ネコのリンちゃんと、家族。たまの休日にする釣りと、ラーメンのブログです。
リッキーパパのひとりごと
回顧録 (長編大作)
いまから約45年前、広島県の尾道市でリッキーパパは生まれた。
よく、「おまえ、どこで生まれた?」「おれ、矢追3丁目!」
「うそつけや、病院のベッドの上じゃろうがー」
などという小学校の同級生がいたと思う。
しかし、リッキーパパは自分の家で生まれた。
その生まれた部屋が、やがて自分の部屋となった。
そう、今では珍しい 産婆さんばさんの手によって生まれたのだ。
結婚して2年目ぐらいに私は奥さんを連れて、自分を取り上げてくれた産婆さんに会いに行った。
すると、「おーおーあんたかぁ ○○さん家の2番目の子供か」
なんと、その産婆さんは自分が取り上げた赤ん坊の日記をちゃんと付けていた。
おどろき!
話を戻して、6歳までは尾道で暮らしていたが、ある日のこと、父親が、「オイ!引っ越すことになったから、なかよしのター坊にさよなら言ってこい」
「わかった!」
次の日、ター坊の家に行くと「ター坊!バイバイ」っと元気よく手を振って帰った。
(引っ越しの意味もわからずに)
おもちゃを段ボールに入れろ!と言われてその通りにし、どんどん広くなっていく部屋を見ていたら、だんだん不安になってきた。
車に乗って自分の見たこともない町に着いた。広島だった。
「あんたはこれから○○南小学校に入学するんだよ!」
「ター坊は?」
「あの子は尾道の小学校よねぇ」
「えっ?」
ここではじめて引っ越しの意味を知る。
そんな悲しみも数日で消え、やがて小学校の2年生になる。世間では「柔道一直線」や、「おれは男だ!」などの番組が流行していた。
そんなとき、父親が「おい!。引っ越すことになったぞ」「えっ?」
「仲良しの ひでこチャンにさよなら言ってこい!」
次の日、文房具屋さんに行って写真立てを買った。「ひでこチャン。引っ越すことになった。お別れだね。」
「じゃあ手紙を書くよ・・・」
初恋は引き潮のように消えていった。
今度は、山口県の宇部市。ここでは小学校の3年から5年生までいた。
5年生の同じクラスに すみこチャンという女の子がいた。
同じ班のその子は給食時間になると、パパの前に座るのである。
ここで給食早食いの私はひまを持てあまして、牛乳を飲んでるすみこチャンに ギャグをかますのである。
「さるのケツ!」とか、突然言うと
チャラリー 鼻から牛乳~ぅ♪
そう、笑いをこらえたすみこチャンは鼻から牛乳をたらしてしまったのだ。
そんなことが縁で彼女と仲良くなってしまい、いい感じ・・・・・
そんなある日、「オイ! 引っ越すことになったぞ!」
「ゲッ」
最後のデートに常磐公園を選び、観覧車に乗った。
宇部の恋は見送ってしまった観覧車のボックスのように、目の前を通り過ぎていった。
次に行ったところが島根県の出雲市。
ここで小学校6年生という小学校最後の一年を過ごす。そんなとき、となりのクラスのよし子チャンといつしか仲良くなってしまい、
たまたま父親も同じ仕事だったので、ご両家公認の仲となってしまった。
その当時、流行はやっていたものと言えば【自転車】である。
ブランドも「丸石自転車」「ミヤタ自転車」「ブリジストンサイクル」「ツノダ自転車」「ナショナル自転車」
などが子供たちにもてはやされていた。
特にブリジストンはトリアルタイヤという台形をモチーフにした全く新しいタイヤを開発し、
摩擦係数を減らしスピードをアップさせるという、当時の子供たちには何がなんだかわからないようなとにかくスンゲーものが搭載されていた。
さらに、「雨の日の制動力6倍!」をキャッチコピーに自転車にディスクブレーキをつけたモデルまで出た。
これには大人たちも舌を巻いた。当時町を走っていたカローラもサニーもドラムブレーキで、
ディスクブレーキなんぞはF-1マシンぐらいしか付いてていなかったような時代である。
(たぶん)
おまけに「フラッシャー」という、ウインカーとストップランプ、夜は2灯だとか、4灯のヘッドライトにテールランプ(車の後ろで赤く光っているやつ)も搭載され、
はては、ラジオ付きの自転車まで発売。(これは、セキネVX-GTO)
(自転車小僧の話に共感されたオジサン方がいらっしゃったら、御感想を・・・)
そんな、超高度経済成長を遂げる一方で、オイルショックという、世の中のトイレットペーパーが一気になくなる現象のさなか、
「おい!、引っ越すぞ!」
「こんどはどこ?」
・・・で、鳥取に行くことになる。よし子チャンには記念品として鉛筆立てをプレゼントし、最後に引っ越す日に会おう!と約束して・・・・
だが、当日、とうとう現れなかった。
キョロキョロ探し回っている自分はまるで
スーパーでトイレットペーパーを探す主婦のようであった。
出雲の恋は神話で終わった。
次に訪れた鳥取では多感な中学時代を過ごすこととなる。
さて、どの部活動に入ろうか?私は迷わず、テニス部に入った。
自己紹介の時、「私はこの部活に入ってデビスカップに出場したいです。」と、寝言のようなことを言い、先輩たちに大いに受けた。
自分で言うのも何だが、鳥取k中学校のエースにまで上り詰めた。
2年生の時の市大会の出来事だが、相手が3年生とも知らずに1回戦を勝ってしまった。
知らない生徒に「おまえら、すげーなぁ。あいつら3年生だったのによ!」と言われ、真実を知ったとたん、ガチガチに緊張してしまい、次の試合では同級生だったのに負けてしまう。
「ガラスのエース」と呼ばれるようになる。
そう、相手を知らずに対戦すると勝つのだが、「おめーらスゲーな。あいつらこの前の市大会で3位だった奴らだぜ!」なんて聞くと、「俺たちと試合しないか?」(・・・市大会1位のペアに申し込まれ)結果はおわかりだろうが、負けてしまう。
そんな、自分は何が得意で何を生かせばよいかわからない中学時代も終わりかけの3年生3学期のある時。
同じクラスのひとみチャンとなぜが相思相愛の仲になった。
なぜだかわからないが、仲間からも いいなー といわれる「さわやかカップル」になっていた。
そんな卒業間近な頃、「おい!、引っ越すぞ!」「今度は岡山?」
「ピンポーン 正解!」(父親)
鳥取の恋は、右手を高々と挙げて白ウサギに背を向け遠ざかる大国主命(おおくにぬしのみこと)のように通り過ぎてしまった。
さて、この頃、流行していたものと言えば、「ラジオ」である。しかもカセット付きのものが大変もてはやされた。
ブランドは、ナショナル、アイワ、ソニーなどである。
すごいシェアーを誇っていたのがナショナルで、ラジオだけなら「クーガー」という、ごっついアンテナが付いていたラジオがヒット。カセット付きは「ナショナルマックGT」といって、マイクで電波が飛ばせるものが大流行であった。
テレビでは、中学生を熱狂の渦に巻き込んだ「ローラーゲーム」。
東京ボンバーズという、日本に強いチームがあって、ニューヨークチーフスと因縁の対決をやっていた。
ルールは簡単。一週100メートルほどのトラックをローラースケート(知ってる?)で時速40キロ以上で走りまくる。
ジャマーと呼ばれるヘルメットをつけた2人が、時間以内に、相手チームを何人抜きさるか?(抜いた人数だけ得点になる)。
要するに鬼ごっこのようなルールである。しかし、抜かれまいとして、ヘッドロックをしたり、ラリアットをしても良い。プロレス技をかけてもいいという、今やったらまた流行りそうなスポーツなのである。
男子チームに ミッキーと呼ばれる牛若丸のように身軽な選手がいて、もう勝てない!と誰もが思った頃に大逆転をしてくれたりした。
また、女子には佐々木ヨーコという選手がいて、女性なのにむちゃくちゃ強くて(美しくて)当時の中学生は、放送翌日の月曜日ともなると、みんな熱く語っていたと思う。
ドラマでは、「探偵物語」松田優作・主演である。これはDVDにもなっているから省きます。
アニメでは日本アニメを世界に知らしめた「宇宙戦艦ヤマト」であるが、これは、本放送の時(日曜日の夜7:30)は、他局に強力なライバルがいたため、
視聴率は10パーセントを切っていた。(NHKの減点パパ・猿の軍団などに押されていた)
ところが、本放送から2年が過ぎた頃、再放送(夕方4時)の視聴率が信じられないくらい上がってしまい、映画作成だのサウンドトラック発売だの「ヤマト現象」が起きてしまった。
(以後、ガンダム現象、マクロス現象、エヴァ現象と続く)
我が人生の3分の1ほどを紹介しましたが、とにかく長いですね~
実は、この中にも超オカシな体験をしているので 今後は小出しに
回顧録としてアップします。
もちろん ショートでね
ここまで読まれた方。お疲れ様でした。
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「うそつけや、病院のベッドの上じゃろうがー」
などという小学校の同級生がいたと思う。
しかし、リッキーパパは自分の家で生まれた。
その生まれた部屋が、やがて自分の部屋となった。
そう、今では珍しい 産婆さんばさんの手によって生まれたのだ。
結婚して2年目ぐらいに私は奥さんを連れて、自分を取り上げてくれた産婆さんに会いに行った。
すると、「おーおーあんたかぁ ○○さん家の2番目の子供か」
なんと、その産婆さんは自分が取り上げた赤ん坊の日記をちゃんと付けていた。
おどろき!
話を戻して、6歳までは尾道で暮らしていたが、ある日のこと、父親が、「オイ!引っ越すことになったから、なかよしのター坊にさよなら言ってこい」
「わかった!」
次の日、ター坊の家に行くと「ター坊!バイバイ」っと元気よく手を振って帰った。
(引っ越しの意味もわからずに)
おもちゃを段ボールに入れろ!と言われてその通りにし、どんどん広くなっていく部屋を見ていたら、だんだん不安になってきた。
車に乗って自分の見たこともない町に着いた。広島だった。
「あんたはこれから○○南小学校に入学するんだよ!」
「ター坊は?」
「あの子は尾道の小学校よねぇ」
「えっ?」
ここではじめて引っ越しの意味を知る。
そんな悲しみも数日で消え、やがて小学校の2年生になる。世間では「柔道一直線」や、「おれは男だ!」などの番組が流行していた。
そんなとき、父親が「おい!。引っ越すことになったぞ」「えっ?」
「仲良しの ひでこチャンにさよなら言ってこい!」
次の日、文房具屋さんに行って写真立てを買った。「ひでこチャン。引っ越すことになった。お別れだね。」
「じゃあ手紙を書くよ・・・」
初恋は引き潮のように消えていった。
今度は、山口県の宇部市。ここでは小学校の3年から5年生までいた。
5年生の同じクラスに すみこチャンという女の子がいた。
同じ班のその子は給食時間になると、パパの前に座るのである。
ここで給食早食いの私はひまを持てあまして、牛乳を飲んでるすみこチャンに ギャグをかますのである。
「さるのケツ!」とか、突然言うと
チャラリー 鼻から牛乳~ぅ♪
そう、笑いをこらえたすみこチャンは鼻から牛乳をたらしてしまったのだ。
そんなことが縁で彼女と仲良くなってしまい、いい感じ・・・・・
そんなある日、「オイ! 引っ越すことになったぞ!」
「ゲッ」
最後のデートに常磐公園を選び、観覧車に乗った。
宇部の恋は見送ってしまった観覧車のボックスのように、目の前を通り過ぎていった。
次に行ったところが島根県の出雲市。
ここで小学校6年生という小学校最後の一年を過ごす。そんなとき、となりのクラスのよし子チャンといつしか仲良くなってしまい、
たまたま父親も同じ仕事だったので、ご両家公認の仲となってしまった。
その当時、流行はやっていたものと言えば【自転車】である。
ブランドも「丸石自転車」「ミヤタ自転車」「ブリジストンサイクル」「ツノダ自転車」「ナショナル自転車」
などが子供たちにもてはやされていた。
特にブリジストンはトリアルタイヤという台形をモチーフにした全く新しいタイヤを開発し、
摩擦係数を減らしスピードをアップさせるという、当時の子供たちには何がなんだかわからないようなとにかくスンゲーものが搭載されていた。
さらに、「雨の日の制動力6倍!」をキャッチコピーに自転車にディスクブレーキをつけたモデルまで出た。
これには大人たちも舌を巻いた。当時町を走っていたカローラもサニーもドラムブレーキで、
ディスクブレーキなんぞはF-1マシンぐらいしか付いてていなかったような時代である。
(たぶん)
おまけに「フラッシャー」という、ウインカーとストップランプ、夜は2灯だとか、4灯のヘッドライトにテールランプ(車の後ろで赤く光っているやつ)も搭載され、
はては、ラジオ付きの自転車まで発売。(これは、セキネVX-GTO)
(自転車小僧の話に共感されたオジサン方がいらっしゃったら、御感想を・・・)
そんな、超高度経済成長を遂げる一方で、オイルショックという、世の中のトイレットペーパーが一気になくなる現象のさなか、
「おい!、引っ越すぞ!」
「こんどはどこ?」
・・・で、鳥取に行くことになる。よし子チャンには記念品として鉛筆立てをプレゼントし、最後に引っ越す日に会おう!と約束して・・・・
だが、当日、とうとう現れなかった。
キョロキョロ探し回っている自分はまるで
スーパーでトイレットペーパーを探す主婦のようであった。
出雲の恋は神話で終わった。
次に訪れた鳥取では多感な中学時代を過ごすこととなる。
さて、どの部活動に入ろうか?私は迷わず、テニス部に入った。
自己紹介の時、「私はこの部活に入ってデビスカップに出場したいです。」と、寝言のようなことを言い、先輩たちに大いに受けた。
自分で言うのも何だが、鳥取k中学校のエースにまで上り詰めた。
2年生の時の市大会の出来事だが、相手が3年生とも知らずに1回戦を勝ってしまった。
知らない生徒に「おまえら、すげーなぁ。あいつら3年生だったのによ!」と言われ、真実を知ったとたん、ガチガチに緊張してしまい、次の試合では同級生だったのに負けてしまう。
「ガラスのエース」と呼ばれるようになる。
そう、相手を知らずに対戦すると勝つのだが、「おめーらスゲーな。あいつらこの前の市大会で3位だった奴らだぜ!」なんて聞くと、「俺たちと試合しないか?」(・・・市大会1位のペアに申し込まれ)結果はおわかりだろうが、負けてしまう。
そんな、自分は何が得意で何を生かせばよいかわからない中学時代も終わりかけの3年生3学期のある時。
同じクラスのひとみチャンとなぜが相思相愛の仲になった。
なぜだかわからないが、仲間からも いいなー といわれる「さわやかカップル」になっていた。
そんな卒業間近な頃、「おい!、引っ越すぞ!」「今度は岡山?」
「ピンポーン 正解!」(父親)
鳥取の恋は、右手を高々と挙げて白ウサギに背を向け遠ざかる大国主命(おおくにぬしのみこと)のように通り過ぎてしまった。
さて、この頃、流行していたものと言えば、「ラジオ」である。しかもカセット付きのものが大変もてはやされた。
ブランドは、ナショナル、アイワ、ソニーなどである。
すごいシェアーを誇っていたのがナショナルで、ラジオだけなら「クーガー」という、ごっついアンテナが付いていたラジオがヒット。カセット付きは「ナショナルマックGT」といって、マイクで電波が飛ばせるものが大流行であった。
テレビでは、中学生を熱狂の渦に巻き込んだ「ローラーゲーム」。
東京ボンバーズという、日本に強いチームがあって、ニューヨークチーフスと因縁の対決をやっていた。
ルールは簡単。一週100メートルほどのトラックをローラースケート(知ってる?)で時速40キロ以上で走りまくる。
ジャマーと呼ばれるヘルメットをつけた2人が、時間以内に、相手チームを何人抜きさるか?(抜いた人数だけ得点になる)。
要するに鬼ごっこのようなルールである。しかし、抜かれまいとして、ヘッドロックをしたり、ラリアットをしても良い。プロレス技をかけてもいいという、今やったらまた流行りそうなスポーツなのである。
男子チームに ミッキーと呼ばれる牛若丸のように身軽な選手がいて、もう勝てない!と誰もが思った頃に大逆転をしてくれたりした。
また、女子には佐々木ヨーコという選手がいて、女性なのにむちゃくちゃ強くて(美しくて)当時の中学生は、放送翌日の月曜日ともなると、みんな熱く語っていたと思う。
ドラマでは、「探偵物語」松田優作・主演である。これはDVDにもなっているから省きます。
アニメでは日本アニメを世界に知らしめた「宇宙戦艦ヤマト」であるが、これは、本放送の時(日曜日の夜7:30)は、他局に強力なライバルがいたため、
視聴率は10パーセントを切っていた。(NHKの減点パパ・猿の軍団などに押されていた)
ところが、本放送から2年が過ぎた頃、再放送(夕方4時)の視聴率が信じられないくらい上がってしまい、映画作成だのサウンドトラック発売だの「ヤマト現象」が起きてしまった。
(以後、ガンダム現象、マクロス現象、エヴァ現象と続く)
我が人生の3分の1ほどを紹介しましたが、とにかく長いですね~
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