播磨 篠ノ丸城跡 宍粟市山崎町横須・門前・上寺
山崎町の篠ノ丸(ささのまる:324.6m)、通称一本松の頂上に篠ノ丸城跡があります。城跡や麓近くの最上山には毎朝多くの住民が健康のために登っています。
この地は旧山崎町を眼下に菅野、城下、河東、神野、蔦沢地区の山崎町のほとんどが一望できる景勝地です。中世の14世紀の半ばに赤松一族により築城され、同族である宇野氏が居城していました。尾根上(登山口の正面奥と西側)に曲輪が配置され、畝(うね)状竪堀群や横堀がはっきり見られる中世では大きな城でした。しかし、天正8年(1580)の羽柴秀吉軍の侵攻により長水城とともに落城しました。
▼城址記念碑と城跡(主郭)
▼空堀跡
篠ノ丸城 跡
篠ノ丸城跡は、宍粟市山崎町の通称一本松の頂上にある。南北に流れる揖保川沿いの因幡街道と東西山間を抜ける街道との交点にある。
城主は宇野氏
城主は宇野氏で代々この地を治めてきた。宇野氏の姓名の地は佐用町米田周辺の宇野庄(荘園)である。赤松守護家と主従の関係を保ち前期の宇野氏は播磨8郡の守護代、後期は郡代として約200年近く本城篠ノ丸を根拠に宍粟郡とその周辺の地に影響力をもつ勢力を有していた。
中世・戦国期のモデル的城跡
篠ノ丸(標高324m、比高220m)の山頂には南北55m、東西40mの広い主郭と、30以上の曲輪・土塁そして、空堀・横堀・畝状竪堀・堀切等を設けている。中世・戦国期の山城の構成要素の多くを兼備えたモデル的城跡である。
大規模な畝状竪堀が意味するもの
特筆すべきは北側の斜面一面に約60本もの数の竪堀が畝状に敷かれている。レーザー立体写真にはっきりと浮かび上がっている。畝状竪堀は戦国期特有のもので、播磨にはいくつかの例はあるが、これほど大規模のものは見られない。
天正2年(1554)長水城の宇野政頼は篠ノ丸城にいる嫡男満景を父子不和のために家臣を差し向け満景を殺害したと伝わっている。(「赤松播備作城記」「長水軍記」) これを裏付けるかのように満景が当主となった頃天正元年(1573)毛利氏の外交僧安国寺恵瓊(えけい)自筆書状に宇野氏と織田信長との同盟交渉を破談に持ち込んだ旨の記述がある。この頃より宇野氏は織田と毛利の狭間で揺れ動いていたようで、竪堀や三重の堀切の配備・補強はこの父子対立のときのものか、あるいは反織田を決意したとされる天正6年(1578)の上月城の落城後のものであろうか。
満景制裁後は祐清(すけきよ)が熊見城(佐用町米田)より迎えられ宇野の当主となるも、最後は秀吉軍に追われ、父政頼とともに千種谷で討ち果たされた。
落城後の領主の変遷
天正8年(1580)4月篠ノ丸城落城。神子田半左衛門正治が宍粟郡を領し、そのあと天正12年(1584)黒田官兵衛孝高が領した。3年後龍野城主木下勝俊が領した頃より廃城となったようである。
宇野氏の三十六歌仙額の発見
篠ノ丸城の大手道にあたる尾根筋南麓に山崎八幡神社がある。近年その八幡神社に宇野一族(村直)が奉納した三十六歌仙額四面が鳥取県倉吉市の小鴨神社で発見され、国内最古級のものとして公開された。宇野氏が当時華やかな文化を身に着けていた証左と思われる。
八幡神社のある門前地区には大王寺、古屋敷という小字が残され、宇野氏ゆかりの寺跡、居館・屋敷跡があったものと考えることができるのである。
▲三十六歌仙額
▲山崎八幡神社
参考:『近畿の城郭Ⅰ』、『播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究』
※情報誌おくはりま2018 Vol.10 winter発行より転載
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