郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

豊後 岡城をゆく

2020-05-09 09:15:45 | 名城をゆく
(2019.3.30~2019.10.31)
 



 大分の中津市から岡城跡のある竹田(たけた)市に向かった。大分自動車道を走り、100km余りの道のりで2時間程かかった。竹田市は周辺が1,000m級の山々に囲まれた盆地にある。やたら岩穴のようなトンネルが多くて、誰が名づけたかレンコン町との異名がある。

 この竹田市は住みたい田舎の全国ランキング第3位(2014年)だとか。その理由は岡城跡と城下の古い町並みを歩いて知ることになった。
 
 

 

▲三の丸の高石垣   (国史跡)  

 

  
▲三の丸の高石垣  東方面から  
      


▲東に伸びる石垣
 



▲くじゅう連山  城跡から北東部を望む




 
▲豊後と岡城跡の位置

                        

 
▲市内には短いトンネルが多い




岡城跡のこと  大分県竹田市大字竹田字岡

 岡城は大野川の支流稲葉川と白滝川が合流する間の台地(325m、比高95m)に築かれた。

 伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟栄(これよし)が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。

  元徳3年(1331)大友氏の支族志賀貞朝(さだとも)が志賀城(朝地町)からこの城に移り、城を拡張している。この頃の岡城は現在の搦手の下原(しもばる)門が大手で、山麓の挟田(はさだ)・十川(そうがわ)の村落が城下町であった。

 天正14年(1586)12月嶋津義弘が大軍を率いて大友氏の豊後に攻め入った。大友方の諸城が次々と落とされてゆくなか、志賀親次(ちかつぐ)は岡城への再三の攻撃をよく食い止め、撃退した。翌年天正15年1月3日志賀氏はその功績により秀吉から感状を受けている。

 しかし、文禄2年(1593)の朝鮮の役で失敗を犯した主君大友義統(よしむね)が領地を没収されたため、志賀親次はやむなく城を去った。
 
 このあと岡城には文禄3年(1594)播磨三木城から中川秀成(ひでしげ)が入り、大規模な改修を開始した。志賀氏時代の大手門を搦手とし、西方に大手門を設けた。城下町は志賀氏時代の挟田・十川に加えて西方に竹田町が整備された。
 




▲岡城古城絵図 江戸中-後期(国会図書館蔵) 
 




 ▲豊後岡城全景 古写真明治初年 



        
▲豊後国岡城之図 案内板より



 阿蘇の溶岩台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、明和8年(1771)には本丸、西ノ丸など城の大半を焼く大火が起きている。

 明治維新後、廃城令に従って明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、残されたものは高く積み上げられた石垣のみとなった。
 
 「荒城の月」の作曲者として知られる瀧廉太郎(1879~1903) は少年期を竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たといわれている。
 


 
    
 ▲大手道の石垣               
 
 
▲上部が丸く加工された石塀             ▲上から振り返ると相当の勾配



 
▲大手門跡を上から見る  
 



▲平成11年模擬復元大手門(現在撤去、説明板より)
 


  
▲広い石階段の上には西の丸御殿跡がある 
 



▲西の丸御殿の東には家老屋敷が続く             
 


 
▲貫木御門跡   
 

▲この見事な高石垣は、桜の時期は絵になるだろう  
 
 
 
▲太鼓櫓跡      
 



▲下原門跡(搦手)


岡城案内マップ







雑 感

岡城跡の印象
 
  岡城跡は事前に地図や写真で想像はしていたものの、いざ大手道から石段を進むと上部が丸く加工された石塀が延び、その先に見上げるほどの高石垣に圧倒された。撮影スポットの三の丸の高石垣を見つけ、その場所に立って初めて岡城跡にやってきたことを実感した。

                                                 

▲この場所は絶景



 この城跡は中世の山城から近世の城に造り変えられているのだが、意外にも眼下に城下が見えない。

 俗世間を離れた城は、悠久の連峰に囲まれ、朝夕の光と月夜そして四季折々の木々の彩りが織りなす別世界となって、歴代の城主はそれを楽しんだことだろう。

中川家の家紋図柄のこと
 


 竹田市立歴史資料館に入ると中川家の家宝が多く展示されていた。武具等に描かれている家紋を初めて見たとき、変わっているなと思っていた。あとで中川秀成を調べるうちに、秀成の父清秀とキリシタン大名の高山右近とは従兄弟であり、秀成も若くして洗礼を受けていたことを知った。中川家のいくつかの家紋の中に中川久留子(クルス)というのがあって、図柄に十字架をモチーフにしていることがわかった。(下の系図参照)



※参考「日本城郭大系」、「角川日本地名大辞典」、「戦国 武家家伝」他


◆城下の町並み

▲竹田創成館  武家屋敷の入口付近    
 



▲武家屋敷 (殿町)

 

 
▲町屋   
                    
 

   
▲滝廉太郎の像(二の丸) ▲滝廉太郎記念館 滝廉太郎はこの旧家で12才から14才まで過ごした。
 

 
 
竹田市カイド たけた城下町散歩  (案内板より)




【関連】
播磨 三木城跡

豊前 小倉城をゆく

2020-05-08 09:20:46 | 名城をゆく
(2019.3.29~2010.10.31)
 

 

 











 小倉といえば映画「無法松の一生」で知られる祇園太鼓がある。毎年7月の祇園祭では山車が繰り出され、玄界灘の荒波をほうふつさせる太鼓の両面打ちの荒々しい音が響きわたる。

 その小倉に数十年ぶりに訪れると、駅周辺に走っていたちんちん電車は既になく、替わってモノレールが走り、街はビルが立ち並び大きく変貌しているのには驚かされた。

 現在小倉城跡は勝山公園として整備され、昭和34年に復元された天守は歴史観光のシンボルとなっている。



昭和34年の復興天守の建築前後


▲昭和32年(小倉城内展示)                ▲昭和34年 (小倉城内展示) 




小倉城跡のこと      北九州市小倉北区城内

 小倉は関門海峡を押さえ、九州の咽喉(のど)にあたる要所に位置する。秀吉による九州討伐後、天正15年(1587年)家臣の毛利勝信が企救(きく)・田川の両郡6万石を与えられ、小倉の城主となる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍で出兵するも、その間に小倉城は、中津城主※黒田官兵衛孝高に落とされた。

※黒田官兵衛孝高は、天正15年(1587年)秀吉から豊前国6郡、京都(みやこ)、仲津、築城(ついぎ)、上毛(こうげ)、下毛(しもげ)、宇佐郡の12万3千石が与えられ、豊前京都郡馬ヶ岳城に入り、翌年中津で築城を開始した。



▼福岡県行政区画図

(角川日本地名大辞典より)



 関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602年)、細川忠興が豊前1国と豊後2郡39万石の外様大名として中津に入った。そのあと、忠興は小倉城の大改修を行い、紫川を天然の堀とし城内に町を取り込む総構えの城を築いた。このとき築かれた5層6階の天守閣は黒塗り下見板張りの独特の構造で、「南蛮造り」「唐風造り」と呼ばれた。



▼豊前国小倉城絵図(国立公文書館 デジタルアーカイブ)

 


 忠興の跡を継いだ忠利が寛永9年(1632)肥後熊本藩54万石の領主として熊本城に移った。小倉城には、播磨明石から小笠原忠真が15万石の譜代大名として入城した。以後幕末まで10代、240年間にわたって小笠原氏が治めた。
・参考 「角川日本地名大辞典」他








▲絵図の部分             ▲航空写真 (国土交通省 1974)
 
 


 絵図には本丸を取り囲んで多くの堀が見られる。東の紫川や西の板櫃(いたびつ)川、そして寒竹(かんたけ)川や砂津川を取り込み幾重にも堀を張り巡らし,防御を厳重にしている。本丸、二の丸、三の丸の周辺に侍屋敷、寺社、町屋敷を組み込んだ大規模な惣構えの城となっている。
 現在、堀は天守周辺を残すのみでほとんど埋められ、道路や宅地に転用されているのがわかる。
 
 

 
▲西ノ口門跡             ▲鉄門跡に旧第12師団司令部の正門※

※第12師団司令部の正門が本丸入口の鉄門(くろがねもん)跡に残されている。司令部は明治31年(1898)建てられ、森鴎外が軍医部長を務め、この門を通り登庁していた。司令部は大正14年(1925)久留米に移転した。
 


 
▲下屋敷と庭園 (天守から撮影)  
     



▲下屋敷から見た天守




路面電車が走っていた昭和の小倉界隈

▼昭和35年小倉井筒屋から砂津方面 ▼昭和39年中央奥が市民病院  (小倉城内展示写真より)
 




【関連】
小笠原氏関連
・播磨 明石城をゆく 
・安志藩



豊前 中津城をゆく

2020-05-07 09:03:05 | 名城をゆく
(2019.3.24~2019.10.31)
 



   黒田官兵衛孝高の足跡を追って、播磨国(兵庫)から豊前国(大分)まではるばるやってきた。


 





 





 
▲おっくんとクロカンに遭遇                 ▲天守から山国川(中津川)河口を望む
 


 今から400年余り前、官兵衛は秀吉の命で家臣ともども、豊前(大分)に向かった。
播磨国から山陽道を下り、馬関(現在関門)海峡を渡りざっと600kmの長い道のりだった。播磨の武将を数多く引き連れて下ったことは、家臣に播磨の武将の名が多く残っていることで容易に想像できる。

 時代を経て、豊前中津城主は黒田・細川と代わり、小笠原長次が播磨国龍野(現たつの市)から移ってきた。小笠原五代の長邕(ながさと)が早死のため一旦は改易されたが、許されて長邕の弟長興(ながおき)が、安志藩1万石として、同じ道を通り宍粟郡安志(現姫路市安富町)に入った。

 このように豊前国と播磨国は武士の移動という面で歴史的なつながりをもっていることを意識しながら、豊前中津城に入った。



▼ 九州諸国





中津城のこと    大分県中津市二ノ丁
 
 天正15年(1587年)播磨国から黒田官兵衛が豊前国6郡(福岡県東部・大分県北部)12万3千石(18万石とも)の領主として入部し、翌年中津城の築城を開始したが、完成を待たずして福岡に転封した。慶長5年(1600)に細川忠興が入り本格的な工事が始まった。
 
    慶長7年(1602)には、忠興は小倉に居城を移し、この中津城は忠利の居城となった。元和6年(1620)に忠興は忠利に家督を譲り、翌年中津に隠居した。この頃中津城はほぼ完成し、城下町づくりが進められた。寛永9年(1632)に小笠原長次が城下の工事を引き継いだ。小笠原5代長邕が早死したため、改易された。そのあと享保2年(1717)奥平昌成(おくだいらまさしげ)が丹後宮津(京都府宮津市)から中津に入城した。奥平家は9代で幕末を迎えている。





▲中津城古城絵図 (江戸中期-後期 国会図書館蔵)




 


 中津城の天守は、昭和39年本丸北東の櫓跡に建てられ、その南に二重櫓が並んで建てらた。もともとこの城には天守はなく、櫓跡に模擬天守が観光用につくられたものだ。天守は歴史資料館として奥平家の宝物・古文書等が展示されている。
 城跡の見どころは、黒田・細川時代の石垣改修の跡。城の西対岸の小祝地区からも古い石垣がよく見える。




▲中央の継ぎ目より右が黒田、左が細川時代 
 
 

▲二重櫓 本丸上段の東面 (明治中頃の古写真)

 
 
▲本丸南の石垣  (明治に取り壊された石垣を復元している)



 
 
▲西門跡                ▲小倉口(小倉方面につづく小さな小倉橋)
 



黒田官兵衛の豊前での手始め

 豊前国6郡の京都(みやこ)、仲津(なかつ)、築城(ついぎ)、上毛(こうげ)、下毛(しもげ)、宇佐郡を領し、最初は馬ヶ岳城に入り、領内の検地を始めた。翌年山国川の河口のデルタ地帯に中津城の築城と城下町づくりを開始した。しかし領内の土豪の鎮圧※、文禄慶長の役・関ヶ原の戦い等のため築城途中で慶長5年(1600)に筑前福岡に移った。



豊前の第一の国人領主城井鎮房(きいしげふさ)の抵抗(※)

 城井氏は宇都宮氏が城井谷城を本拠としてから城井氏を名乗っている。城井氏は、周防の大内氏や豊後・筑後の大友氏の勢力に翻弄されながらも、豊前の最大の国人として勢力を維持していた。

 秀吉の九州征伐に城井鎮房は従った。秀吉から伊予国(愛媛県)に移封が命じられたが、鎮房はそれを拒み、秀吉に豊前の地の安堵を懇願したが聞き入れられず、豊臣軍(黒田孝高・長政・毛利勝信)と争うことになった。城井鎮房は地の利をいかした城井谷城に立て篭もり、豊臣軍の大軍を撃退した。そのあと黒田孝高による長政と鶴姫(城井氏の娘)との婚姻による和議提案を受け入れ、婚約成立の日城井鎮房を中津城に呼び寄せられ謀殺されてしまった。合元寺(ごうがんじ)に待機していた従臣を襲撃したときに、寺の白壁が真っ赤に染まったという。

 のち官兵衛は城井鎮房を謀殺したことを悔い、(一説に、中津城内に城井鎮房の亡霊が出たため)、城井神社を建てその霊を弔ったという。



 
▲宇都宮(城井)鎮房を祀った城井神社(本丸西)



如水村、如水原(ばる)を探って

   中津に如水村や如水原という地名があるのがわかり、官兵衛が隠居の号を如水としたことと関連があるのではないかと調べてみると面白いことがわかった。

 まず如水村を調べてみると、明治22年に助部(すけぶ)村・下池永村・是則(これのり)村・合馬(おうま)村・全徳村が合併してできた村とある。最初の助部村というのは、戦国期に見られる古い地名(村名)で、すけぶまたは、すけべと呼ぶとある。
助部の由来には、付会伝説として慶長5年(1600)黒田孝高が豊後統治に際して、当地で陣揃えしたとき、近村から多数の応募兵があったことから助部のがついたという話が載せられている。『角川日本地名大辞典』

 しかし、助部村は永正7年(1510)の古文書にみられ、黒田如水がこの地に来る以前からあったわけで、付会伝説とあるようにこの伝承はこじつけということになる。

 ともあれ、明治22年までこの助部村の住所は下毛郡助部村で存在し、出身地を答えるときは抵抗があったため、合併の新村名に如水伝説にちなんで如水村と名づけたと言われている。ちなみに、明治22年以降は如水村の助部は大字に表記され、昭和18年中津市に編入時に上如水と改称され、住所から助部は消え、下毛郡も平成17年郡内4町村が中津市に編入され消滅した。



雑 感

 官兵衛は豊前に入ってまず領地を検地し、中津を選んで城と城下町造りに取り組んだ。城は山城ではなく、海に面した河口に堀を巡らせ、本丸、二の丸等を石垣で取り囲み、近世城のモデルとなるような平山城の縄張りを引いた。官兵衛は築城の名手でもあったゆえんだろう。その築城の作業を遅らしたことの一つが宇都宮城井氏の抵抗であった。

 宇都宮城井氏は官兵衛親子の策略により一族は討たれた。婚礼という隙を突いたという手口が、龍野城主赤松政秀による播磨室山城の浦上政宗の息子清宗と黒田職隆の娘との婚礼の襲撃に似ている。この時花嫁の兄官兵衛は18歳前後、兄弟の惨殺を生涯忘れなかったと思う。(大河ドラマ「軍師官兵衛」では、黒田家の養女という設定。)

 それにしても、伝承ではあるが、花嫁鎮房の娘までもが山国川原で磔にされたというのは,非情な扱いであった。秀吉の指示命令の遂行とはいえ黒田親子の行動は数少ない汚点の一つで、黒田家は代々宇都宮城井氏の怨念による災いを気にしていたところが見受けられる。

 もうひとつ疑問が残る。宇都宮城井氏がなぜ伊予国への国替えを拒否し、勝てる見込みのない戦いを選んだのか。いつか機会があれば、城井氏の居城の城井谷山城周辺を見てみたいと思っている。




     ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 




耶馬溪(やばけい)の風景

 中津城から山国川を14km遡上したところにある青の洞門で知られる景勝地耶馬溪に立ち寄ってみた。この地へは2度目で、そびえる奇岩や青の洞門をじっくり見ることができた。
 しかし洞門の入口にあった数枚の写真が、2012.7.3と7.22山国川の氾濫で大きな被害があったことを教えてくれた。
 
 
 
▲耶馬溪                  
 


▲ここにも大河ドラマ黒田官兵衛孝高をPR
 

▲六十余州名所図会羅漢寺下道 豊前 ・広重作
(国立国会図書館蔵)
 


  
▲山国川の氾濫 (洞門の展示写真)


山国川のこと


 中津城の西を流れる山国川は、豊前国最大の川で、地域によって高瀬川、広津川とも呼ばれてきた。古代は御木川(みけかわ)とあり、川の流域は御木郡(みけのこおり)といっていたのが、御毛郡となり、のち川の左岸と右岸に上毛郡(こうげぐん)と下毛郡(しもげぐん)に分かれたという。




周防 岩国城をゆく

2020-05-06 09:13:05 | 名城をゆく
(2019.3.27~2019.210.31)i




  ずっと前に錦帯橋には行ったことがあったが、今回は所用のため九州へ行った帰りに立ち寄り、城山に登った。登ったといっても、ロープウェイ利用の楽な登城だった。
 


 




▲岩国城天守(昭和37年復元)
 




▲錦帯橋と岩国城
 
 
▲橋からの遠望                      ▲ロープウェイ 

 
▲二の丸の石垣             




▲出丸の石垣
 



▲復元天守台 半壊の石垣を復元した         
 



 
▲大釣井 山城でこれほどの大きな井戸は珍しい



   天候にめぐまれ錦帯橋から城の遠望や復元天守からの展望を楽しむことができた。清流錦川と錦帯橋そして山上の城が一体となった類のない名勝地であることを改めて感じた。
 


 
▲本丸からの遠望                     ▲ズーム
 



岩国城(別名横山城)のこと   山口県岩国市横山


 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍の総大将毛利輝元は東軍徳川家康に敗れた。 その結果、改易こそまぬがれたが、所領8カ国120万石から防長2国37万石と大幅に領地が削減された。 毛利輝元は広島城から山陰の山に囲まれた萩の地に移った(長州藩)。毛利元就の孫吉川広家は、岩国領3万石を与えられ出雲の月山富田城より当地に赴いた。
 
  慶長6年(1601)広家は、錦川がとりまく横山(標高216m)の山麓に居館、山頂に山城、対岸に城下町の建設に着手した。山城は、本丸と南西に二の丸、北東に北の丸、空堀等を配備し、山麓に領主の居館「御土居(おどい)」を築き、諸役所や上級武士の屋敷を配置し、錦川に大橋を架け、その橋に続く錦見(つるみ)に整然と町割りを設け、中下級武士屋敷と町家を整備していった。
 
 


▲鳥瞰 横山の山麓に武家屋敷・対岸の錦見に町家を配した  by Google Earth
 



▲案内板より
 


  
▲香川家長屋門 
 


▲目加田家住宅
 



 慶長13年(1608)山上には唐造り天守が完成した。それも束の間、元和元年(1615)に幕府の一国一城令※により、わずか7年で破却された。以後山麓の土居を陣屋として、幕末までこの地を治めた。

 萩藩(長州藩)は、藩を分割し、長府、徳山を分家させそれぞれ支藩とするが、幕府には岩国領を支藩とする届け出をしていないため、吉川広家は、長州藩からは家臣扱いとされ、諸侯の列席に加えられなかった。一方徳川家康からは岩国築城の許可を受け、江戸に藩邸をもち参勤交代も行う大名格扱いの待遇※を得ている。幕府の扱いは変則的ではあったが幕末まで変わらなかった。

※毛利家の場合は、周防国、長門国の二令制国なので、2城を残せるはずであり、周防国内の岩国城を破却する必要もなく、毛利家内部の支藩統制上の思惑が優先したためではないかと考えられている。

※関ヶ原の戦いでの吉川広家は家康と内通し、西軍に組みしても戦わないことを約束し毛利の所領安堵の保証を得ていたとされる。ゆえに戦後処理で広家が幕府の評価を得ることができたようである。

 吉川広家は、岩国領内の統治法を制定し、岩国の開発につとめ、広正がその跡を継いだ。次男は、吉見家に婿養子となり、その後毛利就頼(なりより)と改姓し、長州藩一門の家老となる。




 
▲毛利・吉川との略系図 



▲近世吉川氏の用いた家紋・九曜紋





雑 感

  川幅200mもある錦川に石脚に並ぶ5連のアーチは、江戸時代の諸国名所図会や国貞の浮世絵版画にも描かれおり、山陽道の往来の旅人たちが対岸から四季折々の奇橋を楽しんだことだろう。



 
▲六十余州名所図会(国立国会図書館蔵)          ▲諸国名所百景・広重(国立国会図書館蔵)
      
 

 
▲版画 高瀬舟の往来が見える  
     


    
 
▲風流な屋形船 錦川では鵜飼が行われていた                 



 この名所の図会や浮世絵版画に描かれた錦帯橋の背後にあったであろう横山の城は描かれてはいない。

 その理由は、岩国城(横山城)の天守は現在の復元天守の30mほど北側にあって、北の安芸国方面をにらんでいたので、築城時は大橋(錦帯橋とは呼んでいなかった)からは天守の頭部分だけしか見えなかったはずで、それもわずか7年間の幻の城だったからである。

 昭和の天守復元によって、錦帯橋と岩国城が一体となる絶好のビューポイントが生み出されたといえる。

 錦帯橋は、氾濫による流失が繰り返されてきた。それにめげず流されない橋に改良が重ねられたという。木の材質や組み合わせの知恵の結晶が独特の木橋を作り上げていった。今更ながら日本人の知恵・技術のすばらしさに誇りを感じている。




 
▲古写真 大正時代の修理作業             
 

 時間の都合上、城下の町並みは見ていない。いつか訪れる日に、錦見(にしみ)地区の往時の城下町の名残りを見てみたいと思っている。
 



▲アーチと城
  



▲錦帯橋周辺観光案内図より


出雲 松江城をゆく

2020-05-05 06:13:45 | 名城をゆく
(2019.3.27~2019.10.31)

 
 




▲松江城本丸天守
 
                   


▲天守より
 



 松江城の堀川めぐりの遊覧船はよく眼にする。この遊覧船はいったい数つあるのかと思うほどである。今は多くの観光客でフル回転のようだ。

 それもそのはず、この松江城は平成27年7月8日に国宝に指定されたことにより人気に拍車をかけているからだ。
  


  



 この松江城の国宝指定の経緯は、昭和10年(1935)に国宝に指定されながら、昭和25年(1950)の文化財保護法施行で不明瞭な歴史的事実があるとして重要文化財と格下げの扱いとされてしまった。それが平成24年5月、「慶長16年」と記載のある祈禱札の発見により天守の築城年月が確定された。それが大きな決め手となり、永年の市民の願いが叶い松江城が国宝に指定されたという。



 

※松江神社で見つかった木札
 




松江城のこと       島根県松江市殿町


 松江城は宍道湖畔の亀田山(標高28.4m)にあり、中世の時代には末次城があった。出雲の尼子氏が月山富田城に居城し、永年の宿敵毛利氏との熾烈な戦いにより敗れ、この城も毛利に落とされた。そうして、この地域は毛利元就の支配となり三代続いたあと、天正19年(1591)豊臣秀吉が毛利輝元に命じ吉川広家に与え、広家は月山富田城を居城とした。

 関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)吉川広家に代わって、堀尾吉晴が月山富田城に入り出雲・隠岐両国24万石を得て、三代にわたり支配した。この間に月山富田城から松江に城を移築している。慶長12年(1607)から5年の歳月を費やし、慶長16年(1611)に完成をみた。
 


 



   堀尾氏は三代続き忠晴に嫡子が無く改易され、京極忠高に替わるが嫡子無く一代で終わる。寛永15年(1638)松平直正が18万6千石で入封し以後十代続き明治を迎えている。

 


▲松江城古城絵図 江戸時代中期~末期 国立国会図書館蔵
 



▲松江城絵図(兵庫県歴史資料館蔵)
 
   

 

▲古写真  南東方面  中央が二の丸御殿広場 明治初期 
      



▲本丸一ノ門




▲千鳥橋(御廊下橋) 
 
             
 






▲塩見縄手通り 中・下級武士の屋敷跡
  
 


▲手前が小泉八雲の旧居
 




雑 感

 古風な松江城には、満々と水をたたえた外堀が途切れず城を取り巻く。塩見縄手には白壁・板塀の武家屋敷が立並ぶ。城と堀と武家屋敷が一体となって時代劇のセットさながら残されているのはなんともすばらしい。明治の破城令ですべての櫓は失ったものの、天守は残った。そして太平洋戦争での空襲を免れたことも幸いであったといえる。
 
 城の周辺にも見所がたくさんある。歩きつかれたたら和菓子にお茶で一服、小腹がすいたらそばもある。次回行く機会があれば、泊りがけで宍道湖の夕日百選の地に立ってみたいと思っている。
 



 
▲レイクラインバス(観光周遊バス) 
        

▲城下町の町屋
 

 

▲夕日の名所 袖師ヶ浦(そでしがうら)と嫁ヶ島   岸公園より
 



【関連】
●月山富田城