地名の由来「播磨の国」
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播磨国の地名由来
播磨国風土記には、10の郡(こおり)を記述しているが、巻首の部分と明石郡そして赤穂郡が欠けている。巻首には播磨国の総記や播磨の地名由来が記されていたと考えられますが、残念ながら欠損しているため、その地名由来はその他の文献で推測するしかありません。
播磨は、最初の文献では針間と書かれています。
◇古事記には
播磨は、文献で初めて出てきたのは、最古の歴史書の古事記で、考霊天皇の状に「於針間氷河之前」「針間為道口」とあります。その内容は、神話時代の考霊天皇のころ、天皇の皇子二人が針間氷河(加古川)の岬で神を祀り、針間を山陽道の入口として吉備(岡山県)を平定したという。
◇旧事本紀(くじほんぎ)には
「旧事本紀※」によると、播磨国はもと針間国・針間鴨国・明石国の3か国に分かれており、それぞれ国造(くにのみやつこ)が置かれていたという。その国造の墳墓が、姫路市御国野の壇徳山、加西市玉丘町の玉丘、神戸市西区の五色塚と考えられています。
播磨国風土記の編さん以前は、針間と播磨の表記が混在していたようですが、風土記の作成指示の一つ、「地名は好字で報告せよ」により、「播磨」に統一されていきました。
※旧事本紀 : 平安時代から江戸時代にかけて日本最古の歴史書とされていたが、実際は本書の成立は9世紀初頭に書かれたと推定されている。内容が偽書ではないかと江戸時代判断されるようになった。しかし、一部の内容は、その他の文献にない独自の所伝があり、資料的価値があるとされている。
◇「播磨考」には七つの説
「播磨考」橋本政次著(1956)には、7つの説が挙げられています。
1、萩(榛)
2、針による
3、雨の晴れ間
4、張弓のような浜
5、潮の張るによる
6、浜の延音
7、開墾による
1は、神功皇后(じんぐうこうごう)が九州で熊襲を征伐しその帰りに、たつの市揖保町萩原(はいばら)の里に立ち寄ると、萩(榛の木・はんのき)が一夜のうちに高さ3mも育ち、皇后が萩原の間に井戸を掘らすと、水が溢れ出したので、それを萩間(はりま)の井と名付けられた。それが「針間の井」と書かれ、国の名となった。
3は、「神宮皇后が、ある日の晴れ間に御船を出し」た話から、晴れ間が播磨となった。
4は、市川河口東の浜が弓張りになっていた地形から「張り浜」が播磨になった。
7は、はりまのはりは、墾(は)りに通じ、「懇り浜」が播磨になった。
角川日本地名辞典には、「古事記」「日本書紀」には針間国と見え、幡間国とも書いた.「幡」「播」ともに「ハ」であることから、国名は「ハマ」に由来するものとみる説がある。 と記している。
このように、これだという決定打がありません。播磨風土記の欠損の冒頭の部分の播磨地名伝承を探り、出てくる様々な説。しかし、その答え合わせができないもどかしさがあります。
播磨(ハリマ)という発音で3音、漢字でたった2字の短い地名なのに、古の歴史に誘う呪文のような響きをもっているから不思議です。
参考:「播磨考」「播磨国風土記を歩く」「角川日本地名辞典」他
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