて次のように書いています。

まして日本の場合、そもそも「美術史」の名に値するもの、いや「美術」そのものがこれまで存在したのかどうかを疑問に付した上で、現在、作家あるいは批評家の拠って立つべき地点を設定し直す必要があるという問題意識すら、深刻なものとして発生し得るのだ。そうした意識すら、終焉した<歴史>とともに葬送して、すべてを作家あるいは発話者の、きわめて個別的であることがそのまま普遍的―少なくとも「国際的」―でしかあり得ないような状況に還元してしまえばよいのかどうか。おそらくこれは、回答不可能なまま抱えこんでゆかなくてはならない問題であるだろう。
(『モデルニテの軌跡』「あとがき」阿部良雄)

このように、日本において「美術」が存在しなかった、などということは、ふだん私たちは意識していないのではないでしょうか。そもそも、絵をながめるときに自分が日本人であることを意識することはまれでしょう。例えば、日本人はフランスの印象派の絵画が好きだと言われています。モネやゴッホなどはすでに日本人にとって馴染の画家ですし、彼らの絵画を見るときに「私たちはいま、日本人としてヨーロッパの絵画を鑑賞している」というようなことを考える人はいないでしょう。むしろ現代の私たちにとって、日本の書画を見るときの方が特別なことなのではないでしょうか。「やはり、日本の絵画はいいなぁ」とか、「日本の書の良さがわかるのは、自分が日本人だからだろうか?」などと考える時、心のどこかでふだんよりも「日本」的なものを意識している自分を感じます。それだけ私たちの生活は西欧化しているのです。
しかしその一方で、美術史として日本の近代から現代の絵画をながめるとき、そこにどこか付け刃的な印象を受けるのも事実です。本格的な研究者や作家から見れば、阿部良雄の書いている通り「美術史」に値するものが日本には存在しない、ということも一理あるのだろうと思います。それならば西欧の美術にだけに目を向けていればよいのか、と言っても、それではいつまでたっても隣の芝生をながめているだけ、という情けない立場になってしまいます。第一、私のようにかりに表現を志してみよう、という者とっては、自分のよって立つものが存在しない、ということになれば困ってしまいます。「現在、作家あるいは批評家の拠って立つべき地点を設定し直す必要がある」と阿部が書いているのも頷けます。
もちろん、このようなことは賢明な美術史家たちはずいぶんと考えてきました。日本の美術史家としてもっとも著名な、かつて国立西洋美術館の館長を務め、現在大原美術館の館長である高階秀爾(1932- )も、西洋美術に関する著作を著すかたわら、『日本近代美術史論』(1971)のような日本の近代美術に関する著作も多数書いています。そして西洋美術を本格的に研究する者から見て、日本の美術がどのように見え、それをどのように考えたらよいのか、私たちにさまざまな示唆を与えているのです。例えば『日本近代美術史論』の中の論文「高橋由一」の中で、由一の『花魁』という作品について次のように書いています。

私が高橋由一の『花魁』を初めてじかに見ることができたのは、五年間にわたる欧州滞在から日本に戻って何年か経った後のことであった。むろんそれまでにも、日本近代洋画史の冒頭に登場するこの作品のことを知らなかったわけではないし、上出来とは言えないまでも色刷りの複製で自分なりに作品の概念を形作ってもいた。しかし、鎌倉の近代美術館の展示室で現実に作品に接した時、私は自分のそれまで持っていたどこか漠然とした作品のイメージが、急に透明なものとなって音もなく崩壊して行くのをはっきりと感じた。私の前にあったのは、まったく見も知らぬ他人のように冷たく強烈で、不気味でさえもある別のものであった。それは、ほとんど驚愕に近い新鮮な衝撃であったと言ってよい。そして、むろんその衝撃は私にとって不快なものではなかった。私はいつかこの作品の前で快い興奮にひたっている自分を幸福に感じていた。
(『日本近代美術史論』「高橋由一」高階秀爾)

自分がイメージしていた作品とは異なるものと出会い、予想を覆すような「違和感」を感じるということ、これは優れた芸術作品と接するときに誰もが経験することでしょう。私たちはそのときの「快い興奮」と出会うために、わざわざ美術館や画廊に出かけて行って、未知の作品と触れあうのだ、と言ってもいいのだと思います。しかし、高階がここで言いたいのは、そのような芸術に関する一般論とは異なるものです。
高階は、高橋由一について美術史家が語るとき、由一が西欧絵画の技法をどこまで習得できたのか、つまり技術的な問題として由一の絵画を語ることが多いのだが・・・と断った上で、自分が『花魁』に感じた「違和感」は、技術の問題だけでは語り尽くすことができない何か感覚的なもの、つまり由一の「感受性」が問題なのだ、と言っています。少し長くなりますが、『日本近代美術史論』からその説明を引用してみます。

私がこの画面の前で「いや、そんなはずはない」と感じたというのは、単に西欧の技法一般とのずれを感じたからだけではなく、西欧の油絵という技法の奥にある感受性とは明らかに異質の感受性がそこにあり、しかもその異質の感受性が、本来それにふさわしい乗り物ではない油絵という技法に乗って見る者に伝えられて来るというそのことに由来するように思われる。つまり、由一の作品が、少なくとも『花魁』が、われわれに投げかける問題は、決して単に技法の習得の程度の問題ではなく、異質の感受性のぶつかりあいの問題なのである。
例えばこの『花魁』の豪奢な衣装の表現を見るがよい。毛皮のついた裲襠(うちかけ)の紫がかった黒と赤、それに胸許の白い襟や茶褐色の毛皮などの鮮やかな色の対比、または漆黒の髪に無惨なほど差しこまれた鼈甲の櫛と多数の笄(こうがい)、簪(かんざし)、そして兵庫下髪と呼ばれるこの髷(まげ)を結ぶ白い水玉模様のはいった青い手がら等々に見られる色彩配合は、ルネッサンス期から現代までの西欧のどのような感受性ともおおよそ無縁のもののように見える。まして、毛皮の部分の表現などにかなり筆跡の濃い厚塗りの部分があるにもかかわらず、この画面が全体としていちじるしく平板な-ほとんど不自然なほど平板な-印象を与えるのも油絵特有の「迫真的な写実性」を追求したはずの明治期の洋画家というイメージにそぐわない何かを私に感じさせる。
しかも重要なことは、『花魁』の画面の持つそのような「平板さ」や、西欧的なヴァルールの調和を無視したような色彩の併列が、決してただ油絵技法の習得の未熟さによるものではなく、逆に油絵本来の感受性とは異質の感受性によって強く支えられていることである。それというのも、『花魁』の背後にあるその異質な感受性の存在を、私自身、自分のなかにはっきりと認めるからである。
(『日本近代美術史論』「高橋由一」高階秀爾)

ながながと引用したのは、高階の言う「感受性」が単なる印象的なものではなく、作品の細やかな分析によるものであることを書き留めておきたかったからです。日本の近代美術の誕生期に、このような「西欧的なヴァルールの調和を無視したような色彩」が存在したということ、そのことを自らの著作の冒頭においた高階の気概のようなものを感じます。しかし、この内容についてすべて肯定するかどうかは、また別な話です。私見になりますが、私が日本の近代美術に接してきた貧しい経験から言わせていただくと、日本の画家はおおよそ「西欧的なヴァルールの調和」について鈍感です。そして日本の近代絵画の成功例は、「西欧的なヴァルールの調和」があまり問題とならないような作例に多い、と私は考えます。例えば同じ高橋由一の傑作といわれる『鮭』ですが、奥行きのない平たい空間の中で、鮭の切り身という地味で平面的なモチーフを描いたものです。この場合、画家の手腕は「ヴァルール=色価」を調和させることに発揮されるのではなく、限定された条件(地味で平面的)の中で、いかにモチーフを写実的に描写できるのか、ということに費やされます。他の事例をひくと、青木繁(1882-1911)の『海の幸』なども同じ構造です。この絵の背景は広大な海ですが、これは奥行きのある西欧的な空間の海ではありません。芝居の書き割りのような平面的な空間と言ってよいでしょう。
これ以上、この話題に深入りすると、膨大な日本の近代絵画をすべて検証しなければならなくなるのでやめておきますが、要するに私の感じたことは、由一の「西欧的なヴァルールの調和を無視したような色彩の併列」を日本独特の「感受性」として、つまり表現の強みのようなものとして語ってよいのかどうか、という躊躇です。そして、そんな心配をしていると、幸か不幸か、この「感受性」の神通力は由一においてもほどなく失われてしまう、と高階は書いています。

事実、晩年の風景画における由一は、『花魁』や『鮭』の由一に比べると、恰も神通力を失った魔術師のように見える。『花魁』や『鮭』の奇蹟はもはや二度と繰り返されることはない。日本の近代絵画は、良くも悪くもこの神通力を失ったところからあらためて出発しなおさなければならなかったのである。
(「日本近代美術史論/高橋由一」高階秀爾)

由一の作品は、その西欧絵画習得の習熟度に応じて、かつての輝きを失ってしまいます。少なくとも高階にはそう感じられたのでしょう。そして「日本の近代絵画は、良くも悪くもこの神通力を失ったところからあらためて出発しなおさなければならなかった」ということになります。

さて、その後も近代日本の美術史を紡ぐ人たちのなかには、高階のように日本の美術に独特のものを探索していく例が見られます。良心的な美術史家であれば、それは使命感のようなものになっているのかもしれません。私もそのような本からいろいろなことを学んできましたし、今後もそのことについて私なりの考え方を書かなければならないでしょう。
それはさておいて、一人の美術家として日本の近代美術について考えるとき、私なりの見解、というか私なりの受け止め方というものがあります。それはいまを生きる人間として、日本の近代絵画をどこまで自分の表現にかかわるものとして受け止めるのか、ということです。例えばさきほど、私は「日本の画家はおおよそ、西欧的なヴァルールの調和について鈍感」だと思う、と書きました。私自身も、その例外ではありません。しかし、それではヨーロッパの現代美術家は、「ヴァルールの調和」についてどれほど鋭敏なのでしょうか?ヨーロッパの作家であっても、昔のような美術教育を受けてはいないでしょうし、伝統的な絵画に触れる機会が少なかった作家もたくさんいるでしょう。実際に、「ヴァルール=色価」の意識について私とたいして違いはないだろう、と感じるヨーロッパの画家の作品もたくさんあります。それがよいとか悪いとかいうことではなく、一人の作家として現在、表現をするにあたり、その責任を美術史的なものに転嫁することはできない、ということなのです。過去から学ぶことも大事ですし、ときに自国の美術の流れから自分の位置を推し量るということも必要でしょう。しかし、「現在、作家あるいは批評家の拠って立つべき地点を設定し直す必要がある」と阿部良雄が書いたようなことは、自分の表現を前進させるために役に立つのなら積極的に考えればよいし、そうでなければ仮に曖昧であっても自分なりに前に進むしかないと私は考えます。「回答不可能なまま抱えこんでゆかなくてはならない問題」だと阿部は書いていますが、それは立ち止まって停滞する、ということではないはずです。

最後に、この話題に関連して最近、気がついたことについてふたつだけ書いておきます。
ひとつは、もう終わってしまった展覧会ですが、東京の秋山画廊で10月に開催していた『田中恭子』展についてです。田中恭子の展覧会については2012年にも、このblogで触れています。そのときも本人の書いた文章を引用したのですが、今回も、とても興味深い文章が展覧会に付されていました。

物とそのものが存在する際(きわ)を何とか絵画表現したいと追及していった中で生まれたのが画面のなかのたてとよこのかたちです。絵画制作するときには絵画の持つ正面性というものがいつもついてまわる。又同じように物の「うしろ」ということも同時に意識される。そしてそれは制作する者の身体につながる動きではないだろうか。
(『田中恭子』展 パンフレットより)

もう、おわかりだと思いますが、物の「うしろ」を意識しながら画面上に色を置くこと、これが現代絵画において「ヴァルール」の問題に取り組む大事なポイントだと思います。絵画の平面性ばかりがけたたましく強調される現代絵画のなかで、「奥行き」という言葉はなかなか使いにくいのですが、しかし「奥行き」を意識しなければ、絵画はただの平面になってしまう、と私は考えます。田中恭子はミニマル・アートに通じる表現をくぐり抜けて、絵画についてねばり強く思考していった結果、古典的な絵画の「奥行き」にあたる「うしろ」の意識に到達したのだろうと思います。私は彼女の作品のなかで、とくに絵の具が重ねられた部分に興味がわきます。手前に見える絵の具の色だけではなく、背後に隠れた「うしろ」の色が意識されていることが、感受できるのです。

そして、さらに強靱な意識で絵画について思考していったのが、画家の中西夏之氏ですが、新聞等でも報じられたように、先月亡くなりました。このblogでも何回か氏の作品を取り上げて書かせていただきましたが、もうその新作が見られないというのは、何とも言いようがなく悲しいことです。私は中西氏と面識がなく、その作品を追いかけるだけの一人のファンに過ぎませんが、彼こそは絵画の「ヴァルールの調和」について深く考えて表現した画家だと考えています。「すべてを作家あるいは発話者の、きわめて個別的であることがそのまま普遍的―少なくとも『国際的』―でしかあり得ないような状況に還元してしまえばよいのかどうか」という阿部良雄の問いに対し、「状況」云々ではなくて、彼こそは「個」であることが「普遍的」であり、「国際的」であった希有な画家だと言ってよいのだろうと思います。私は中西氏の作品を日本の近代美術史のなかでどのように位置づけるのか、ということにはほとんど興味がありませんが、彼の絵画の成果をどのように受け止めるのか、ということにはとても興味があります。というよりも、とても重たい宿題ですがそのことを抜きにして過去や現在から学ぶことなど、何もないだろう、とさえ思います。

ということで、次回以降も絵画について、考え続けていきたいと思います。

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