俺は団塊の世代だが、学生時代の家賃に思い出が多い。
家出同然に大型のリュックサック一つで、山友達の三軒茶屋のアパートに同居した、現在の言葉ではシェアに近いだろうが実は居候だ。
約2ヶ月住み、学費稼ぎに三軒茶屋駅地下鉄工事の作業員に成り、二子玉川の飯場に住んだ。夜の作業で危険だが賃金も良いし飯付きに宿付きだ。
書きながら思ったが、にんぷとはんばは即座に漢字に翻訳出来なかった、昭和の死語の部類に属するのだろう、未だ二子玉川に高島屋しか無い田畑だったのだ。
等々力に3畳の部屋を借りた奴が居たが、新築でも万は超えて居ない。
我らは普通四畳半にキッチン付きでトイレ風呂は無かった、広くて六畳だ今風では1K即ち小部屋kで、やっと駄洒落がムーンで理解出来ましたか。
20年前に我が息子が阿佐ヶ谷に住んだが、家賃七万円を超すのには驚いた。
もう少し安い所に住めと思ったが、ケチな親父と言われるのが怖く止めた。
今、環状線駅の近くで三畳の1Kがブームと聞く。でもベット生活には狭く感じるが眞の子がお気に入りなら、認める以外無いだろう。
秋を偲び聞こえ亡き様に奥様の鐘は動かなかったと信じたいが、裏で打つ奴は必ず居るのだ、それが不思議なピンクテクニックスタジアムドームなのだ。