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夏草や兵どもが夢の跡

地名の由来 「杉ケ瀬・木ノ谷・母栖」

2019-11-10 09:15:12 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名の由来 「杉ケ瀬・木ノ谷・母栖」    宍粟市山崎町


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山崎町神野地区内

■杉ケ瀬(すぎがせ)
「すいがせ」ともいう。揖保川の中流左岸に位置する。同川の支流母栖谷川(もすだにがわ)が本集落で本流に合流する。

【中世】杉瀬 室町期に見える地名。播磨国宍粟郡のうち。中世には神戸庄(神戸郷)に含まれていた。永禄・享徳(1429~55)頃のものとみられる年月日不詳の神戸本所・半済各々注文(伊和神社文書)に、「一、杉瀬」と見え、当地は伊和神社領であったが、伊和神社と地頭とで半済が行われていた(伊和神社文書)。

【近世】杉ケ瀬村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領、元禄元年(1688年)からは三日月藩領。寛文8年(1668年)対岸の田井村との間に渡し船開設。揖保川上流村々と山崎町出石船場との交通に重要な役割を持った。隣村との山論出入が多く貞享~元文年間(1684~1741年)神戸各村と争論。安政5年(1858年)母栖村との山論などがあった。神社は※山神社。明治22年神野村の大字となる。

【近代】杉ケ瀬 明治22年~現在の大字名。はじめ神野村、昭和30年からは山崎町の大字。



■木谷(きのたに)
揖保川中流左岸に位置する。

【中世】木谷 室町期に見える地名。播磨国宍粟郡のうち。永徳・享徳年間(1429~55)頃の神戸本所半済各々注文に木谷が見え、伊和神社と地頭とで半済が行われていた。(伊和神社文書)

【近世】木ノ谷村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。江戸期は木谷村とも書いた。慶長播磨国絵図(天理図書館蔵)に当村の名は見えない。しかし、慶長13年(1608年)の検地表には一村として書きあげられている(輝政様御代中村主殿検地人ノ覚)。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領、元禄元年(1688年)からは三日月藩領。

文久3年(1863年)生野の変のとき、挙兵に失敗した幹部たちのうち美玉三平・中島太郎兵衛・黒田与一郎・堀六郎らは山口村・神子畑村(以上現朝来町)から三方谷(現一宮町)を経て揖保川筋を南下当村に至り農民にたちに囲まれた。美玉は射殺、中島は自害、黒田は逮捕、堀は脱出したが、のち逮捕されたという。神社は、山神社。明治22年神野村の大字となる。

【近代】木ノ谷 明治22年~現在の大字名。はじめ神野村、昭和30年からは山崎町の大字。明治25年生野勤皇志士の慰霊のため山神社の境内に美国神社を建立、明治31年開眼供養を執行(宍粟郡誌)。昭和42年国道29号整備完了。



■母栖(もす)
揖保川中流左岸の杉ケ瀬から山道を東に入った山奥部にある。寿永3年(1184年)一ノ谷合戦に敗れた平維盛の妻富士局と家来の満友が逃れ住んだ所と伝えられ、維盛が隠住した阿波国の奥地を父栖とよんだという。

【中世】母栖 室町期に見える地名。播磨国宍粟郡のうち。享徳・享徳年間頃の神戸本所半済各々注文に「一〈同(本所)〉母栖惣山方へ5百文」とあり、伊和神社と地頭とで半済が行われ、当地は伊和神社領となっている(伊和神社文書)。

【近世】母栖村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領、享保元年からは安志藩領。慶長国絵図に、「茂須村」とみえる。安政5年(1858年)杉ケ瀬村との間に山論出入を起こしている。神社は、山神社。寺院は、浄土真宗本願寺派道場元。明治22年神野村の大字になる。

【近代】母栖 明治22年~現在の大字名。はじめ神野村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和59年関西電力総合技術研究所が太陽光発電システム実験場として山崎実験センターを建設。集落の北方に落差約40mの滝があり、母栖の滝または野原の滝といわれる。



◇今回の発見:平家の落武者伝説が身近なところにあった。「母栖と父栖」地名に秘められた切ない思いが伝わってくる。


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