【閲覧数】4,296 件(2009.11.17~2019.10.19)
~秀吉の天下統一を強力に推し進めた軍師黒田官兵衛~
◇宍粟郡(宍粟市)は黒田官兵衛ゆかりの地
軍師黒田官兵衛は、篠ノ丸城・長水城が落城(天正8年・1580年)した4年後の天正12年7月18日秀吉より完(宍)粟郡の地が与えられ、領主として3年務め、天正15年に豊前国中津に移封しています。
▼羽柴秀吉知行充行状 黒田家文書より
[読み下し文]
扶助として、播州宍粟郡一職(いっしき)これを遣わし候。全く領知すべきの状 件(くだん)の如し。
天正壱弐年 七月十八日黒田官兵衛尉(くろだかんべえのじょう)殿 秀吉(花押)
※一職:他の支配を交えずに自分が思うがままに支配すること。
※領知:領有して支配すること。知行
それは官兵衛がはじめて、城持ち大名に取り立てられ、最初の知行地が宍粟郡であり、篠ノ丸城主となったと考えらられるゆかりの地なのです。
▼ 昭和10年代の篠の丸と最上山(さいじょうさん)
▼最上山から南東を望む 昭和初期
◇小説播磨灘物語
黒田官兵衛について書いた小説では、司馬遼太郎の「播磨灘物語」がよく知られています。そして、「街道をゆく」でも、~播州揖保川・室津のみち~で、宍粟郡山崎町と官兵衛の居城としての山崎城(篠の丸城)が取り上げられています。街道をゆくの中から、その関連の記述を抜粋してみました。
播州については「播磨灘物語」(昭和48~50年)を書いているころ、あちこちと歩いた。もっともこの小説は、主として東播の三木や西播の姫路付近が舞台だったので、歩くについても、ついそのあたりにかぎられた。たとえば因幡(いなば)とのさかいにつづく宍粟郡の山崎までは行っていない。
そのころ、山崎には行っていないことが絶えず気になっていた。
山崎は、三木や姫路のように播州平野の真っ只中にある集落ではない。因幡や但馬の山なみが播州の宍粟郡まで南下し、山崎で尽きる。山崎という地名は、京都府の山崎もそうだが、おそらく山なみの先端という地勢から出たものに相違ない。
「播州灘物語」という小説は、西播磨の土豪だった黒田官兵衛が主人公になっている。・・・
かれは自分の累代の居城である姫路城まで秀吉にくれてしまい、かれ自身は住まいがないまま、家族と家臣をひきい、姫路の北方十里の山里である山崎に移った。・・・
私は官兵衛が一時期居城とした山崎の土地に行ってみねばと思いつつ、ついに行かなかった。・・・画伯と私の共通の古い友人をさそって旅を楽しいものにしようと思い、歌人の安田章生氏に願い出てみることにした。
司馬遼太郎は、播磨灘物語を書き終えたあと、昭和51年(1976)に「街道をゆく」の播州揖保川・室津みちの取材のため、宍粟市山崎町に訪れ、そこから南下し、龍野を経由し室津への旅をしています。その内容は、「街道をゆく9」に収録されています。同行したのは歌人・国文学博士の安田章生(あやお)氏。(「揖保川下流吉福を在所とし、幼少を龍野・山崎で暮らした生粋の西播州の人」と文中に紹介されています)
◇官兵衛のあしどり
官兵衛の宍粟郡の知行は、天正12年から天正15年の豊前国中津に移るまでの3年間となります。姫路で生まれ、軍師としての秀吉に仕えた黒田官兵衛の播磨でのあしどりをこれからたどって見たいと思っています。
[参考] 『BanCul 2003秋号、同2009秋号』、『播磨灘物語』、『街道をゆく9』、『⼭崎町史』
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