郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 鶴居・稲荷山城跡

2020-04-19 09:32:40 | 城跡巡り
【閲覧数】4,036(2014.3.17~2019.10.31)



  中国自動車道福崎インターから、播但有料道路に乗り継ぎし、市川町域に入ると左(北西)の川向こうに頂上に数本の木の見える山が目にはいる。それが今回紹介する鶴居・稲荷山城跡である。
 前回の谷城跡とは違ってかなり高い山で少し気合をいれ登城することになった。
 
 

▲稲荷山城 山頂に二本(実は3本)の高木が見える
 

 
 
鶴居・稲荷山城のこと   神崎郡市川町鶴居
 
 鶴居・稲荷山城は稲荷神社の背後に聳える稲荷山(標高433m・比高308m)にあり、南方に尾根筋が延びる。比高308mはかなりの高さなのだが、南の尾根筋が登山道になっている。

 この城は谷城とともに永良氏の城で、谷城の北方に位置し、険峻な稲荷山の山頂に築かれている。主郭(15m×34m)から南稜線に曲輪が8段ほど延びる梯郭式の城跡である。



 
 


 


 ▲地形図
 
 

但馬山名氏の合戦侵入路となった市川流域の街道
 

 室町期に播磨・美作・備前の三国の戦国守護大名となった赤松則村名(円心)は赤穂郡上郡赤松村の白旗城に本拠をおき、一族に命じ、北の守りのために国境の生野と市川流域に城を配置させた。これは宿敵山名氏の播磨侵入を防ぐための城であった。

  赤松は嘉吉の乱で幕府に討たれ、播磨・美作・備前の三国は山名一族のものとなった。赤松氏はお家再興をはかった後も宿敵山名氏と播磨で何度も戦いを繰り広げている。

 嘉吉の乱で戦場になった市川流域の戦い、再興した赤松氏が山名氏から播磨を奪回するため長期にわたる戦いの経過をまとめてみた。
 


嘉吉の乱による赤松の滅亡

  嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱で、赤松満祐が将軍足利教義を暗殺するという暴挙を起こした。赤松満祐は播磨に引き上げたが、やや遅れて幕府の追討軍の攻撃を受けた。その幕府軍の主力が但馬守護山名持豊(宗全)で、生野峠を突破し福崎の田原で赤松軍を制した。赤松満祐は守護館坂本城から城山城に移動するも追い詰められ、自刃する。結果満祐は赤松円心が室町政権下で得た播磨・美作・備前の三国の所領すべて失い、三国はそっくり山名氏の領地に塗り替えられてしまった。そして赤松の残党は一掃された。 ※永良氏は田原に布陣『赤松盛衰記』


 

     
    

お家再興を果たした赤松氏の旧領(播磨)奪回の動き

  長禄元年(1457年)赤松一族は南朝の神璽を奪還した(長禄の変)。この功により赤松政則が幕府から加賀半国の守護に任ぜられた。赤松が再興し、守護職に返り咲いたのは嘉吉の乱から16年目のことである。その後赤松は旧領播磨の奪回を計画し、宿敵山名を播磨から駆逐するため書写の坂本城を攻撃した。とりつとられつの戦いが延々と続き、赤松氏の失地回復に半世紀以上の期間を要した。
 

赤松氏と山名氏の戦いの記録

・ 応仁元年(1467)応仁の乱の勃発後に赤松政則は旧領の播磨・備前・美作の奪回に成功。
・ 文明15年(1483)山名政豊は真弓峠(生野町真弓)で赤松政則を破り、播磨・備前・美作を回復。
・ 文明18年(1486)英賀城・坂本城で赤松方と合戦するも山名方敗退。
・ 長亨 2年(1488)坂本城を脱して山名政豊は但馬に帰国。
・ 文永 3年(1523)山名誠豊が播磨へ出兵し、広峰山まで進出。
・ 文永4年(1524)書写で合戦するも敗退し、但馬に退却。
 

 
アクセス
 
鶴居中学校の北側に、案内板がある。右に折れ、墓地前の広場に駐車し、登山道に向かう。
 


▲左に入れば登山口、右に進めば稲荷神社
 
 
▲フェンス門の登山口
 


防獣フェンスを開け、登山整備された道を登って行く。ややうっそうとした杉林をぬけると、歩くほどに視野が広がる。
 
 

 
▲登山道 あと700m
 


山頂までの距離の表示があり、あと700mを過ぎたあたりから見晴らしがよくなる。
 


▲東南方面
 

平坦地を抜けると、やや急な斜面となり、ロープが用意されている。
 

 
▲ロープの登山道
 


 その先に堀切があり、急な崖状の曲輪の周辺に石垣が現れる。
 


▲この先に堀切がある                  



▲上方に石垣
 
 

▲本丸の下周辺の石垣                     



▲主郭(本丸)近く
 


いよいよ主郭(本丸)に到着。登山口から約1時間。
 
 

▲主郭からの展望は絶景
 



▲播磨灘の家島諸島を見ることが出来る           


▲山麓から見えた立木3本



▲北東の市川流域と山なみ
 


▲南西方面の展望
 

本丸の北側に石段がある。そこを降りると、主郭周辺に石垣が所々残っているのが見える。
 

 
▲本丸の北側の石段                         


▲本丸周辺の石垣
 



雑 感
 
 鶴居・稲荷山城の本丸からの展望はすばらしい。淡路島、家島(いえしま)群島上島、明石海峡大橋、飯盛山(いいもりやま)、七種山(なぐさやま)、七種槍(なぐさやり)、大嶽山(おおたけさん)、大中山登山道入口等の山頂からの表示板の方角に見入った。

 まさに市川中流域一帯と播磨灘が見通せる絶好の場所である。中世には東岸の飯盛山とあわせて街道ににらみをきかせたのであろう。
 
  鶴居・稲荷山城の東山麓に稲荷神社があり、この周辺から山頂に向かって大手道があったと推定している。しかしまだ確認していないのが心残りである。
 


▲本丸から見た飯盛山
 
     
▲この東尾根筋に大手道が?                      ▲稲荷神社
 
 
参考:「山名氏の城と戦い」
 
※関連
谷城跡1、2

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