郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

最上山公園のもみじの魅力と歴史 

2020-11-06 09:01:39 | 2024最上山もみじ情報
2024最上山もみじ 紅葉最新情報 
⑥ 11月27日(木)
⑤ 11月23日(土) 
④ 11月19,20
③ 11月17日(日)
② 11月13日(水) Plus 波賀町長源寺、原不動滝の紅葉


▲2019.11.25  午前8時 落葉が美しい

最上山のもみじの魅力   (兵庫県宍粟市 しそうし

    西播磨北部宍粟市山崎町の市街地(城下町)に面した篠ノ丸城跡の山麓一帯の最上山(さいじょうさん)公園内がもみじの名所として知られるようになりました。
 この紅葉がいつ頃から人々に愛され、市外から多くの観光客が一度ならず何度も訪れ魅了し続けるのか。その知らぜらる魅力を探ってみました。
 少し長くなりますが、これを最後まで読んでいただければ、この紅葉の味わいもひとしおかと思います。



最上山公園のもみじの魅力と歴史

 最上山公園もみじ祭りはここ10年の間に県内外に知れ渡り、来客者が年々増えている。昨年(2018)11月23日(土)のイベント初日にインター付近から国道29号線にかけ大渋滞をもたらしたほどである。県内の有数のもみじの名所として多くの人々を魅了する最上山もみじ公園が形成された歴史には、大きな二つの転機があったことを当時の時代背景とともに探ってみたい。

大正から昭和の山崎町
 大正から昭和初期にかけて最上山のお寺と埴尾(はにお)神社(通称荒神さん)が桜の名所として郡内外から多くの来訪者が訪れるようになった。折しも当時は民謡づくりが全国的にブームになり、商工会や地元有志によって山崎町にふさわしい民謡づくりが計画され、人気民謡作家野口雨情と作曲家中山晋平が昭和7年(1932)初秋に山崎町に招かれた。一週間の滞在で、「山崎小唄※」や「宍粟民謡」が生まれた。山崎小唄には、山崎のシンボルとして、「あれは山崎 最上山 鐘が鳴ります、日に三度 ゝ 」このくだりが七小節の歌詞に何度も繰り返し唄われ、宍粟郡と山崎町が世にアピールされたのである。そこで生まれた民謡の中で「もみじ」が歌詞の中に現れたのがただ一つある。野口雨情作詞の「篠の丸の四季」である。「秋の紅葉は篠の丸 織るやあかねの唐錦 色とりどりにうつくしく・・」とある。ただ、雨情は初秋に来たために、その光景は見ていないが、おそらく近くの人たちに聞いて篠の丸のもみじを唐錦に例えてその美しさを表現したのだろう。そうして、その3年後に大きな転機が訪れたのである。

篠の丸公園の造成と鑑賞樹木の植樹
 一つは、昭和10年(1935)2月のことである。山崎町出身で東京都在住の木村説二氏の母が亡くなられ、冥福を祈るため郷土山崎に何か記念事業を残したい旨を竹馬の友前野佐吉氏に相談された。前野氏は日ごろの思いであった町の背後の山林を町民の健康と外客誘致の公園にする構想を木村氏に提案され、その実現が一任された。その意向はすぐさま時の町長である前野修二氏に告げられ全面的協力が得られることになった。山林の大半が町有林であったものの、私有地の買収が難航し、時間をかけて交渉にあたった。そうして2年間公園造成(道路建設、植樹、休憩所等の設置)が進められた。公園は篠の丸公園と名付けられ、篠の丸城址(通称一本松)から東南に延びる山麓をエリアとする。これは山崎の地名の元になった地形である。そこに植えられた樹木は、「鑑賞樹木」という名称で、楓650本、桜218本、ハゼ70本、ツツジ200本を植えたとある。この楓の種類については、野村楓200本、一行寺楓100本、山楓100本、250本。一本松とその参道、遊歩道、そして三つの休息所周辺に植えられた。 

 当時の写真や絵葉書を見れば、杉やヒノキ等の人工林はなく、自生の松林にもみじ、桜、つつじなどの目で見て楽しむ鑑賞樹をとり入れている。
 そのあと、40年の月日が流れ、昭和51年(1976)町の事業としてお寺の上の見晴らしのよい尼ケ鼻という場所に洋風の展望台を建て、遊具が一本松頂上、千畳敷、百畳敷に設置された。
 

 
▲篠の丸公園千畳敷 郷土写真版「宍粟郡」より         


最上山公園の整備ともみじの植樹
 次に大きな事業としてあげられるのが平成元年(1989)のふるさと創生一億円事業である。バブル景気の昭和から平成のさなか、国より支給された用途不問の交付金一億円の記憶は30年を経てなお記憶に新しい。
 当時の安井淳三町長は一億円の使途について町民にアンケート調査をして、最終的に7、8千万を公園整備事業に、残りは特産物の研究開発に費やしたと記憶している。後に聞いた話では、最終的に最上山の植樹に「もみじ」か「桜」のどちらか二つに絞られ、もみじが地質に合っているとの判断で決まったと聞いている。
 この時、篠の丸公園を、最上山公園と名を変え、公園を拡張整備し、もみじの植樹によって公園内のもみじは3,000本のもみじと400本の世界のカエデを有する紅葉の名所が生まれた。
 取材でわかったことだが、平成2年(1981)の大阪花博で取り寄せた外来種のモミジの種が山崎高校林業科で5年間育苗され、もみじ山に植樹されている。もみじの植樹への関係者の思いや育苗に関わった高校生の努力があったことも付け加えたい。

「篠の丸」が「一本松」、「篠の丸公園」が「最上山公園」に
   江戸時代後期、天保13年(1842)の市中分間絵図には、篠の丸の位置に松の絵が描かれている。篠の丸の頂上には少なくとも天保の時代より山麓から大きな松が見え、一本松と呼ばれるようになったのだろう。



▲市中分間絵図部分 天保13年(1842)


 ふるさと創生の公園化の時に、篠の丸公園から最上山公園と名を変えたとすでに述べたが、本来は、最上山(公園)といっていたのは、現在の展望台のある所(尼ケ鼻)の下に現在のお寺が建てられた時、その周辺をお寺の名称、「最上稲荷山経王院」からそう呼ばれるようになった。以来、「篠の丸公園」という呼び名はいつしか忘れ去られていったのである。

 ふるさと創生の植樹のとき、もみじ山はもみじ以外に子供に人気のクワガタやカブトムシのいるクヌギやコナラがあった。その他ヒノキ・杉、ふもとには竹林が混在していた。その自然豊かな山が、一部を残しただけでほとんど伐採され、その後にもみじが植えられたのである。同時に弁天池の水辺整備も加わり、幼少期の原風景が壊されていくようであり、当時はその公園化を手放しで喜べなかった。

 そうして10年20年の歳月が流れ、いつしかもみじ山が目を引くようになっていった。そのころ山崎町の女性グループによる「住みよい町づくりの会」がそのもみじの美しさを見てほしいと、平成13年11月26日に「第一回やまさきもみじ祭り」を開催し、来客者へ甘酒によるおもてなしを始めた。そうして毎年増加する来客者に対応するため宍粟市は、公園のもみじ管理、トイレ、ライトアップなど諸設備の充実を進めた。同時にもみじ祭りを成功させようと商工会・地元商店街や自治会の協力体制が徐々に浸透し、3年前には寄付を募りもみじ山の北東斜面に植樹がなされた。このようにもみじ山を観光資源として守り育てようという気運が住民の間に深まっていった。


貴重な観光資源を次世代に
 もう一度振り返ると、昭和初期、先人の奇特な寄付から始まった町民の健康と外客誘致の公園化、そしてふるさと創生事業による公園整備拡張と、もみじの植樹。この二つの事業がうまく重なりあった。ただ忘れてはならないのはその折々に加わった地域住民の熱意、協力があって生まれたものである。辛辣に言えば、戦後歴史的、伝統的な物が失われていくなかで、行政と住民が一つになって守り育てた数少ない成功事例なのかも知れない。

 今後はアクセスしやすい道路・駐車場の整備、そして公園周辺の再開発も視野に入れた取り組みが次世代に引継がれることを期待したい。それこそが、関西一いや日本一の紅葉の名所への夢の実現だと思うからである。

参考:『篠の丸公園と妙見堂』、『むかし懐かしい山崎の民謡を唄い語り継ぐ』、聞き取り調査等
記事 山崎郷土会報 No134 令和2.2発行より転載





昨年令和5年(2023)の情報
【もみじ情報】
・令和5年(2023)11月28日⑦
・令和5年(2023)11月24日⑥
・令和5年(2023)11月22日⑤ plus夜景
・令和5年(2023)11月18日④
・令和5年(2023)11月14日③ plus夜景
・令和5年(2023)11月11日②
・令和5年(2023)11月8日①
➡https://blog.goo.ne.jp/takenet5177/e/17f9d74fdc2db2a099117b5f018c046a
・篠ノ丸城跡
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